資本主義の形を変えることより、世界の形を変えることを想像する方がたやすい

 「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」─とは、フレドリック・ジェイムソンスラヴォイ・ジジェクの言葉である。マーク・フィッシャーは、著書『資本主義リアリズム』の第1章のタイトルに、このスローガンを引用した。

 その第1章の中で、マーク・フィッシャーは、映画『トゥモロー・ワールド』を以下のように評している。

「『トゥモロー・ワールド』における災禍は、「これから起きるもの」でもなければ、「すでに起こったもの」でもない。むしろ、今まさに私たちはその中を生き抜こうとしているのだ。災難がある特定の瞬間に訪れることもなければ、世界は大きな爆発で終わるわけでもない。その姿は徐々に潰れ、消え、崩壊していくのだ。何が災難を招いたのか、誰にもわからない。害悪な存在の気まぐれとでも思えるほど、その原因は現在から切り離され、遠い過去のものになっている。負の奇跡、いくら後悔しても解けない呪い。そんな破滅的な状況は、呪いの起源となったものと同じくらい予測不可能な何かによってしか、和らげることはない。行動は無駄であり、意味のない希望にだけ意味がある。救いなき者が最初に流れつく場として、宗教や迷信がはびこる。」

 要するに、彼は、『トゥモロー・ワールド』で描かれるディストピアの形態に、資本主義リアリズムの現在を見出し、フィクションの中においてさえ、資本主義に代わるオルタナティブな価値観を提示し得ない現状を憂いていたのである。

ディストピア映画や小説とはかつて、想像力を駆使するための修練の場だった。そこで描かれる災難は、異なる生き方を発見するための物語的な口実だったのだ。しかし、『トゥモロー・ワールド』は違う。…」

 

 奇しくも、これらの評は、新海誠の『天気の子』を見る上でも、非常に意義深い視点を与えてくれるもののように思われる。Twitterでは『天気の子』に対する様々な反感や、ディテールの欠点に対する不満を吐き出していた自分だが、体系だって論じるにあたっては、何を中心に据えるべきか考えあぐねていた。そんな私にとって、上述のシンクロニシティは、”資本主義リアリズム”というキーワードを補助線として『天気の子』への恨み節を書き連ねるべし、という天啓となったのだ。

 しかるに、まずは、同様に資本主義リアリズムの観点から分析しうる『トゥモロー・ワールド』との差異を見出すことで、『天気の子』というアニメーション映画の輪郭を浮かび上がらせていきたい。

 

 そもそも、『トゥモロー・ワールド』で描かれるのは、延命の物語である。命を繋いでいった先にある希望=未来=子供に、人類の可能性を感じさせるストーリーだ。

 「18年の間、新しい子供が生まれなくなった」という特異な設定を持つ世界において、主人公セオの役割とは、お腹に新しい命を宿した女性をとある場所へと送り届けるアシスタントに過ぎない。もちろん、セオ自身のストーリーもある。学生運動から身を引き、一介の公務員に落ち着いたセオは、アルコールに溺れることで、現実から目を背けながら生きている。そんな折、かつての妻(反政府組織のリーダー)からある仕事を頼まれることで事件に巻き込まれていく。革命の夢に破れ、体制側に与しながら、その罪悪感故に自堕落な人生を送っていたセオにとって、命を未来に繋ぐその仕事を完遂することこそ、最後に残された自己実現であり、自己犠牲の中に役割を果たすことで、スクリーンの中の彼はヒーローとなる。

 ここで重要なのは、如何に今を未来へと繋いでいくか、という視点だろうか。例えば、『トゥモロー・ワールド』に織り込まれた資本主義リアリズムを象徴するキャラクターに、セオの従兄にして、文化大臣のナイジェルがいる。彼のオフィスには、ミケランジェロダビデ像や、ピカソゲルニカが陳列されている。それらを目にしたセオは「100年後に誰がこれを見る?こんなものを集める意味があるのか?」と問いかける。ナイジェルは答える。「そういうことは考えないようにしている」、と。この問答は、今を未来に繋いでいくための自己犠牲を選んだセオと、ニヒリスティックな快楽主義の中で今を消費するナイジェルの対比をよく表している。

 ことほど左様に、『トゥモロー・ワールド』とは、未来(に希望を見出し、希望があるのであれば我が身をなげうってでも守るのであるという)の物語なのである。そのような素朴な人間賛歌(、あるいは希望の到来を座して待つという姿勢)は、いささか楽観主義に映るかもしれないが、しかし、我々に感動的な作品として消費することを可能とするエッセンスでもあることは確かだ。

 対して、『天気の子』はどうだろうか。『天気の子』における災難、それは戯画化された気候変動に他ならない。しかし、社会に対する徹底的なシニシズムを内包したこの映画の中で、その災難の原因=過去は雲の上に押しやられ、ありえたかもしれない人間の可能性=未来は、東京とともに水没する。そして、キャラクターたちは引き伸ばされたイマに耽溺していく…。

 原因のほうに目を向けてみよう。確かに、地球の長い歴史を考えれば、自然環境もダイナミックに変化しているものであり、主人公の穂高が行った決断も、ある意味では、そのような自然の理に回収されうるものなのかもしれない。しかし、重要なのは、劇中に、不可逆的な変化を加える決断をした主体が存在し、そして、現実の世界においても、人間が自然に不可逆的な変化を加え続けている状況がある中で、そういったストーリーをうやむやに描きすぎているという点なのだ。

