2020年初逆張り、あるいは『ミッドサマー』感想

「自身の限界」と「世界の実在」を知るということ。アリ・アスター監督の前作『へレディタリー』に続き、今作『ミッドサマー』においても共通するモチーフだ。セラピー映画と言われる理由もそこにある。監督のプライベートな経験をもとにしたストーリーは、監督に、そして観客に、ナラティブを通して実存的不安を咀嚼させる。『へレディタリー』に描かれる箱庭療法、『ミッドサマー』に描かれるロールプレイングは、そういったテーマを分かりやすく提示している。

 しかし、なぜこうも『ミッドサマー』ばかりが人口に膾炙し、なぜそれが気に食わないのか。何を隠そう『へレディタリー』は、2018年の新作映画の中でも指折りに気に入った作品だ。対して『ミッドサマー』は、もちろんよくできていることは認めるけれども、インターネット上で妙なブームになっていることが鼻につくほどには好きではない。単に、家族関係に悩む童貞クサい少年が主人公の前者と、恋愛関係に悩む女子大学生が主人公の後者という二択を前に、交際経験のない自分がナニクソと思わされるということ以上の差が、その二つの映画の間には横たわっている。

 それらを分かつものの正体とは、「他者」に対するまなざしのあり方だろう。両作品の主人公はともに、受け継がれてきた大いなる計画に飲み込まれてしまう。『へレディタリー』の少年は、文字通りに命を落とす。ここで観客は、「世界のままならなさ」を知ることになる。どうしようもないほどに運命的な世界の理の前に埋没していくことで明らかとなる「自身の限界」は、翻ってその世界に対する了解に「他者の存在」が不可欠であることを意味する。ヤスパース的な、コミュニケーションを通じて他者と結びつく営為に宿る「哲学」の可能性だ。つまり、この主人公の死は、逆説的に、見る者へと「存在への問い」を投げかける。スクリーンの中で死にゆく主人公に己を見ればこそ、世界との関係性を意識する契機として、この『へレディタリー』はセラピー足り得るわけだ。

 では、『ミッドサマー』の少女はどうか。前半、彼女はストーリーの中でひたすらに精神的な下降を辿る。家族の死、恋人との不仲、奇怪なカルト集団の衝撃。これらの経験は、彼女に「世界のままならなさ」を、そして「自身の限界」を示唆する。ここまでは、やはり『ミッドサマー』は『へレディタリー』と同じ道を歩んでいる。しかし、それらを経た後半に、彼女はカルトの女王として再誕することを受け入れるのだ。そのカルトでは、季節の巡りに例えられた人間は、老いれば殺され、若き血は外部より補填される。円環的時間構造の中で、時間の可変性によって立つコミュニティは、そのような変化を受け入れて存続している。はずなのだが、彼らにとって他者は儀式の道具にすぎない。絶対的に他者を渇望していながら、一方で究極的に他者と切断された、カルトがカルトたる所以である。そのような、「他者不在」のコミュニティで、女王という役を演じる少女の魂に救いはあるのだろうか。役割に身を委ねることは、一つの肯定の在り方には違いない。しかし、小さな世界の中で肯定された価値観を拠り所に、実存に蓋をして生きていく結末をして、如何にセラピーと呼べようか。その悪夢的な結末を悪夢として楽しむ勇気がないのならば、インターネット大喜利したさで見に行ったとしても、得られるところはないだろう。

 

▼今年に入ってから見た新作映画

『ロング・ショット』

『パラサイト』

ジョジョ・ラビット』

『リチャード・ジュエル』

『ナイブズ・アウト』

『フォードvsフェラーリ

『1917』

『彼らは生きていた』

 『ミッドサマー』