2020年初逆張り、あるいは『ミッドサマー』感想

「自身の限界」と「世界の実在」を知るということ。アリ・アスター監督の前作『へレディタリー』に続き、今作『ミッドサマー』においても共通するモチーフだ。セラピー映画と言われる理由もそこにある。監督のプライベートな経験をもとにしたストーリーは、監督に、そして観客に、ナラティブを通して実存的不安を咀嚼させる。『へレディタリー』に描かれる箱庭療法、『ミッドサマー』に描かれるロールプレイングは、そういったテーマを分かりやすく提示している。

 しかし、なぜこうも『ミッドサマー』ばかりが人口に膾炙し、なぜそれが気に食わないのか。何を隠そう『へレディタリー』は、2018年の新作映画の中でも指折りに気に入った作品だ。対して『ミッドサマー』は、もちろんよくできていることは認めるけれども、インターネット上で妙なブームになっていることが鼻につくほどには好きではない。単に、家族関係に悩む童貞クサい少年が主人公の前者と、恋愛関係に悩む女子大学生が主人公の後者という二択を前に、交際経験のない自分がナニクソと思わされるということ以上の差が、その二つの映画の間には横たわっている。

 それらを分かつものの正体とは、「他者」に対するまなざしのあり方だろう。両作品の主人公はともに、受け継がれてきた大いなる計画に飲み込まれてしまう。『へレディタリー』の少年は、文字通りに命を落とす。ここで観客は、「世界のままならなさ」を知ることになる。どうしようもないほどに運命的な世界の理の前に埋没していくことで明らかとなる「自身の限界」は、翻ってその世界に対する了解に「他者の存在」が不可欠であることを意味する。ヤスパース的な、コミュニケーションを通じて他者と結びつく営為に宿る「哲学」の可能性だ。つまり、この主人公の死は、逆説的に、見る者へと「存在への問い」を投げかける。スクリーンの中で死にゆく主人公に己を見ればこそ、世界との関係性を意識する契機として、この『へレディタリー』はセラピー足り得るわけだ。

 では、『ミッドサマー』の少女はどうか。前半、彼女はストーリーの中でひたすらに精神的な下降を辿る。家族の死、恋人との不仲、奇怪なカルト集団の衝撃。これらの経験は、彼女に「世界のままならなさ」を、そして「自身の限界」を示唆する。ここまでは、やはり『ミッドサマー』は『へレディタリー』と同じ道を歩んでいる。しかし、それらを経た後半に、彼女はカルトの女王として再誕することを受け入れるのだ。そのカルトでは、季節の巡りに例えられた人間は、老いれば殺され、若き血は外部より補填される。円環的時間構造の中で、時間の可変性によって立つコミュニティは、そのような変化を受け入れて存続している。はずなのだが、彼らにとって他者は儀式の道具にすぎない。絶対的に他者を渇望していながら、一方で究極的に他者と切断された、カルトがカルトたる所以である。そのような、「他者不在」のコミュニティで、女王という役を演じる少女の魂に救いはあるのだろうか。役割に身を委ねることは、一つの肯定の在り方には違いない。しかし、小さな世界の中で肯定された価値観を拠り所に、実存に蓋をして生きていく結末をして、如何にセラピーと呼べようか。その悪夢的な結末を悪夢として楽しむ勇気がないのならば、インターネット大喜利したさで見に行ったとしても、得られるところはないだろう。

 

▼今年に入ってから見た新作映画

『ロング・ショット』

『パラサイト』

ジョジョ・ラビット』

『リチャード・ジュエル』

『ナイブズ・アウト』

『フォードvsフェラーリ

『1917』

『彼らは生きていた』

 『ミッドサマー』

Rise of Skywalkerって言われると、え?今までRiseしてなかったの?レイアとか頑張ってたじゃん?って気持ちになるよね

スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』ネタバレ雑感。

 

・最初のピョンピョンとハイパードライブ繰り返すシーンは良かった

 

パルパティーンが死んだのか死んでないのかよく分からない(本人曰く「私は既に死んでいる」けど肉体あるし)。クローンだって言うなら見た目がアレになってるのもおかしい。そもそも肉体的に死んでいようといまいとアナキンの最期の決断は何だったのかって話になる。

 

・惑星パサーナ。「宇宙には色んな人たちがいるんだ…!」と言わんばかりにネットリと映していくわりに、如何にもアラブ感というかイスラム感というか、想像力が乏しくないか?なんかガキどもが紙芝居みたいなの見て笑ってるシーンもクローズアップとか笑い声とか「子供たちの笑顔を守らなきゃ…!」という平坦なメッセージのわざとらしさだけが際立って腹立つ。あとその笑顔も実際にはそんな表情にゃならんだろ、ディズニーのアニメじゃねーんだからって感じ(まぁディズニーなんだけど…)ともかく、エキゾチックな雰囲気の星に行って、その住人を庇護すべきものとして描いちゃうところが、ディズニーの伝統もといオリエンタリズム感じてイヤになりました。

 

・チューバッカ殺すくだり。いや、そうはならんやろ…。

 

・秘密の暗号が短剣に刻まれた古代言語っていうアナログ感。結局アナログが一番信頼できるっていう寓話?

 

C-3POが初期化しちゃうくだり。R2-D2に入ってたバックアップで無事復活ってどうなの。あのC-3POにはあのC-3POのゴーストが宿っているわけで、単純に記憶を植え付ければ(最近の記憶がないだけの)同じ人になるわけではないだろうが…。作り手がキャラクターに何度も「ドロイドを侮ってはあきまへんえ」みたいなセリフ言わせてるくせに、お前らが一番ドロイド舐めとるやろって話だよね。そこ中途半端にやるくらいだったら削って尺短くしろ。(JJはちゃんと攻殻機動隊S.A.C 2nd GIGを見て勉強しろ)

 

・エンドアの月。なんか短剣からニュッと出てきたパーツがウェイファインダーの在処を示すらしいけど、あんなに波強かったら侵食で地形変わっちゃうよね。そもそも夜明けの海が穏やかなタイミングで渡ろうって話だったのに、レイもフィンも普通に小さい船で渡っちゃうし。

 

・D-O、練馬をレペゼンしてるラッパーみたいな名前のくせにマーチャンダイジング然としたキュートなロボット。コイツがエクセゴルのヒントを握ってる、とフィンが発見したのに、結局「(ウェイファインダーを入手した)レイの後を追っていけばいいんだ!」って。ならその前の展開全部無駄だし、D-Oの存在意義もないじゃん。

