感情のアリーナにて──決闘をする/しないということ(『最後の決闘裁判』感想)

 決闘裁判は、紛れもない感情のアリーナである。それぞれの人間が、それぞれの感情を演じる場である。

 決闘裁判というアリーナへ、ある3人の人物がどのような感情を携えてきたのかを語ることにこの映画の主題はある。登場するキャラクターの感情を物語らない劇映画など(ほとんど)存在しないじゃないかと思われるかもしれない。しかし、これほど名誉という感情の実態、とくにそれがジェンダー的に構造化されている様を鮮烈に描いた映画はそう多く存在しないだろう。

 

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 『最後の決闘裁判』の線的なストーリーはいたってシンプルだ。勇猛果敢な騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)と知略に長けた従騎士ジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)はかつて親友であったが、細かなすれ違いやカルージュとマルグリット(ジョディ・カマ―)との結婚から生じる領地相続の問題を経て、その仲は険悪になる。途中和解の場が設けられるが、ここではじめてマルグリットを目にしたル・グリは彼女に恋をしてしまう。マルグリットとの関係を夢想するル・グリは己の欲望を抑えきれず、カルージュの留守の間に彼女をレイプする。戦場から帰還し、妻からその事実を知らされたカルージュは、憎きル・グリとの因縁に決着をつけるため、ここに決闘裁判を開くこととなる。

 

 この映画が特徴的なのは、そうしたストーリーが三章立てで、三者三様の視点から構成されていることだ。そして、それは単に、黒澤明の名作『羅生門』に対するオマージュにとどまらない。

 カルージュの視点から語られる一章目と、ル・グリの視点から語られる二章目は、両者がプライドと名誉をかけて互いの主張を戦わせているように演出されている。

「あの時命を助けてやったのに」「その前に俺がお前を救ってやったんだ」。「ピエール伯におもねって俺から領地を奪ったくせに」「むしろ俺はお前をかばってやってたんだ」。「お前は俺の妻を犯した」「いやお互いに合意の上だった」。

 このように相反する両者の物語を、三章目にいたりマルグリットの視点から俯瞰することが、戦う男たちとそれを眺めるしかない女という決闘シークエンスそのままの構図の再現になっている点は注目に値する。マルグリットは事件の中心にいながら徹底的に疎外されているが故に、メタな視点を備えた語り手としての地位を持つことが可能になっており、また本作が『羅生門』のエピゴーネンではない理由の一端である。

 例えばこの章では、彼女が女らしさの規範から徹底的に抑圧されてきたことが語られる。複数の言語を操り算術に長けていながら、才能を封印して夫を立てることが求められる。子どもを産まないことで責め立てられる。レイプされようとも、女のくせに一々声を上げるなと睨まれる。こうして、男たちの猛々しい物語の狭間で語られなかった事実が明かされる。

 であるから、カルージュもル・グリも、真実や正義のために法廷で争うのではなく、己の名誉のために決闘することを選んだ経緯というのは、理解に容易い。実際、彼らは劇中で「名」や「名誉」といった言葉を繰り返し口にする。事程左様に、決闘とは名誉の感情が演じられるアリーナなのだ。

 一方、事件の当事者でありながら、自らの運命を男たちの決闘に委ねなければならないマルグリットの名誉とは如何なるものなのだろうか。

 それがよく分かるのは、マルグリットがカルージュに、ル・グリからレイプされたことを打ち明けるシーンだ。その事実を知ったカルージュは「あいつはいつも俺に対して邪悪なことをする!」と叫び、あろうことかマルグリットの首を締めあげる。ここで重要とされるのは、仇敵に所有物としての妻を汚されたことで損なわれる夫の名誉であり、被害者として妻をいたわる姿勢は皆無である。

 その後、公正な裁判を求め声を上げたマルグリットが周囲から心無い言葉を投げかけられることが示しているとおり、この時代の女性にとっての名誉とは貞淑であることの一点でのみ認められるものに過ぎない。つまり、マルグリットの名誉とはレイプされ、あるいはそれを明かして声を上げた時点で、もはや永久に失われてしまったのだ。

 しかし、より深刻なのは、マルグリットが社会から押し付けられた「貞淑な妻たれ」という“女の名誉”を自ら手放した事実である。彼女はジェンダー化された社会規範としての名誉よりも、“自己の尊厳”を保つために声を上げ、法廷での裁判による公正な判決を求めた。しかし、決闘を要請する男たちの名誉の前に、その道さえ閉ざされてしまうこととなる。

 カルージュは妻の意見などお構いなしに、損なわれてしまった名誉を取り戻すため決闘へと突き進む。命をかえりみずに闘うことで男らしさを示せば、彼の名誉は無事に回復されるからである─逆に決闘をしなければ、妻に手を出されても大人しくしていた男として名誉を失っていただろう。

