『グリーンブック』は如何に白人のためのガイドブックとなったか

 『グリーンブック』を観た。単純な娯楽映画、ヒューマンドラマとして見るならば、笑えて泣けて、良くできた作品といって差し支えないと思う。

 しかし、一方ではスパイク・リーをはじめとして、アカデミー作品賞となった本作の価値に異を唱える人も少なくない。その理由はひとえに、この映画の持つ「白人向け」然としたストーリーにあるのだが…。

 

1.安心設計の白人キャラクター

 これは『それでも夜は明ける(原題:12 Years a Slave)』においても同様の批判があったように記憶している。要するに、奴隷制や黒人差別の問題を描くとき、現代の感覚を持つ白人からして共感可能な、”善良な白人キャラクター”を配置するかどうか、という話だ。

 苦難の道を歩んできたアフリカ系アメリカ人奴隷制や差別というものを描くとき、そこには恐怖や悲哀、社会への怒りといった感情が色濃く反映されている。そこに親切な白人なんて幻想は介入しようがない。しかし、一方でビジネスのことを考えたときには、白人観客が安心して見られるよう、往々にして善意に溢れた白人キャラクターが登場する。『それでも夜は明ける』におけるブラッド・ピットであり、『グリーンブック』においてのヴィゴ・モーテンセンだ。これは”白人の救世主”と呼ばれるキャラクター類型であり、ハリウッド映画の典型的な”あるある”と言える。

 『グリーンブック』は実話ベースだから仕方がないだろうと思われるかもしれない。しかし、この映画の原作はトニーの息子が書いたものであることに加え、ドン・シャーリーの遺族は『グリーンブック』で描かれる二人の関係性について「誇張しすぎだ」と批判している事実を考慮すれば、そう簡単に割り切ることもできない。*1

 であれば、今日、そのような”ハリウッドの伝統”たる、今まで何度となく作られてきた、白人に都合の良い「異人種間友情モノ」映画を作る意義とは何か、オスカーを与える意義はあったのか。そういった問いが投げかけられるのもしかるべきだろう。

 ここで思い出すのは、昨年公開されオスカー確実と謳われたものの、ノミネートすらされなかった映画『デトロイト』である。白人の監督(キャスリン・ビグロー)ながら、白人警官に囲まれて生きる黒人の恐怖を生々しく描いており、Black Lives Matter運動の吹き荒れる現代においても地続きの問題を取り扱っている。これは、大いに主観にもとづく邪推にすぎない。しかし、なぜ『デトロイト』がノミネートすらされず、『グリーンブック』が作品賞を与えられたのか。それを考えたとき、自分にはどうしても『デトロイト』には「安心設計の白人キャラクター」がいなかったから嫌われたのだ、としか思えない。

2.トニーというキャラクターの曖昧さ

 ここで一度、トニーというキャラクターの描き方について考えてみたい。

 まず、自分が疑問に感じたのは、トニーがどれほど黒人に対して差別意識を持っていたのか判然としない、という点だ。確かに序盤、黒人の使ったコップを捨てるというシークエンスで、トニーの持つ差別感情が印象づけられる。面接シーンでは、インド系らしき従者のことを「チンク」と呼んで軽んじるなど、やはり有色人種への差別意識を覗かせる。

 このように、確かに、トニーの持つ差別意識が読み取れるシーンもある。一方で、面接シーンを思い返してみれば、普通にドン・シャーリーと握手をしているし、面接後に立ち寄るレストランの店員のアジア人とは自然体で会話しているなど、どうもゴリゴリのレイシストという感じはしない。また、旅の序盤には黒人と一緒にギャンブルをしてはしゃぐ場面があったり、劇中一貫してドイツ人に対してステレオタイプな偏見を持っているところもあったりと、はじめから、単に粗野で無知で直情的な憎めない白人くらいにしか描かれていないようにも見える。

 そのようなキャラクター造形の曖昧さは、次の3点の問題を引き起こしている。①トニーにはじめから”適度”な差別意識しかないこと、②そうであるがゆえに、トニーが特に改心をしたり、禊を受け入れたりするような瞬間も描かれないこと、③トニーの親族も簡単に改心しすぎで、トニー周りの差別意識問題を”人情噺のバイブス”だけで解決している雑さ。