 

パルパティーン、最初は「レイを殺せ」って言ってたのに、次は「レイよ、私を殺してお前がシスの皇帝になれ」つって、それを拒否されたら「レイとレンのフォース奪ってワシが復活するのだ!」っていう一連の流れがマジで謎。レイ、パルパティーンを殺すことを拒否したのに、最後は結局フォースライトニング跳ね返して殺してるのも、それでいいのか感。(じゃあどうやってパルパティーンを処理すればよかったのって話になるけど、そこはやっぱりフォースで生命力を与えて傷を治せるっていうのが伏線だと思うんですよ。つまり黄金体験─ゴールド・エクスペリエンス─だよ!逆にフォースを与えまくって生命力の過剰供給からの暴走とかそういうオチのつけ方の方が理にかなってるだろ。JJはちゃんとジョジョの奇妙な冒険を読んで勉強しろ)

 

・レイとレンは一対のフォースの持ち主っていうなら、それを活かした結末にして欲しかった。まぁそれは8でやっちゃったっていうのもあるんだろうけど。パルパティーンを倒すのにも、最後はレイの独力で、使う武器もルークとレイアのライトセーバーって、流石にレイとレンの絆を描いてきた今までのストーリーはなんだったのかという。あとから駆けつけてきたレンがレイにフォースを与えて生き返らせてから死ぬって話をやりたかっただけだろ。

 

・そもそも今作は唐突なメロドラマが多すぎる。ポーしかり。フィンしかり。レイとレンがキスをするところしかり。それ必要か?特に最後。特別な絆で結ばれてるって話でいいじゃん。

 

・フィン周りのメロドラマ要素、1番錯綜していて何がやりたいのか分からない。ローズとか露骨に出番減ってるし、ジャージャーから学ばねーな。

 

・古参ぶってエンドア上空で大破するスターデストロイヤーを眺めるイウォークの画面は面白い。面白いだけ。

 

・タトゥイーンで双子の太陽をバックにしたシーン、重なる太陽とBB-8を並べるギャグ(ギャグだよね?)が流石にセンスを疑う

 

・BB-8、もともとポー・ダメロンのドロイドなのにレイに懐いてる感じがちょっとポー可哀想

 

・ラストでレイがパルパティーン姓を名乗らなかったやつ、それはしゃーないかなって思うんだけど、だからってスカイウォーカー姓を名乗るの、どうなの。スカイウォーカーの意志は受け継がれていくって話なんだろうけど。これまで「血」というしがらみや、それとどう向き合うかをテーマにしてきたシークェルだけに、スカイウォーカー姓を名乗っちゃうなら結局これって「イエ」制度の物語ではあることに変わらないし、じゃあやっぱり旧いシステムからの解放は遂げられてないじゃん、という気持ち。

 

・全編通して1番つらかったのはレイとフィン、ポー、あるいは仲間たちとの協力が全く描かれなかったこと。砂の惑星パサーナにしろ、チューイを救出するために潜入したキジミ上空のスターデストロイヤーにしろ、エンドアの月にしろ、せっかく3人でいるのに、レイが勝手に単独行動を取って、そのせいで周りの生命を危険に晒したり余計なトラブルを生んだりの繰り返し。最終決戦もレイは1人でパルパティーンを倒しちゃうし、さして縁があるわけでもないタトゥイーンでも1人で黄昏ちゃう。ストーリーを通してレイがそんな自分を省みたり、仲間の大切さを実感するようなシーンがない。7ではそれなりに演出されていたクルー感もゼロで、ただひたすらに強いレイが独走してるだけ。フォースの使い方の前に学ぶべきことがあるんじゃないか?レイのストーリーの裏で「共和国やレジスタンスが力を合わせて強大な帝国に立ち向かうんだ」という戦いをやっているだけに、余計にその虚しさが際立つ。

 

資本主義の形を変えることより、世界の形を変えることを想像する方がたやすい

 「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」─とは、フレドリック・ジェイムソンスラヴォイ・ジジェクの言葉である。マーク・フィッシャーは、著書『資本主義リアリズム』の第1章のタイトルに、このスローガンを引用した。

 その第1章の中で、マーク・フィッシャーは、映画『トゥモロー・ワールド』を以下のように評している。

「『トゥモロー・ワールド』における災禍は、「これから起きるもの」でもなければ、「すでに起こったもの」でもない。むしろ、今まさに私たちはその中を生き抜こうとしているのだ。災難がある特定の瞬間に訪れることもなければ、世界は大きな爆発で終わるわけでもない。その姿は徐々に潰れ、消え、崩壊していくのだ。何が災難を招いたのか、誰にもわからない。害悪な存在の気まぐれとでも思えるほど、その原因は現在から切り離され、遠い過去のものになっている。負の奇跡、いくら後悔しても解けない呪い。そんな破滅的な状況は、呪いの起源となったものと同じくらい予測不可能な何かによってしか、和らげることはない。行動は無駄であり、意味のない希望にだけ意味がある。救いなき者が最初に流れつく場として、宗教や迷信がはびこる。」

 要するに、彼は、『トゥモロー・ワールド』で描かれるディストピアの形態に、資本主義リアリズムの現在を見出し、フィクションの中においてさえ、資本主義に代わるオルタナティブな価値観を提示し得ない現状を憂いていたのである。

ディストピア映画や小説とはかつて、想像力を駆使するための修練の場だった。そこで描かれる災難は、異なる生き方を発見するための物語的な口実だったのだ。しかし、『トゥモロー・ワールド』は違う。…」

 

 奇しくも、これらの評は、新海誠の『天気の子』を見る上でも、非常に意義深い視点を与えてくれるもののように思われる。Twitterでは『天気の子』に対する様々な反感や、ディテールの欠点に対する不満を吐き出していた自分だが、体系だって論じるにあたっては、何を中心に据えるべきか考えあぐねていた。そんな私にとって、上述のシンクロニシティは、”資本主義リアリズム”というキーワードを補助線として『天気の子』への恨み節を書き連ねるべし、という天啓となったのだ。

 しかるに、まずは、同様に資本主義リアリズムの観点から分析しうる『トゥモロー・ワールド』との差異を見出すことで、『天気の子』というアニメーション映画の輪郭を浮かび上がらせていきたい。

 

