2019年上半期に見た映画の話

2019年上半期に見た新作映画の総括。

 

S  海獣の子供 ブラック・クランズマン、アベンジャーズ/エンドゲーム

   魂のゆくえ

A  スパイダーバース、バイスアメリカン・アニマルズ、ファーストマン

A- バスターのバラード、グラス・イズ・グリーナー、プロメア

B  アクアマン、ちいさな独裁者、女王陛下のお気に入り麻薬王、運び屋

   ビハインド・ザ・カーブ、キャプテン・マーベル、シャザム、名探偵ピカチュウ

   ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ、僕はイエス様が嫌い、主戦場

C  ベルベット・バズソー、ミスター・ガラス、サスペリア、ギルティ、FYRE

D  幼女戦記、グリーンブック

E

 

幼女戦記

 作画、特に背景とかはしっかりしていたので好印象。でも内容は顔面アンサイクロペディア過ぎという感じ。テンプレソ連観といい、俺TUEE描写も相まって、かなりむずむずした。あとカルロ・ゼンが原作やってる漫画がキショい。アレでTwitterだとインテリぶってるところがFUCK。

・ベルベット・バズソー…

ナイトクローラー』の監督とジェイク・ジレンホールってことで期待値が異常に高かっただけに、全体としてはもう一声って感じだった。個々のシーンでは好きなところもあるし、アメリカの今の美術界のアルアル感は日本人にも十分共感可能。グラフィティを美術館に飾るのはリアルじゃねえ。

・ミスター・ガラス…

これは完全な偏見だけど、Twitterを見ていると「分かってる映画オタクは褒めるよね」みたいな雰囲気を感じて嫌になった。いや、なんやかんや、俺もシャマランは嫌いじゃないんだよ。この映画にしたって、それなりに楽しんで見た。でも、いい年して「俺たちみたいに才能のある人間は”世界”に潰されちゃうのさ」とでも言いたげな映画撮ってんのはどうなのかっていう。ミスター・ガラス、やっぱ大量殺人やってるし、それをダーク”ヒーロー”として描くのは、もっと内省的になれよ、と。

・ギルティ…

 これもハードルを上げすぎて蓋を開けてみたら、という一作。「音だけで推理しろ!」みたいな煽りばかりで、そういうミステリー要素に引っ張られてしまったものの、謎解き自体はわりと単純というか、特に捻りがなかった。90分退屈しないでいられたって時点で、考えてみればすごいんだろうけど、そこまで斬新な手法ではないし、思っていたよりも物語が立体的に感じられなかった。主人公の内省にスポットが当てられていくところが肝なので、そこに惹きつけられるかどうか。

 ・ビハインド・ザ・カーブ…

 地球平面説に囚われた人々に密着したドキュメンタリー。この21世紀に地球が平面だと言い張って譲らない人たちの存在というのは、それ自体がブラックジョークのようで思わず笑ってしまうが、単なる異常者ウォッチに終わらないのがこの映画の面白いところ。というのも、彼ら彼女らは、ファンタジーや神話、聖書の世界に没頭する狂人というわけでなく、認知の歪んでしまった一般人であり、そこにこそ我々の生きる世界のリアリティとホラーが感じられる。地球が平面であることを証明しようと、彼らが躍起になって行う数々の実験は、そんな性質をよく表している。つまり、彼らは、我々観客と同じ、この世界の基本的なルールに乗っかっていればこそ、科学的な根拠を提示することに固執しているのだから(もちろん、彼らの実験はことごとく”失敗”し、地球が球体であることを証明してしまうのであるが…)。

 私たちと全く違う世界観ではなく、同じ世界を少し違った角度から見ているに過ぎない平面説論者。この少し違った角度というのがキモで、それは要するに、ひょんなことから”そっち側”の領域に足を踏み込んでしまうかもしれない、というハードルの低さを意味している。また、一度”そっち側”に足を踏み込んでしまえば、”こっち側”の人間関係は次第に途絶えていき、いつしか居心地のいい閉じたサークルの中に浸ってしまう。そのサークルの中で恋愛が生まれ、名声を得られた日には…。ここまで言えばお分かりの通り、何もそれは地球平面説サークルに限ったことではない。クラスタ化の進行しやすいインターネット・SNSにおいては、特にそれが顕著であり、本作でもそういった時代が地球平面説コミュニティの活発化に寄与していることが触れられている。ミクロな着眼点の中に、意外にも普遍的な切り口が潜んだ秀逸な一本。