 『グリーンブック』擁護派は「普通の人々の自覚なき差別心に気が付かせるきっかけ」として、この映画を評価しているらしい。*2なるほど、確かに「日本には差別なんてない」とのたまう日本の観客の方々には、いい「きっかけ」になるかもしれない。しかし、本国アメリカの黒人の立場からすると、「一緒に旅をして仲良くなったから差別心はなくなったよ」「それを伝えたら周りの人も差別をやめてくれたんだ」というイマサラかつお花畑なストーリーの映画が作品賞となれば、落胆するのもやむをえず、といったところだろう。

3.問題の矮小化

 ともあれ、上記の指摘は、あくまでもプロット上の問題について。この映画に自分が抱く不信感は、もうひとつ、その問題と微妙に隣接したところにある。それは、差別を引き起こしている「システム」というものへの視点の欠如だ。

 

 現代のアメリカは”カラーブラインド”だと言われている。要するに、「昔のように黒人だからといって殴られることもないし、職を得られないなんてこともない。人種差別はなくなったんだ。」、という考え方である。これは、一面的には事実かもしれない。確かに、肌の色を理由とした差別は、少なくとも公然に行われることはタブーとなった。だが、アメリカの人口比に対する、刑務所の囚人に占める黒人の割合は突出して高いし、ゲトーに象徴される黒人の貧困は未だに解消されていない。これをどう見るか。カラーブラインドであるから、犯罪も貧困も個人の責任である、というのは容易い。しかし、それらは構造的に作られてきた「システム」の問題でもある。

 例えば、新自由主義的政策の中で、福祉の機能を刑務所に移管し、軽微な罪を極端に取り締まる"ゼロ・トレランス政策"のもたらす”監獄社会”化は、黒人の犯罪率を高める要因となっている。警察は治安の維持ではなく、罰金の徴収による予算の確保を自己目的化し、過剰な取り締まりを行うようになる中で、白人が多くを占める警察においては、その対象となるのは黒人である。もちろん、警官が路上の身体検査を行う上で、人種だけを理由にターゲットを定めていると特定することはできない。しかし、薬物を例にとれば、人種を問わずその所持率は大差ないのに対し、黒人ばかりが身体検査のターゲットとなるため、その犯罪率が実情よりも高くなっている。ここで厄介なのは、実際に黒人も罪を犯しているという点だ。

 要するに、罰金の徴収を自己目的化した警察組織が警官をアグレッシブな取り締まりに駆り立て、その歪みを引き受けているのが黒人であり、そして、そのようにしてかさ増しされた黒人の犯罪率の高さは、社会に「黒人は危険である」という意識を植え付け、黒人に対する警官暴力を加速させるというサイクルが存在するのだ。*3

 

 本題に戻ろう。黒人に対する抑圧は、何も白人の”お気持ち”的な差別だけが原因ではない。『グリーンブック』の劇中でも、南部のレストランで「私は差別主義者ではないが、黒人をここに入れないのは伝統、決まりなんだ」と追い返されるシーンがある。恐らくそれは一つの真実だ。彼らは黒人が嫌いで差別行為を働いたのではなく、決まりに従っただけなのだ。この映画では、”システム”のもたらす抑圧に、そこで一瞬、近づきはする。だが、結論は「差別は白人の気の持ちようで変わるんだ」というありきたりで、黒人を置き去りにしたものへと収束する。

 上述した”カラーブラインド”と”監獄社会”の話は、現代に蔓延る黒人に対する抑圧が、そんな単純な差別意識を超えた先にある問題であることを示している。であれば、”システム”の問題から目を逸らし、”感情”の問題に終始するのは、白人に対して手軽な処方箋、いやさガイドブックを手渡すようなものだろう。

 

 

 

 

 

*1:

「グリーンブック」の作品賞受賞に異論噴出 米アカデミー賞 - BBCニュース

*2:

『グリーンブック』否定論への疑問 ─ 「入り口」になる映画はいつの時代も必要だ | THE RIVER

*3:藤永康政(2015)「ファーガソンの騒乱 : 「監獄社会」と21世紀の人種主義」アメリカ史研究(38)、日本アメリカ史学会/ロイック・ヴァカン著 ; 森千香子, 菊池恵介訳(2008)『貧困という監獄 : グローバル化と刑罰国家の到来』新曜社、などに詳しい