 そもそも、『トゥモロー・ワールド』で描かれるのは、延命の物語である。命を繋いでいった先にある希望=未来=子供に、人類の可能性を感じさせるストーリーだ。

 「18年の間、新しい子供が生まれなくなった」という特異な設定を持つ世界において、主人公セオの役割とは、お腹に新しい命を宿した女性をとある場所へと送り届けるアシスタントに過ぎない。もちろん、セオ自身のストーリーもある。学生運動から身を引き、一介の公務員に落ち着いたセオは、アルコールに溺れることで、現実から目を背けながら生きている。そんな折、かつての妻(反政府組織のリーダー)からある仕事を頼まれることで事件に巻き込まれていく。革命の夢に破れ、体制側に与しながら、その罪悪感故に自堕落な人生を送っていたセオにとって、命を未来に繋ぐその仕事を完遂することこそ、最後に残された自己実現であり、自己犠牲の中に役割を果たすことで、スクリーンの中の彼はヒーローとなる。

 ここで重要なのは、如何に今を未来へと繋いでいくか、という視点だろうか。例えば、『トゥモロー・ワールド』に織り込まれた資本主義リアリズムを象徴するキャラクターに、セオの従兄にして、文化大臣のナイジェルがいる。彼のオフィスには、ミケランジェロダビデ像や、ピカソゲルニカが陳列されている。それらを目にしたセオは「100年後に誰がこれを見る?こんなものを集める意味があるのか?」と問いかける。ナイジェルは答える。「そういうことは考えないようにしている」、と。この問答は、今を未来に繋いでいくための自己犠牲を選んだセオと、ニヒリスティックな快楽主義の中で今を消費するナイジェルの対比をよく表している。

 ことほど左様に、『トゥモロー・ワールド』とは、未来(に希望を見出し、希望があるのであれば我が身をなげうってでも守るのであるという)の物語なのである。そのような素朴な人間賛歌(、あるいは希望の到来を座して待つという姿勢)は、いささか楽観主義に映るかもしれないが、しかし、我々に感動的な作品として消費することを可能とするエッセンスでもあることは確かだ。

 対して、『天気の子』はどうだろうか。『天気の子』における災難、それは戯画化された気候変動に他ならない。しかし、社会に対する徹底的なシニシズムを内包したこの映画の中で、その災難の原因=過去は雲の上に押しやられ、ありえたかもしれない人間の可能性=未来は、東京とともに水没する。そして、キャラクターたちは引き伸ばされたイマに耽溺していく…。

 原因のほうに目を向けてみよう。確かに、地球の長い歴史を考えれば、自然環境もダイナミックに変化しているものであり、主人公の穂高が行った決断も、ある意味では、そのような自然の理に回収されうるものなのかもしれない。しかし、重要なのは、劇中に、不可逆的な変化を加える決断をした主体が存在し、そして、現実の世界においても、人間が自然に不可逆的な変化を加え続けている状況がある中で、そういったストーリーをうやむやに描きすぎているという点なのだ。

 一言でまとめれば、『天気の子』とは、あまりにも安直に今(の素朴な感情)を肯定する物語といえよう。そのような事態は、気候変動、地球温暖化という、人間の環境破壊が原因の一端であることが分かりきった事象をテーマにしながら、その正体を徹底的に覆い隠し、”害悪な存在の気まぐれ”として描くことによって可能となっている。そして、それこそが、マーク・フィッシャーが言うように、資本主義リアリズム文化の中で表象不可能な環境問題を、ファンタジーという風呂敷で包み隠したシミュラクルに他ならないというわけである。

 

 この『天気の子』の結末は自己矛盾に満ち満ちているわけだが、その矛盾を正当化する役割を担っているのもまた、資本主義リアリズムであった。

 実存的不安に駆られた主人公穂高は、地元を飛び出し、メガロポリス─東京に居場所を探し求め、あてどなく放浪する。その手に携えた”The Catcher in the Rye”が示すように、嘘っぱちまみれの大人の世界へ疑いのまなざし─やがては銃口─を向けながら。子どもを平然と性的搾取する歌舞伎町のキャッチ、法の奴隷と化した警察はじめ役人、狭量で物わかりの悪い大人たち。それらを憎む穂高は、やがて「晴れ女」というトリガーを引くことで、やまない雨という弾丸を降らし、薄汚い大人の世界=東京を沈めてしまう。

 それ自体は大いに結構だ。例えば、『JOKER』のクライマックス、アーサー・フレックがどうしようもないゴッサムシティにカオスをもたらしたことに少なからずカタルシスを感じる者であれば、『天気の子』の鑑賞後、小躍りをしながらバルト9のエスカレーターを下っていったかもしれない。しかし、そうはならない。3年後、再び故郷の伊豆諸島から戻ってきた穂高が目にしたのは、ポスト・アポカリプス風景にあって、植民地化の完了した、健全な経済活動に取り込まれた東京なのだから。水上バスによる交通網が行き届いた東京。オフィスや住居が平屋から高層マンションの一室にすっぽりとスライドした東京。東京農工大学が相も変わらず新入生を受け入れている東京。見る者の、行き場を失ったカタルシスは、最後の「大丈夫」の一言で、針を突き刺した風船のように萎んでいくに違いない。

 そもそも論として、自分の望む世界を実現した主人公が、何も失うことなく、ひたすらに周囲から肯定され続けることで迎えるエピローグというのは、物語としてバランスを欠いていると言わざるを得ない。だが、それを横に置いても、である。主人公が形を変えたはずのくそったれの東京は、自然環境という意味では、確かに不可逆的な変化を被ったものの、資本主義経済という意味では、なんらその形を変えることがなかった。そして、なによりも、それがポジティブに描かれているところこそ、頭を抱えたくなるような矛盾の正体といえよう。

 主人公が見ていた薄汚い東京は、そこに巣くうイヤな大人たちと共に沈んだわけだが、一方で、東京へ戻ってきた主人公を迎え入れてくれる大人たちがいる。表向きの、うんざりするような資本主義の象徴たる東京は水の底に消えたわけだが、主人公のこれからのカレッジライフや恋愛模様を彩ってくれるほどには健全な経済活動が営まれている。

 スクリーンに投影される、社会を滅ぼすほどにそれを蔑む主人公の、片や自分に都合のいい社会活動の選別(あるいは、いじわるな見方をすれば、生命の選別とも言えるかもしれない)の様は、やはり新自由主義のイメージと重なるものだ。(下記は、やはりマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』から引用)

「…ここで「表向きの希望」といったのは、新自由主義イデオロギーの面では国家を激しく非難しつつも、密かにその制度に頼ってきたからである。これは二〇〇八年の金融危機の際に、新自由主義信奉者の要請に応じて国家が金融制度の支えに駆けつけたとき、最も目覚ましい形であらわになった。」 

