2018年各新作映画についての雑感①

2018年に見た新作映画への適当ひとこと感想。

 

デトロイト

白人が郊外に脱出したデトロイトダウンタウンで巻き起こる最悪の事態。ねっとりとしたドキュメンタリックなカメラワークもいいが、やはり演技。ジョン・ボイエガはどうしてもSWのフィンのイメージがあったから、こんなにシリアスな役もうまいのかとびっくりした。Black Lives Matterに呼応する、今作られる意義のある映画だったように思うが、アカデミー賞レースからは完全に無視。なんで?

 

『レディ・プレイヤー・ワン』

嫌いではないけれど、それほど熱心に好きかと言うと微妙。日本のアニメ(例:ヲタ恋)もそうだけど、とにかく顔のいいオタクしか出てこないのがTHE 欺瞞という感じで、まぁ~いけ好かんわな。個人的には、あまりゲームをやらない人間なので、微妙にノリ辛かったのもマイナス。『シャイニング』のオーバールック・ホテルの再現のところは素直に好き。

 

シェイプ・オブ・ウォーター

自分にとっては、そこまで語ることもないかな~という印象。ただ、冷戦構造化のアメリカ社会が背景にあるというのが、個人的にとてもポイント高い。郊外家と一軒家、モータリゼーション、”男らしさ”に縛られる男性と女性に求められる貞淑さ、等々。

 

孤狼の血

ヤクザ映画。とりえあずこういう映画を予算かけて作ってくれるだけでうれしい。

 

『バーフバリ:王の帰還

ふつうにおもしろかった。

 

『バース・オブ・ネイション』

思っていたよりも普通。トロント国際映画祭で配給権が史上最高額(たしか)、『国民の創生』と同じタイトルをつける挑発的な姿勢など、かなり話題になったものの、監督かつ主演かつ脚本のネイト・パーカーの大学生時代のレイプ疑惑で一気に鎮火して賞レースにも相手にされず、という本作。期待値は高く、だからわざわざ海外版のDVDまで買ったわけだが、正直肩透かしを食らった。まず、ナット・ターナー(奴隷反乱の首謀者、主人公)をキリストになぞらえるのはいいけれど、それ脚本書いたのも演じるのも自分ってどうなんだという、メルギブじゃないんだからさ…。ゴアな拷問シーンがあったり、最後は処刑されてさらし者になって終わるのもメルギブっぽい(史実だからネタバレじゃないよね)。ショットに厚みがないとか、まあ言ったらきりがないんだけど、映画作家としてはまだまだなんじゃないかなあ、と思わされた映画。

 

『シュガーラッシュ:オンライン』

リベラル、あるいは知的エリートの驕り。途中で退屈してウトウトしちゃったのもあるけど、とかくあまりいい印象のない映画。本当に『ズートピア』と同じ監督、脚本なのか…。

退屈という部分に関していえば、サスペンスが不足していたことが原因だろう。『ズートピア』が違う性格の2人がコミュニケーションを通してコンビ結成に至るまでの話だとすれば、『シュガーラッシュ:オンライン』は違う性格の2人がすれ違いを通してやっぱり…とコンビを解消するまでの話である。それでワクワクしろという方が無理だ。あとは、単に、「事件」とその「解決」というストーリーの軸が、『ズートピア』の方がきっちり作ってあるとこ。

それでもって、この映画のどこに自分がリベラルのヤダみを感じたのかだが、描写の生々しさが原因なのではないかと思う。考えてみれば『ズートピア』と『シュガーラッシュ:オンライン』はかなり似通った構造を持っている。どちらも「女の子が自分のなりたいものになるために、故郷を出て都会で夢を叶えようとする中で障害にぶつかっていく」お話だ。しかし、『ズートピア』の方がかなり寓話性は高い。なぜなら、『ズートピア』における田舎と都会の対比は、どの国や地域においても一般化し得る程度の描写に留まっているからだ。均質で、ともすれば保守的な田舎と、様々な人種、階層の人々が入り乱れる都会。対する『シュガーラッシュ:オンライン』はどうだろうか。こちらにおける田舎とは、こじんまりとした衰退していくばかりのゲームセンターであり、都会とは、時代をリードする巨大なIT企業の集積するインターネット世界である。意識的なのか、無意識的なのかは分からないが、自分の目には、これはシリコンバレーとラストベルトのメタファーにしか見えなかった。であるならば、いつも通りの日々が続いて欲しいと願うラルフの切実さ、故郷を出て都会に出ていくヴァネロペへの嫉妬は、「時代は変わっていくんだからさ」「友達なら足を引っ張るようなことしちゃあいけないよ」なんて分かりやすいメッセージで納得させられるほど軽薄なものには思えないのだ。また、ラルフが自分が望むものになれない、ヴィランとしての生を受け入れるしかない存在なのに対し、ヴァネロペは、バグであるが故に自由に生きられる、そして特殊な才能を持ったchosen oneだ。それがシリコンバレーに行くから、アンタはもう元トモね、なんて話ではなんとも釈然としない。一応、インターネットでいつも繋がってるからアタシたちは変わらず友達だよ、と救いはあるかのように見せているが。ただ、現実として、インターネットが発達したからといって、大学生になってから高校の友達とどれほど会うの?という話である。断言する。絶対に自然消滅する。情報化が進めば進むほど、実際に顔を合わせたコミュニケーションの価値は高まるのだ。ディズニー映画にこんな例えを用いるのもなんだが、NTRにしか見えないシーンが多々あった。

長くなってしまったが、この映画から感じる最大のリベラル的なヤダみは、まさしく西海岸ハリウッドのリベラルなディズニーのクリエイターが作っているという点だろう。つまり、ヴァネロペ側の人間だ。自分自身は、それなりにリベラルな価値観を信じているつもりだが、これじゃあ分断も深まるよ、と悲しい気持ちにしかならなかった。