・主戦場…

 慰安婦問題について様々な立場の人間にインタビューをしながら、その真相に迫っていくドキュメンタリー。この映画の基本的なスタンスは「慰安婦問題を全く知らないアメリカ人男性がひょんなことから興味を持って調べてみた」といった感じで、大体はそういう論調かつ自分と同じようにこの問題を知らない日本人に紹介しようという目的意識が底にある。お堅いテーマではあるものの、初心者向けであり、また、前提知識のない人にもカジュアルに見られるように話運びや構成は簡素。そこを易しいと見るか退屈と見るか。

 はじめに基本の理解として日韓両者(というか日本の保守と日韓のリベラル)の主張を取り上げる。次に個別のマターごとに「20万人という数字は本当なのか」「性奴隷じゃなくて売春婦」「強制連行の定義とは」といったことを、具体的な史料をもとにしたインタビューから検討していく。ここでは一見、日本の保守派に理があるように描かれる。直接的な、そのものずばりの証拠が残っていないことに加え、輪郭を伝える史料というのも、どうやら強制連行や奴隷状態のなかったことを示しているらしい、と。しかし、後半になると一転。研究者らによる論理的な指摘や、上述したタームを用いる妥当性、実証的な史料の検証のつるべ打ち。ここで、多くの人が陥りがちな、「元慰安婦のお婆さんの証言だけ」「米軍も娼婦だったと言ってる」「当時の新聞にはっきりと軍が慰安所を取り締まってたことが書いてある」といった、史料の誤読をなぞり、それを解きほぐしてみせることによって、観客の慰安婦問題認識を転倒させる(そして史料批判の重要性が身に染みる)。それからラスト、話は慰安婦問題を飛び越し、日本の保守派を覆う異常な世界観や、それが政権をさえ覆っているという事実、そして、その一群の人々と権力を結びつけるある人物へと迫っていく──。とまあ、ここの話運びには、唐突、陳腐だ、また日本会議かという批判もあるようで、個人的にはそう言いたくなる気持ちも分かるのだが、しかし、そこが本作の持つ映画的面白さに寄与していることも確かだろう。ドキュメンタリー映画としても、インタビューやニュース映像を中心に組み立てている本作は、とりわけ静的でありエンターテインメント性に欠ける。しかし、慰安婦問題というミクロなテーマから、冷戦下での日本の政治に対するアメリカの介入や、政権と深いつながりを持つ謎の組織の存在に話が広がることで、陰謀モノ映画を見ているようなスリルが観客に強いインパクトを与える。そして、この国における慰安婦問題の核心とは、(劇中で持論をぶちまける保守論客を見ればわかる通り)非科学的な現実認識にこそあり、それは恐らく多くの現代日本に蔓延る問題に通底していることであろう。であればこそ、終盤の風呂敷の広がりにも、一定の説得力が生まれている。

・キャプテンマーベル/スパイダーバース…

 ストーリー的なことを言えば、どちらもオーソドックスながら力強いオリジンストーリー。ヒーローのヒーローたる所以とは、スーパーパワーを持っていることではなく、何度ひねりつぶされようとも困難に立ち向かう姿勢にこそ存在する。ブリー・ラーソンは男社会の抑圧=女らしさの強制(というかあれだけ発展した惑星の文明でもパターナリズムから脱しきれないのかというツッコミは脇において)の中にいて常に不愛想なのであるが、それ故にラストの「素手でかかってこい!認めてもらいたくば正々堂々と勝負だ!!」と息巻くヨン・ログをフォトン・ブラストでぶっとばすシーンは爽快感に満ち満ちている(『スパイダーバース』で言うなら、摩天楼を縦横無尽に飛び交うシーン)。理不尽を跳ね除けてRepresent meすることでヒーローの第一歩が始まるというメッセージは、女性に限らず、すべての人間を鼓舞するものであり、もちろんそこにある種の綺麗ごとを見る人もいるだろうが、やはりそういったシンプルな勇気づけが必要な時もあるのだ(というのを就活中の身としてはしみじみと感じた)。