 

 まとめに入ろう。なぜ、これほどまでに『天気の子』は私を苛立たせるのか。その答えの一つは、この映画の、社会に対する目線の傲慢さにある。ボクとセカイが接続した物語の中で、中間項としての社会は見下げられ、その生活者たちは、徹底的に他者として描かれる。そして、それが行き着く先は、社会の表象としての東京の破壊であった。しかし、真に僕たちの生きづらさを緩和してくれるものは、社会において、公共圏を復活させることであり、コミュニケーションの”場”を手に入れることであるのは、言うまでもない。

 だが、考えてみれば、東京とは人間の英知の結晶であり、長い歴史の積み重ねの息づく都市である。先の台風による川崎市市民ミュージアムの浸水や、大学施設(図書館や研究室)の水没に、はたして君たちは喪失感を抱かなかっただろうか。過去の人類の残してきた知恵は、現代の私たちを生かし、未来においても活かされるものだ。『トゥモロー・ワールド』は、その意味で、未来に残すことの重要さに触れている。対する『天気の子』は、過去も未来も、海の底、奥深くへと追いやった。ただ、今この瞬間の、この感情さえ昇華できればそれでよいと謳いあげて。

 これらの事実を思うとき、『天気の子』の根底にある、社会─とそれを構成する人間─に対するシニシズムと、ニヒリスティックな快楽主義が立ち上ってくる。「大丈夫だ」とうそぶく資本主義リアリズムは、まだ人間の顔をしているだろうか?

2019年上半期に見た映画の話

2019年上半期に見た新作映画の総括。

 

S  海獣の子供 ブラック・クランズマン、アベンジャーズ/エンドゲーム

   魂のゆくえ

A  スパイダーバース、バイスアメリカン・アニマルズ、ファーストマン

A- バスターのバラード、グラス・イズ・グリーナー、プロメア

B  アクアマン、ちいさな独裁者、女王陛下のお気に入り麻薬王、運び屋

   ビハインド・ザ・カーブ、キャプテン・マーベル、シャザム、名探偵ピカチュウ

   ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ、僕はイエス様が嫌い、主戦場

C  ベルベット・バズソー、ミスター・ガラス、サスペリア、ギルティ、FYRE

D  幼女戦記、グリーンブック

E

 

幼女戦記

 作画、特に背景とかはしっかりしていたので好印象。でも内容は顔面アンサイクロペディア過ぎという感じ。テンプレソ連観といい、俺TUEE描写も相まって、かなりむずむずした。あとカルロ・ゼンが原作やってる漫画がキショい。アレでTwitterだとインテリぶってるところがFUCK。

・ベルベット・バズソー…

ナイトクローラー』の監督とジェイク・ジレンホールってことで期待値が異常に高かっただけに、全体としてはもう一声って感じだった。個々のシーンでは好きなところもあるし、アメリカの今の美術界のアルアル感は日本人にも十分共感可能。グラフィティを美術館に飾るのはリアルじゃねえ。

・ミスター・ガラス…

これは完全な偏見だけど、Twitterを見ていると「分かってる映画オタクは褒めるよね」みたいな雰囲気を感じて嫌になった。いや、なんやかんや、俺もシャマランは嫌いじゃないんだよ。この映画にしたって、それなりに楽しんで見た。でも、いい年して「俺たちみたいに才能のある人間は”世界”に潰されちゃうのさ」とでも言いたげな映画撮ってんのはどうなのかっていう。ミスター・ガラス、やっぱ大量殺人やってるし、それをダーク”ヒーロー”として描くのは、もっと内省的になれよ、と。

・ギルティ…

 これもハードルを上げすぎて蓋を開けてみたら、という一作。「音だけで推理しろ!」みたいな煽りばかりで、そういうミステリー要素に引っ張られてしまったものの、謎解き自体はわりと単純というか、特に捻りがなかった。90分退屈しないでいられたって時点で、考えてみればすごいんだろうけど、そこまで斬新な手法ではないし、思っていたよりも物語が立体的に感じられなかった。主人公の内省にスポットが当てられていくところが肝なので、そこに惹きつけられるかどうか。

 ・ビハインド・ザ・カーブ…

 地球平面説に囚われた人々に密着したドキュメンタリー。この21世紀に地球が平面だと言い張って譲らない人たちの存在というのは、それ自体がブラックジョークのようで思わず笑ってしまうが、単なる異常者ウォッチに終わらないのがこの映画の面白いところ。というのも、彼ら彼女らは、ファンタジーや神話、聖書の世界に没頭する狂人というわけでなく、認知の歪んでしまった一般人であり、そこにこそ我々の生きる世界のリアリティとホラーが感じられる。地球が平面であることを証明しようと、彼らが躍起になって行う数々の実験は、そんな性質をよく表している。つまり、彼らは、我々観客と同じ、この世界の基本的なルールに乗っかっていればこそ、科学的な根拠を提示することに固執しているのだから(もちろん、彼らの実験はことごとく”失敗”し、地球が球体であることを証明してしまうのであるが…)。

 私たちと全く違う世界観ではなく、同じ世界を少し違った角度から見ているに過ぎない平面説論者。この少し違った角度というのがキモで、それは要するに、ひょんなことから”そっち側”の領域に足を踏み込んでしまうかもしれない、というハードルの低さを意味している。また、一度”そっち側”に足を踏み込んでしまえば、”こっち側”の人間関係は次第に途絶えていき、いつしか居心地のいい閉じたサークルの中に浸ってしまう。そのサークルの中で恋愛が生まれ、名声を得られた日には…。ここまで言えばお分かりの通り、何もそれは地球平面説サークルに限ったことではない。クラスタ化の進行しやすいインターネット・SNSにおいては、特にそれが顕著であり、本作でもそういった時代が地球平面説コミュニティの活発化に寄与していることが触れられている。ミクロな着眼点の中に、意外にも普遍的な切り口が潜んだ秀逸な一本。

・主戦場…

 慰安婦問題について様々な立場の人間にインタビューをしながら、その真相に迫っていくドキュメンタリー。この映画の基本的なスタンスは「慰安婦問題を全く知らないアメリカ人男性がひょんなことから興味を持って調べてみた」といった感じで、大体はそういう論調かつ自分と同じようにこの問題を知らない日本人に紹介しようという目的意識が底にある。お堅いテーマではあるものの、初心者向けであり、また、前提知識のない人にもカジュアルに見られるように話運びや構成は簡素。そこを易しいと見るか退屈と見るか。