 一言でまとめれば、『天気の子』とは、あまりにも安直に今(の素朴な感情)を肯定する物語といえよう。そのような事態は、気候変動、地球温暖化という、人間の環境破壊が原因の一端であることが分かりきった事象をテーマにしながら、その正体を徹底的に覆い隠し、”害悪な存在の気まぐれ”として描くことによって可能となっている。そして、それこそが、マーク・フィッシャーが言うように、資本主義リアリズム文化の中で表象不可能な環境問題を、ファンタジーという風呂敷で包み隠したシミュラクルに他ならないというわけである。

 

 この『天気の子』の結末は自己矛盾に満ち満ちているわけだが、その矛盾を正当化する役割を担っているのもまた、資本主義リアリズムであった。

 実存的不安に駆られた主人公穂高は、地元を飛び出し、メガロポリス─東京に居場所を探し求め、あてどなく放浪する。その手に携えた”The Catcher in the Rye”が示すように、嘘っぱちまみれの大人の世界へ疑いのまなざし─やがては銃口─を向けながら。子どもを平然と性的搾取する歌舞伎町のキャッチ、法の奴隷と化した警察はじめ役人、狭量で物わかりの悪い大人たち。それらを憎む穂高は、やがて「晴れ女」というトリガーを引くことで、やまない雨という弾丸を降らし、薄汚い大人の世界=東京を沈めてしまう。

 それ自体は大いに結構だ。例えば、『JOKER』のクライマックス、アーサー・フレックがどうしようもないゴッサムシティにカオスをもたらしたことに少なからずカタルシスを感じる者であれば、『天気の子』の鑑賞後、小躍りをしながらバルト9のエスカレーターを下っていったかもしれない。しかし、そうはならない。3年後、再び故郷の伊豆諸島から戻ってきた穂高が目にしたのは、ポスト・アポカリプス風景にあって、植民地化の完了した、健全な経済活動に取り込まれた東京なのだから。水上バスによる交通網が行き届いた東京。オフィスや住居が平屋から高層マンションの一室にすっぽりとスライドした東京。東京農工大学が相も変わらず新入生を受け入れている東京。見る者の、行き場を失ったカタルシスは、最後の「大丈夫」の一言で、針を突き刺した風船のように萎んでいくに違いない。

 そもそも論として、自分の望む世界を実現した主人公が、何も失うことなく、ひたすらに周囲から肯定され続けることで迎えるエピローグというのは、物語としてバランスを欠いていると言わざるを得ない。だが、それを横に置いても、である。主人公が形を変えたはずのくそったれの東京は、自然環境という意味では、確かに不可逆的な変化を被ったものの、資本主義経済という意味では、なんらその形を変えることがなかった。そして、なによりも、それがポジティブに描かれているところこそ、頭を抱えたくなるような矛盾の正体といえよう。

 主人公が見ていた薄汚い東京は、そこに巣くうイヤな大人たちと共に沈んだわけだが、一方で、東京へ戻ってきた主人公を迎え入れてくれる大人たちがいる。表向きの、うんざりするような資本主義の象徴たる東京は水の底に消えたわけだが、主人公のこれからのカレッジライフや恋愛模様を彩ってくれるほどには健全な経済活動が営まれている。

 スクリーンに投影される、社会を滅ぼすほどにそれを蔑む主人公の、片や自分に都合のいい社会活動の選別(あるいは、いじわるな見方をすれば、生命の選別とも言えるかもしれない)の様は、やはり新自由主義のイメージと重なるものだ。(下記は、やはりマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』から引用)

「…ここで「表向きの希望」といったのは、新自由主義イデオロギーの面では国家を激しく非難しつつも、密かにその制度に頼ってきたからである。これは二〇〇八年の金融危機の際に、新自由主義信奉者の要請に応じて国家が金融制度の支えに駆けつけたとき、最も目覚ましい形であらわになった。」 

 

 まとめに入ろう。なぜ、これほどまでに『天気の子』は私を苛立たせるのか。その答えの一つは、この映画の、社会に対する目線の傲慢さにある。ボクとセカイが接続した物語の中で、中間項としての社会は見下げられ、その生活者たちは、徹底的に他者として描かれる。そして、それが行き着く先は、社会の表象としての東京の破壊であった。しかし、真に僕たちの生きづらさを緩和してくれるものは、社会において、公共圏を復活させることであり、コミュニケーションの”場”を手に入れることであるのは、言うまでもない。

 だが、考えてみれば、東京とは人間の英知の結晶であり、長い歴史の積み重ねの息づく都市である。先の台風による川崎市市民ミュージアムの浸水や、大学施設(図書館や研究室)の水没に、はたして君たちは喪失感を抱かなかっただろうか。過去の人類の残してきた知恵は、現代の私たちを生かし、未来においても活かされるものだ。『トゥモロー・ワールド』は、その意味で、未来に残すことの重要さに触れている。対する『天気の子』は、過去も未来も、海の底、奥深くへと追いやった。ただ、今この瞬間の、この感情さえ昇華できればそれでよいと謳いあげて。

 これらの事実を思うとき、『天気の子』の根底にある、社会─とそれを構成する人間─に対するシニシズムと、ニヒリスティックな快楽主義が立ち上ってくる。「大丈夫だ」とうそぶく資本主義リアリズムは、まだ人間の顔をしているだろうか?