海獣の子供/魂のゆくえ…

 実質『2001年宇宙の旅』なので良い。連綿と続く宇宙の、生命の歴史が、僕らの身体にも確かに息づいているのだというメッセージがなんとありがたいことか、という今この瞬間。まずは『海獣の子供』。良質なアニメ映画がコンスタントに上映される昨今のシーンの中で、本作の優れている点は、やはり作画と音響の質。五十嵐大介の原作の絵柄そのままに動き出すアニメーションは、その美麗で繊細な背景の作画と相まって、この作品世界に独特の実在感を与えている。とはいえ、リアルな作画という点に限って言えば、ピクサーのようなCGアニメーションに適うべくもない(例えば、今年公開された『トイ・ストーリー4』の、実写と見まごうばかりの背景には誰しも驚かされるだろう)。そこで、原作の荒々しくも繊細な独特の雰囲気をそのままに、この作品が説得力をたたえているのは、やはり細やかな音響によるところが大きいだろう。坂道を駆け下る主人公がマンホールを踏んだ時に鳴る金属の響く音や、海辺でせわしなく、しかし心地よく繰り返される波の、砂の、風の音。そのひとつひとつがさりげなく観客の耳に入り込み、文字通り波打ち際でヒーリング効果を堪能するごとく、作品世界に浸らせてくれる。

 では、そのようなアニメーションとしてのクオリティが、単なる視覚的・聴覚的な快楽をもたらす装置にとどまるかといえば、そうではない。上記のようなリアリティ=説得力の積み重ねは、ストーリーに対しても効果的に奉仕しているからだ。生命それ自体がテーマとなる本作においては、作品内世界の、そしてそこで描かれる人間や海の生物の実在感が、なによりも重要となる。故に、生命という、一見壮大すぎるテーマを扱っている本作ではあるが、堂々とストーリーのカタルシスを実現し得ている。

 そして、そのカタルシスとは、宇宙(そら)からやってくる来訪者の携えた福音と、そこから立ち上ってくる生命の賛歌にほかならない。真正面から受け止めるには、いささか素朴すぎるように思えるそれも、この不確かな情勢の世界において、そしてなにより、社会に放り出されるのか、あるいは放り出されることさえ叶わないのか不確かな状況に置かれている自分にとって、唯一確かな光明として、心に染み入るものがある。

 そういったニュアンスを、ややキャラクターが饒舌に語りすぎるきらいはあるものの、ひとつ、語らないが故に際立つ原作との差異がある。それは、物語の着地をどこに設定するかという点だ。まず、原作漫画と劇場版アニメの大きな違いは、前者が主人公るかのバックボーンを明確に示しているのに対して、後者がそれをほのめかす程度にとどまっているところにある。それによって、劇場版では、原作にあった主人公が特別な血族であるという設定と、そのような特別なものがありふれた世界、というおとぎ話のようなマジカルな雰囲気がそぎ落とされている。これが実によく作用していると思った。簡潔に記せば、原作が、なんとも言い表しがたい世界観の中で伸び広がるストーリーという印象があるのに対して、劇場版は、同級生との喧嘩から始まり、同級生との仲直りで終わる、というごくシンプルな成長譚に集約されている点が魅力だろうか。

 そこから生まれる劇場版の最大の妙とは、家族や学校で人間関係から疎外される主人公の抱える心のゆらぎが、宇宙の誕生より繰り広げられてきた生命の循環という最大公倍数的な物語を経ることで、自身も、そしてみんなもまたその環の中で生きる約数のひとつであるという、ある種の諦観によって収束するストーリーテリングにある。これは、不思議な世界の広がりを感じさせる原作ではなく、どこにでもいる普通の少女のひと夏の経験として物語の舵を取る劇場版ならではの切り口だろう。言わば、原作では、輪郭の掴めない世界のわりきれなさを、主人公がそのままに受容する=イニシエーションとして着地させ、対する劇場版では、世界の輪郭に触れた主人公が、そのままに自身や他者という個の輪郭を掴み、わりきること(というよりも、わりきった上で共有できるピースの存在を確信すること)がイニシエーションとして機能し、前向きに生きていく原動力になる、というように着地させているのだ。