 はじめに基本の理解として日韓両者(というか日本の保守と日韓のリベラル)の主張を取り上げる。次に個別のマターごとに「20万人という数字は本当なのか」「性奴隷じゃなくて売春婦」「強制連行の定義とは」といったことを、具体的な史料をもとにしたインタビューから検討していく。ここでは一見、日本の保守派に理があるように描かれる。直接的な、そのものずばりの証拠が残っていないことに加え、輪郭を伝える史料というのも、どうやら強制連行や奴隷状態のなかったことを示しているらしい、と。しかし、後半になると一転。研究者らによる論理的な指摘や、上述したタームを用いる妥当性、実証的な史料の検証のつるべ打ち。ここで、多くの人が陥りがちな、「元慰安婦のお婆さんの証言だけ」「米軍も娼婦だったと言ってる」「当時の新聞にはっきりと軍が慰安所を取り締まってたことが書いてある」といった、史料の誤読をなぞり、それを解きほぐしてみせることによって、観客の慰安婦問題認識を転倒させる(そして史料批判の重要性が身に染みる)。それからラスト、話は慰安婦問題を飛び越し、日本の保守派を覆う異常な世界観や、それが政権をさえ覆っているという事実、そして、その一群の人々と権力を結びつけるある人物へと迫っていく──。とまあ、ここの話運びには、唐突、陳腐だ、また日本会議かという批判もあるようで、個人的にはそう言いたくなる気持ちも分かるのだが、しかし、そこが本作の持つ映画的面白さに寄与していることも確かだろう。ドキュメンタリー映画としても、インタビューやニュース映像を中心に組み立てている本作は、とりわけ静的でありエンターテインメント性に欠ける。しかし、慰安婦問題というミクロなテーマから、冷戦下での日本の政治に対するアメリカの介入や、政権と深いつながりを持つ謎の組織の存在に話が広がることで、陰謀モノ映画を見ているようなスリルが観客に強いインパクトを与える。そして、この国における慰安婦問題の核心とは、(劇中で持論をぶちまける保守論客を見ればわかる通り)非科学的な現実認識にこそあり、それは恐らく多くの現代日本に蔓延る問題に通底していることであろう。であればこそ、終盤の風呂敷の広がりにも、一定の説得力が生まれている。

・キャプテンマーベル/スパイダーバース…

 ストーリー的なことを言えば、どちらもオーソドックスながら力強いオリジンストーリー。ヒーローのヒーローたる所以とは、スーパーパワーを持っていることではなく、何度ひねりつぶされようとも困難に立ち向かう姿勢にこそ存在する。ブリー・ラーソンは男社会の抑圧=女らしさの強制(というかあれだけ発展した惑星の文明でもパターナリズムから脱しきれないのかというツッコミは脇において)の中にいて常に不愛想なのであるが、それ故にラストの「素手でかかってこい!認めてもらいたくば正々堂々と勝負だ!!」と息巻くヨン・ログをフォトン・ブラストでぶっとばすシーンは爽快感に満ち満ちている(『スパイダーバース』で言うなら、摩天楼を縦横無尽に飛び交うシーン)。理不尽を跳ね除けてRepresent meすることでヒーローの第一歩が始まるというメッセージは、女性に限らず、すべての人間を鼓舞するものであり、もちろんそこにある種の綺麗ごとを見る人もいるだろうが、やはりそういったシンプルな勇気づけが必要な時もあるのだ(というのを就活中の身としてはしみじみと感じた)。

海獣の子供/魂のゆくえ…

 実質『2001年宇宙の旅』なので良い。連綿と続く宇宙の、生命の歴史が、僕らの身体にも確かに息づいているのだというメッセージがなんとありがたいことか、という今この瞬間。まずは『海獣の子供』。良質なアニメ映画がコンスタントに上映される昨今のシーンの中で、本作の優れている点は、やはり作画と音響の質。五十嵐大介の原作の絵柄そのままに動き出すアニメーションは、その美麗で繊細な背景の作画と相まって、この作品世界に独特の実在感を与えている。とはいえ、リアルな作画という点に限って言えば、ピクサーのようなCGアニメーションに適うべくもない(例えば、今年公開された『トイ・ストーリー4』の、実写と見まごうばかりの背景には誰しも驚かされるだろう)。そこで、原作の荒々しくも繊細な独特の雰囲気をそのままに、この作品が説得力をたたえているのは、やはり細やかな音響によるところが大きいだろう。坂道を駆け下る主人公がマンホールを踏んだ時に鳴る金属の響く音や、海辺でせわしなく、しかし心地よく繰り返される波の、砂の、風の音。そのひとつひとつがさりげなく観客の耳に入り込み、文字通り波打ち際でヒーリング効果を堪能するごとく、作品世界に浸らせてくれる。

 では、そのようなアニメーションとしてのクオリティが、単なる視覚的・聴覚的な快楽をもたらす装置にとどまるかといえば、そうではない。上記のようなリアリティ=説得力の積み重ねは、ストーリーに対しても効果的に奉仕しているからだ。生命それ自体がテーマとなる本作においては、作品内世界の、そしてそこで描かれる人間や海の生物の実在感が、なによりも重要となる。故に、生命という、一見壮大すぎるテーマを扱っている本作ではあるが、堂々とストーリーのカタルシスを実現し得ている。

 そして、そのカタルシスとは、宇宙(そら)からやってくる来訪者の携えた福音と、そこから立ち上ってくる生命の賛歌にほかならない。真正面から受け止めるには、いささか素朴すぎるように思えるそれも、この不確かな情勢の世界において、そしてなにより、社会に放り出されるのか、あるいは放り出されることさえ叶わないのか不確かな状況に置かれている自分にとって、唯一確かな光明として、心に染み入るものがある。

 そういったニュアンスを、ややキャラクターが饒舌に語りすぎるきらいはあるものの、ひとつ、語らないが故に際立つ原作との差異がある。それは、物語の着地をどこに設定するかという点だ。まず、原作漫画と劇場版アニメの大きな違いは、前者が主人公るかのバックボーンを明確に示しているのに対して、後者がそれをほのめかす程度にとどまっているところにある。それによって、劇場版では、原作にあった主人公が特別な血族であるという設定と、そのような特別なものがありふれた世界、というおとぎ話のようなマジカルな雰囲気がそぎ落とされている。これが実によく作用していると思った。簡潔に記せば、原作が、なんとも言い表しがたい世界観の中で伸び広がるストーリーという印象があるのに対して、劇場版は、同級生との喧嘩から始まり、同級生との仲直りで終わる、というごくシンプルな成長譚に集約されている点が魅力だろうか。