 決闘のシークエンスでは、滑稽なまでに猛々しいカルージュとル・グリ、ことの行方をやるせなく見つめるマルグリットとの対比─繰り返しになるが、この構図は三章立ての物語構造と韻を踏んだそれである─の中に、名誉をめぐるそうした状況が視覚的に描かれている。つまり、決闘裁判という感情のアリーナにおいて、名誉を演ずる男たちと、名誉を失い尊厳すら取り上げられ、自らの行く末を彼らに任せるしかない絶望のみを携えた女の対比である。

 

日記⑨

9/20

中華街で飯食って喫茶店で本読んだ。

 

9/21

親ガチャという単語、中高生が使うならともかく、いい大人まで乗っかって「いや、これは一考に値する…」みたいな神妙な顔し始めたのが正直厳しい。

究極的には親の間の差異を排することは不可能なのに(私有財産の否定どころか、あらゆる身体的文化的差異も否定されることになる。それでいいなら構わないが)、ことさら親について語ろうとすること、及びそれに正面から与することは、問題を不必要に分節化することになる。そこで社会は語られず、問題の所在は個別の家庭のエピソードの内側に閉じ込められてしまう。

どのような社会にあっても人間の差異はなくならないという前提に立つならば、本来論じるべきは、教育や福祉における再分配がうまく機能していないということであり、生育環境の影響をより濃く受ける(新自由主義を背景とした)ハイパーメリトクラシーの弊害じゃないのか。そこまで行かないとあまり意味ないんじゃん。

 

9/22

ワクチン接種2回目。とにかくワクチンを打ったところ(左肩)が痛い。1回目のときは青アザができたような感じで、ぐっと触ると痛いけど、それ以上のことはなかったイメージ。今回は露骨に腫れあがって熱も持っているのが辛く、寝返りも打てない。

 

9/23

1回目のワクチン接種のときにはなかった副反応だが、今回は寒気も止まらない。風邪のひき始めみたいなぞわぞわ。

 

9/24

感情史の方法論が面白い。『感情史とは何か』を読んで、自分が学部生の時に持ってた関心に欠けてたピースのひとつだなと思った。

当然、何が何でも「感情」にフォーカスした議論の展開をする必要はないんだけど、社会的な事象がどう表象されてきたのかというざっくりした自分の関心の在り様に、なんとなく落としどころを見つけられていないようで悶々としたまま卒論を書いた身としては、何かの答えになった気がする。

別に他人の研究を読む分には面白く消化できるんだけど、いざ自分が研究するとなると、どんな切り口にせよ「それが分かったからなに?」という疑問を結局最後までぬぐい切れなかった。まだ言語化できていないけど、個人的に感情史はそこに意義を付加できる方法になり得そう。

 

9/25

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』読んだ。俺はノンフィクションが一番面白く読めるんだなというのを自覚しつつある。

 

9/26

スパイダーマンの映画シリーズを復習し終わった。個人的にはマーク・ウェブ版が一番好きかもしれない。

なんとなくジャンル映画とかアメコミ映画とか好きな人たちの間でサム・ライミ版こそが至高とされ、マーク・ウェブ版は見下されている風潮があると思う。それに対する逆張りが全くないとは言わないけど、自分は一応どっちも見ているはずだけど全然ディティールが記憶に残っていないので、今回フラットに見比べることができた気がする。

それを踏まえて言うと、マーク・ウェブ版のほうがスパイディの陽気さが際立っていて、それがニューヨーク市民に愛されるキャラクターとしての説得力にも繋がり、かつ監督の爽やかな持ち味ともマッチしているところがいい。というか改めて見ると、トビー・マグワイアのピーター・パーカーが挙動不審すぎて、あまりチャーミングじゃないのが見ていてノレない。まあアンドリュー・ガーフィールドのピーターも文系感がかなり強くて、端から別人な感じではあるんだけど。とはいえ、エマ・ストーンとのアンサンブルがズルすぎて、それで全部成り立ってしまう。

ジョン・ワッツ版も好きではあるんだけど、こういうかたちで見比べると、如何せんMCUが枷になっているというか、別物だよなと思う。一番魅力的な役者はトム・ホランドだと思うので、一長一短。

あとは、ウェブを使ったアクションの多彩な見せ方に一番向き合っていたのもマーク・ウェブ版だと感じる。サム・ライミ版はCGの技術的な制約のせいもあると思うし、逆にジョン・ワッツ版は色々やっているんだろうけどアクションの見せ方に力が入っていない。その点、マーク・ウェブ版だと糸のたわみとか伸縮性、粘着性そのものをねっとり描写していて、またそういう素材を使ってどうアクションさせてどう映すかに熱を感じる。

いつ誰がシラフをシラフと決めたのか(『アナザーラウンド』感想)