 そして、そのように閉じていくストーリーであればこそ、多くの観客に共感可能な、開かれた作品としての価値を持つことができている。また、そのようなミニマムな物語を、観客に共感せしめるものとして成立させている要素のひとつが、前述したアニメーションのクオリティであることは言うまでもない。実在感を持ったアニメーションは観客をスクリーンに、主人公のるかにシンクロさせ、ついには、あの『2001年宇宙の旅』におけるスターゲートを思わせるシーン(テーマからすれば、むしろ『ツリー・オブ・ライフ』を例に挙げる方が相応しいかもしれない)において、キャラクターとともにそれを体験させることを可能とする。そこで描かれる宇宙や生命の躍動を体感し、日常の外側にあるなにかに触れることで、同時に、言語を介さずとも湧き上がる感動から、それが自身の内側にも脈打っていることを逆説的に知るのである。

 

 『海獣の子供』と同様、宇宙との接近──他者との和解、というストーリーを描いていたのが、『魂のゆくえ』だった。監督は『タクシードライバー』の脚本を務めたポール・シュレイダー

 本作の特徴は、徹底的に抑制されたカメラワークにある。『タクシードライバー』に対するセルフアンサー的な作品ということで、自分が特に気になったのは、車が出てくるショット。中盤までは、車を運転する姿を映すこともなく、あるのは車に乗降するショットのみ。必ず真横から捉えられ、スタンダードサイズのスクリーンに映し出されるそれらのショットがもたらす堅苦しい印象は、(信仰と社会の矛盾に思いを悩ませる)主人公の抑圧された精神状態と結びつけられているわけで、本作もまた映像と身体の結合がストーリーのカタルシスに昇華される映画として見ることができる。

 そんな本作のストーリー、カメラワークにおけるひとつの転換点は、やはり生命、地球の歴史を主人公(と観客)が追体験するシーン。例によって『2001年宇宙の旅』というべきか、『ツリー・オブ・ライフ』というべきか、そこで幻視する一連の映像によって主人公は何か答えのようなものに触れることになる。しかし、この映画の場合、目にするのは、美しい地球が環境破壊によって汚染されていく光景。その結果、主人公は環境破壊の主犯たる大企業と、大企業と癒着する宗教界との対決姿勢を固めていくことになる。つまり、映像的飛躍が、主人公の精神的飛躍とイコールで結ばれているのだ。

 そこから物語は加速していく。思いつめた主人公が夜の街で車を運転するシーンで、多くの観客は『タクシー・ドライバー』のトラヴィスを頭に思い浮かべるだろう。前述のように、それまで車の映るショットは極めて抑制されていたわけだが、ここにきて、ネオンの反射する車内でハンドルを握るイーサン・ハントの顔に寄ったショットを見せられ、我々は不穏さをを感じ、カタストロフを予感(あるいは期待)させられる。

 しかし、そこはやはりセルフアンサー。この物語の結末は、我々の想像を超えたところへと着地する。この映画の主人公、トラー神父は、トラヴィスとは違う決断をする。具体的には言及しないが、この映画の肝は、他者を通して宇宙を、地球を、生命を見た、というところにあり、そうであればこそ、あのような結末になったと個人的には感じた。何も、世界の輪郭に触れたとて、我々は特別な存在へと成れるわけではない。あるとすれば、それは精神的な成長(ここら辺の感じは『ファーストマン』ともリンクしている感じがある)。日常を、人生を、世界を生きる個人として、如何に目線を変えるかが重要であるのだと、『魂のゆくえ』は語りかけてくる。それは、図らずも『海獣のこども』と通ずるテーマであり、今を、此処を、自分を生きるしかない、平凡な観客にとって、なによりも勇気づけられるメッセージであり、人間賛歌を突き詰めたひとつのかたちなのだ。

 

・ブラック・クランズマン…

Fuck the police。よかったです。今になって思い返してみれば、タランティーノ的な映画的飛躍がありましたね。