 そこから生まれる劇場版の最大の妙とは、家族や学校で人間関係から疎外される主人公の抱える心のゆらぎが、宇宙の誕生より繰り広げられてきた生命の循環という最大公倍数的な物語を経ることで、自身も、そしてみんなもまたその環の中で生きる約数のひとつであるという、ある種の諦観によって収束するストーリーテリングにある。これは、不思議な世界の広がりを感じさせる原作ではなく、どこにでもいる普通の少女のひと夏の経験として物語の舵を取る劇場版ならではの切り口だろう。言わば、原作では、輪郭の掴めない世界のわりきれなさを、主人公がそのままに受容する=イニシエーションとして着地させ、対する劇場版では、世界の輪郭に触れた主人公が、そのままに自身や他者という個の輪郭を掴み、わりきること(というよりも、わりきった上で共有できるピースの存在を確信すること)がイニシエーションとして機能し、前向きに生きていく原動力になる、というように着地させているのだ。

 そして、そのように閉じていくストーリーであればこそ、多くの観客に共感可能な、開かれた作品としての価値を持つことができている。また、そのようなミニマムな物語を、観客に共感せしめるものとして成立させている要素のひとつが、前述したアニメーションのクオリティであることは言うまでもない。実在感を持ったアニメーションは観客をスクリーンに、主人公のるかにシンクロさせ、ついには、あの『2001年宇宙の旅』におけるスターゲートを思わせるシーン(テーマからすれば、むしろ『ツリー・オブ・ライフ』を例に挙げる方が相応しいかもしれない)において、キャラクターとともにそれを体験させることを可能とする。そこで描かれる宇宙や生命の躍動を体感し、日常の外側にあるなにかに触れることで、同時に、言語を介さずとも湧き上がる感動から、それが自身の内側にも脈打っていることを逆説的に知るのである。

 

 『海獣の子供』と同様、宇宙との接近──他者との和解、というストーリーを描いていたのが、『魂のゆくえ』だった。監督は『タクシードライバー』の脚本を務めたポール・シュレイダー

 本作の特徴は、徹底的に抑制されたカメラワークにある。『タクシードライバー』に対するセルフアンサー的な作品ということで、自分が特に気になったのは、車が出てくるショット。中盤までは、車を運転する姿を映すこともなく、あるのは車に乗降するショットのみ。必ず真横から捉えられ、スタンダードサイズのスクリーンに映し出されるそれらのショットがもたらす堅苦しい印象は、(信仰と社会の矛盾に思いを悩ませる)主人公の抑圧された精神状態と結びつけられているわけで、本作もまた映像と身体の結合がストーリーのカタルシスに昇華される映画として見ることができる。

 そんな本作のストーリー、カメラワークにおけるひとつの転換点は、やはり生命、地球の歴史を主人公(と観客)が追体験するシーン。例によって『2001年宇宙の旅』というべきか、『ツリー・オブ・ライフ』というべきか、そこで幻視する一連の映像によって主人公は何か答えのようなものに触れることになる。しかし、この映画の場合、目にするのは、美しい地球が環境破壊によって汚染されていく光景。その結果、主人公は環境破壊の主犯たる大企業と、大企業と癒着する宗教界との対決姿勢を固めていくことになる。つまり、映像的飛躍が、主人公の精神的飛躍とイコールで結ばれているのだ。

 そこから物語は加速していく。思いつめた主人公が夜の街で車を運転するシーンで、多くの観客は『タクシー・ドライバー』のトラヴィスを頭に思い浮かべるだろう。前述のように、それまで車の映るショットは極めて抑制されていたわけだが、ここにきて、ネオンの反射する車内でハンドルを握るイーサン・ハントの顔に寄ったショットを見せられ、我々は不穏さをを感じ、カタストロフを予感(あるいは期待)させられる。

 しかし、そこはやはりセルフアンサー。この物語の結末は、我々の想像を超えたところへと着地する。この映画の主人公、トラー神父は、トラヴィスとは違う決断をする。具体的には言及しないが、この映画の肝は、他者を通して宇宙を、地球を、生命を見た、というところにあり、そうであればこそ、あのような結末になったと個人的には感じた。何も、世界の輪郭に触れたとて、我々は特別な存在へと成れるわけではない。あるとすれば、それは精神的な成長(ここら辺の感じは『ファーストマン』ともリンクしている感じがある)。日常を、人生を、世界を生きる個人として、如何に目線を変えるかが重要であるのだと、『魂のゆくえ』は語りかけてくる。それは、図らずも『海獣のこども』と通ずるテーマであり、今を、此処を、自分を生きるしかない、平凡な観客にとって、なによりも勇気づけられるメッセージであり、人間賛歌を突き詰めたひとつのかたちなのだ。

 

・ブラック・クランズマン…

Fuck the police。よかったです。今になって思い返してみれば、タランティーノ的な映画的飛躍がありましたね。

 

『グリーンブック』は如何に白人のためのガイドブックとなったか

 『グリーンブック』を観た。単純な娯楽映画、ヒューマンドラマとして見るならば、笑えて泣けて、良くできた作品といって差し支えないと思う。

 しかし、一方ではスパイク・リーをはじめとして、アカデミー作品賞となった本作の価値に異を唱える人も少なくない。その理由はひとえに、この映画の持つ「白人向け」然としたストーリーにあるのだが…。

 

1.安心設計の白人キャラクター

 これは『それでも夜は明ける(原題:12 Years a Slave)』においても同様の批判があったように記憶している。要するに、奴隷制や黒人差別の問題を描くとき、現代の感覚を持つ白人からして共感可能な、”善良な白人キャラクター”を配置するかどうか、という話だ。

 苦難の道を歩んできたアフリカ系アメリカ人奴隷制や差別というものを描くとき、そこには恐怖や悲哀、社会への怒りといった感情が色濃く反映されている。そこに親切な白人なんて幻想は介入しようがない。しかし、一方でビジネスのことを考えたときには、白人観客が安心して見られるよう、往々にして善意に溢れた白人キャラクターが登場する。『それでも夜は明ける』におけるブラッド・ピットであり、『グリーンブック』においてのヴィゴ・モーテンセンだ。これは”白人の救世主”と呼ばれるキャラクター類型であり、ハリウッド映画の典型的な”あるある”と言える。

 『グリーンブック』は実話ベースだから仕方がないだろうと思われるかもしれない。しかし、この映画の原作はトニーの息子が書いたものであることに加え、ドン・シャーリーの遺族は『グリーンブック』で描かれる二人の関係性について「誇張しすぎだ」と批判している事実を考慮すれば、そう簡単に割り切ることもできない。*1

 であれば、今日、そのような”ハリウッドの伝統”たる、今まで何度となく作られてきた、白人に都合の良い「異人種間友情モノ」映画を作る意義とは何か、オスカーを与える意義はあったのか。そういった問いが投げかけられるのもしかるべきだろう。

 ここで思い出すのは、昨年公開されオスカー確実と謳われたものの、ノミネートすらされなかった映画『デトロイト』である。白人の監督(キャスリン・ビグロー)ながら、白人警官に囲まれて生きる黒人の恐怖を生々しく描いており、Black Lives Matter運動の吹き荒れる現代においても地続きの問題を取り扱っている。これは、大いに主観にもとづく邪推にすぎない。しかし、なぜ『デトロイト』がノミネートすらされず、『グリーンブック』が作品賞を与えられたのか。それを考えたとき、自分にはどうしても『デトロイト』には「安心設計の白人キャラクター」がいなかったから嫌われたのだ、としか思えない。

2.トニーというキャラクターの曖昧さ

 ここで一度、トニーというキャラクターの描き方について考えてみたい。

 まず、自分が疑問に感じたのは、トニーがどれほど黒人に対して差別意識を持っていたのか判然としない、という点だ。確かに序盤、黒人の使ったコップを捨てるというシークエンスで、トニーの持つ差別感情が印象づけられる。面接シーンでは、インド系らしき従者のことを「チンク」と呼んで軽んじるなど、やはり有色人種への差別意識を覗かせる。

 このように、確かに、トニーの持つ差別意識が読み取れるシーンもある。一方で、面接シーンを思い返してみれば、普通にドン・シャーリーと握手をしているし、面接後に立ち寄るレストランの店員のアジア人とは自然体で会話しているなど、どうもゴリゴリのレイシストという感じはしない。また、旅の序盤には黒人と一緒にギャンブルをしてはしゃぐ場面があったり、劇中一貫してドイツ人に対してステレオタイプな偏見を持っているところもあったりと、はじめから、単に粗野で無知で直情的な憎めない白人くらいにしか描かれていないようにも見える。

 そのようなキャラクター造形の曖昧さは、次の3点の問題を引き起こしている。①トニーにはじめから”適度”な差別意識しかないこと、②そうであるがゆえに、トニーが特に改心をしたり、禊を受け入れたりするような瞬間も描かれないこと、③トニーの親族も簡単に改心しすぎで、トニー周りの差別意識問題を”人情噺のバイブス”だけで解決している雑さ。

 『グリーンブック』擁護派は「普通の人々の自覚なき差別心に気が付かせるきっかけ」として、この映画を評価しているらしい。*2なるほど、確かに「日本には差別なんてない」とのたまう日本の観客の方々には、いい「きっかけ」になるかもしれない。しかし、本国アメリカの黒人の立場からすると、「一緒に旅をして仲良くなったから差別心はなくなったよ」「それを伝えたら周りの人も差別をやめてくれたんだ」というイマサラかつお花畑なストーリーの映画が作品賞となれば、落胆するのもやむをえず、といったところだろう。

3.問題の矮小化

 ともあれ、上記の指摘は、あくまでもプロット上の問題について。この映画に自分が抱く不信感は、もうひとつ、その問題と微妙に隣接したところにある。それは、差別を引き起こしている「システム」というものへの視点の欠如だ。

 

 現代のアメリカは”カラーブラインド”だと言われている。要するに、「昔のように黒人だからといって殴られることもないし、職を得られないなんてこともない。人種差別はなくなったんだ。」、という考え方である。これは、一面的には事実かもしれない。確かに、肌の色を理由とした差別は、少なくとも公然に行われることはタブーとなった。だが、アメリカの人口比に対する、刑務所の囚人に占める黒人の割合は突出して高いし、ゲトーに象徴される黒人の貧困は未だに解消されていない。これをどう見るか。カラーブラインドであるから、犯罪も貧困も個人の責任である、というのは容易い。しかし、それらは構造的に作られてきた「システム」の問題でもある。

 例えば、新自由主義的政策の中で、福祉の機能を刑務所に移管し、軽微な罪を極端に取り締まる"ゼロ・トレランス政策"のもたらす”監獄社会”化は、黒人の犯罪率を高める要因となっている。警察は治安の維持ではなく、罰金の徴収による予算の確保を自己目的化し、過剰な取り締まりを行うようになる中で、白人が多くを占める警察においては、その対象となるのは黒人である。もちろん、警官が路上の身体検査を行う上で、人種だけを理由にターゲットを定めていると特定することはできない。しかし、薬物を例にとれば、人種を問わずその所持率は大差ないのに対し、黒人ばかりが身体検査のターゲットとなるため、その犯罪率が実情よりも高くなっている。ここで厄介なのは、実際に黒人も罪を犯しているという点だ。

 要するに、罰金の徴収を自己目的化した警察組織が警官をアグレッシブな取り締まりに駆り立て、その歪みを引き受けているのが黒人であり、そして、そのようにしてかさ増しされた黒人の犯罪率の高さは、社会に「黒人は危険である」という意識を植え付け、黒人に対する警官暴力を加速させるというサイクルが存在するのだ。*3

 

 本題に戻ろう。黒人に対する抑圧は、何も白人の”お気持ち”的な差別だけが原因ではない。『グリーンブック』の劇中でも、南部のレストランで「私は差別主義者ではないが、黒人をここに入れないのは伝統、決まりなんだ」と追い返されるシーンがある。恐らくそれは一つの真実だ。彼らは黒人が嫌いで差別行為を働いたのではなく、決まりに従っただけなのだ。この映画では、”システム”のもたらす抑圧に、そこで一瞬、近づきはする。だが、結論は「差別は白人の気の持ちようで変わるんだ」というありきたりで、黒人を置き去りにしたものへと収束する。

 上述した”カラーブラインド”と”監獄社会”の話は、現代に蔓延る黒人に対する抑圧が、そんな単純な差別意識を超えた先にある問題であることを示している。であれば、”システム”の問題から目を逸らし、”感情”の問題に終始するのは、白人に対して手軽な処方箋、いやさガイドブックを手渡すようなものだろう。

 

 

 

 

 

*1:

「グリーンブック」の作品賞受賞に異論噴出 米アカデミー賞 - BBCニュース

*2:

『グリーンブック』否定論への疑問 ─ 「入り口」になる映画はいつの時代も必要だ | THE RIVER

*3:藤永康政(2015)「ファーガソンの騒乱 : 「監獄社会」と21世紀の人種主義」アメリカ史研究(38)、日本アメリカ史学会/ロイック・ヴァカン著 ; 森千香子, 菊池恵介訳(2008)『貧困という監獄 : グローバル化と刑罰国家の到来』新曜社、などに詳しい

2018年各新作映画についての雑感①

2018年に見た新作映画への適当ひとこと感想。

 

デトロイト

白人が郊外に脱出したデトロイトダウンタウンで巻き起こる最悪の事態。ねっとりとしたドキュメンタリックなカメラワークもいいが、やはり演技。ジョン・ボイエガはどうしてもSWのフィンのイメージがあったから、こんなにシリアスな役もうまいのかとびっくりした。Black Lives Matterに呼応する、今作られる意義のある映画だったように思うが、アカデミー賞レースからは完全に無視。なんで?

 

『レディ・プレイヤー・ワン』

嫌いではないけれど、それほど熱心に好きかと言うと微妙。日本のアニメ(例:ヲタ恋)もそうだけど、とにかく顔のいいオタクしか出てこないのがTHE 欺瞞という感じで、まぁ~いけ好かんわな。個人的には、あまりゲームをやらない人間なので、微妙にノリ辛かったのもマイナス。『シャイニング』のオーバールック・ホテルの再現のところは素直に好き。

 

シェイプ・オブ・ウォーター

自分にとっては、そこまで語ることもないかな~という印象。ただ、冷戦構造化のアメリカ社会が背景にあるというのが、個人的にとてもポイント高い。郊外家と一軒家、モータリゼーション、”男らしさ”に縛られる男性と女性に求められる貞淑さ、等々。

 

孤狼の血

ヤクザ映画。とりえあずこういう映画を予算かけて作ってくれるだけでうれしい。

 

『バーフバリ:王の帰還

ふつうにおもしろかった。

 

『バース・オブ・ネイション』

思っていたよりも普通。トロント国際映画祭で配給権が史上最高額(たしか)、『国民の創生』と同じタイトルをつける挑発的な姿勢など、かなり話題になったものの、監督かつ主演かつ脚本のネイト・パーカーの大学生時代のレイプ疑惑で一気に鎮火して賞レースにも相手にされず、という本作。期待値は高く、だからわざわざ海外版のDVDまで買ったわけだが、正直肩透かしを食らった。まず、ナット・ターナー(奴隷反乱の首謀者、主人公)をキリストになぞらえるのはいいけれど、それ脚本書いたのも演じるのも自分ってどうなんだという、メルギブじゃないんだからさ…。ゴアな拷問シーンがあったり、最後は処刑されてさらし者になって終わるのもメルギブっぽい(史実だからネタバレじゃないよね)。ショットに厚みがないとか、まあ言ったらきりがないんだけど、映画作家としてはまだまだなんじゃないかなあ、と思わされた映画。

 

『シュガーラッシュ:オンライン』

リベラル、あるいは知的エリートの驕り。途中で退屈してウトウトしちゃったのもあるけど、とかくあまりいい印象のない映画。本当に『ズートピア』と同じ監督、脚本なのか…。

退屈という部分に関していえば、サスペンスが不足していたことが原因だろう。『ズートピア』が違う性格の2人がコミュニケーションを通してコンビ結成に至るまでの話だとすれば、『シュガーラッシュ:オンライン』は違う性格の2人がすれ違いを通してやっぱり…とコンビを解消するまでの話である。それでワクワクしろという方が無理だ。あとは、単に、「事件」とその「解決」というストーリーの軸が、『ズートピア』の方がきっちり作ってあるとこ。

それでもって、この映画のどこに自分がリベラルのヤダみを感じたのかだが、描写の生々しさが原因なのではないかと思う。考えてみれば『ズートピア』と『シュガーラッシュ:オンライン』はかなり似通った構造を持っている。どちらも「女の子が自分のなりたいものになるために、故郷を出て都会で夢を叶えようとする中で障害にぶつかっていく」お話だ。しかし、『ズートピア』の方がかなり寓話性は高い。なぜなら、『ズートピア』における田舎と都会の対比は、どの国や地域においても一般化し得る程度の描写に留まっているからだ。均質で、ともすれば保守的な田舎と、様々な人種、階層の人々が入り乱れる都会。対する『シュガーラッシュ:オンライン』はどうだろうか。こちらにおける田舎とは、こじんまりとした衰退していくばかりのゲームセンターであり、都会とは、時代をリードする巨大なIT企業の集積するインターネット世界である。意識的なのか、無意識的なのかは分からないが、自分の目には、これはシリコンバレーとラストベルトのメタファーにしか見えなかった。であるならば、いつも通りの日々が続いて欲しいと願うラルフの切実さ、故郷を出て都会に出ていくヴァネロペへの嫉妬は、「時代は変わっていくんだからさ」「友達なら足を引っ張るようなことしちゃあいけないよ」なんて分かりやすいメッセージで納得させられるほど軽薄なものには思えないのだ。また、ラルフが自分が望むものになれない、ヴィランとしての生を受け入れるしかない存在なのに対し、ヴァネロペは、バグであるが故に自由に生きられる、そして特殊な才能を持ったchosen oneだ。それがシリコンバレーに行くから、アンタはもう元トモね、なんて話ではなんとも釈然としない。一応、インターネットでいつも繋がってるからアタシたちは変わらず友達だよ、と救いはあるかのように見せているが。ただ、現実として、インターネットが発達したからといって、大学生になってから高校の友達とどれほど会うの?という話である。断言する。絶対に自然消滅する。情報化が進めば進むほど、実際に顔を合わせたコミュニケーションの価値は高まるのだ。ディズニー映画にこんな例えを用いるのもなんだが、NTRにしか見えないシーンが多々あった。

長くなってしまったが、この映画から感じる最大のリベラル的なヤダみは、まさしく西海岸ハリウッドのリベラルなディズニーのクリエイターが作っているという点だろう。つまり、ヴァネロペ側の人間だ。自分自身は、それなりにリベラルな価値観を信じているつもりだが、これじゃあ分断も深まるよ、と悲しい気持ちにしかならなかった。