「人間の血中アルコール濃度は常に0.05%を保つことが理想である」と、ある哲学者は言う。おそらく普通に生きている人間であればこれを真に受けることはないのだろうが、普通に生きることからドロップアウトしてしまった男たちの一人こそ、この物語の主人公である。

マッツ・ミケルセン演じる高校教師マーティンは、ルーティンと化した日々の仕事に飽き飽きし、冷え切った夫婦関係にもうんざりしている。どうせ言うことを聞かない生徒たちに教科書を読み上げる授業。夜勤で働いているためにほとんど顔をあわせることもなくなった妻。そんな繰り返しの日常に突破口を開こうと彼がすがったのが、上述の格言である。かくして、マーティンとその友人であり同僚の三人、合わせて四人の中年たちは、日中に酒を飲むことでQOLの向上を目論む秘密のクラブを結成するが、次第に彼らはコントロールを失っていく……。

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しかし、いつ誰がシラフをシラフと、つまり、飲酒をしていない状態こそが平常であると、決めたのだろうか。例えば、栄養失調や飢餓状態をして平常と見なすことがないように、血中アルコール濃度もまた0.05%に至るよう補ってこその人間なのではないか。一見すると過激に思えるかもしれないこのテーゼであるが、我々が人生を生き抜くために必要な視点を与えてくれる確かな真理を含んでもいる。

 

おそらく事実とそう違わないだろう個人的な見解であるが、映画において酒がフィーチャーされるときには、だいたいがアルコール依存症の形をとって描かれてきたように思う。

en.wikipedia.org

このWikipediaの記事の一覧を見ても分かるように、映画史の最初期から現代に至るまで、アルコール依存症を描いてきた映画は数多く存在する。一覧には含まれていないものの、その最も古い一例としてフェルディナン・ゼッカによる『アルコール中毒の犠牲者たち』(1902)を参照されたい。

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もちろん、その最初期からというのは、映画というメディアが飲酒を否定的に描くことの本質的な必然性を強調するものではなく、例えば映画の都を擁するアメリカにおいて、1920年禁酒法施行にいたる宗教的厳格主義の胎動があったこととの同時代性に注目すべき部分がある。

そして、それはアメリカ的なプロテスタンティズムに固有の精神ではなく(実際、ゼッカはフランス人である)、近代に顕著な、自己の身体を制御すること、その規範の表れでもある。つまり、欲望を断ち切れ、感情に振り回されるな、平常を保ち理性的な主体(subject)たれと我々に迫る規範だ。そうした規範はいつしか我々の身体に浸透しながら、欲望を創造し、感情を構造化する。(まさしく身体化を経て)主体と相成った私たちは、どうすれば欲望を、感情を自らの手の内に取り戻すことができるのだろうか。

『アナザーラウンド』の主人公マーティンもまた、理性的な主体である。理性的なんていうと少し堅苦しいかもしれない。おとなしめな性格、真面目、生徒からすれば堅物、そんなところだろう。歴史の教師である彼だが、その肝心な授業は文字通り教科書を読み上げるだけ。マーティンからしても生徒たちからしても退屈極まりないそれは、しかし、カリキュラム通りに授業をこなすという規則の果てに陥った形式主義なのだ。

家庭におけるマーティンの振舞いにも同種の病理を見て取れる。夜勤で忙しい妻と心を通わせることができなくとも、子供たちと上手くコミュニケーションをとれなくとも、感情を飲み込み、夫として大人としての役割を全うしようと、淡々とした日常を送るマーティン。あるいはそこに男性性の問題を見て取ることもできようが、ともかく、欲望を封じ込め、感情を抑え込む生活はマーティンの人間性を疎外し続けてきた。

この映画は、シラフであることのもっともらしさに揺さぶりをかける。規範によって身体化された平常を突き崩すには、アルコールをその身体に取り込むことによって内側から理性を、平静を、常識を攪乱するほかないのだと謳いあげる。

教えることの喜びを忘れてしまった先生に、緊張によって面接試験で勉強の成果を発揮できない生徒に、ちょっとばかりの─血中アルコール濃度0.05%に相当する─酒を差し出す。これでも飲んで、肩の力を抜いてみればいいじゃないか。そうすると、人生は案外と上手くいくのかもしれない。

とはいえ、この映画は酒を万能薬として称揚するわけではない。マーティンの友人の一人に起こるとある出来事がそれを物語る。事程左様に、肝心なのは規範によって絡めとられた生を解きほぐすことで見えてくる人生の喜びであって、あくまで酒はその手助けに過ぎないわけだ。酒に溺れてしまえば視界はぼやけてしまう。

しかし、本作のラストシーン、マーティンもといマッツ・ミケルセンの美しい身体が踊り、美しい世界に胸が躍る瞬間、シラフでは得ることのできない自由に私たち観客は夢を見る。それは論理の飛躍─最後のショットに目を凝らされたい─だろうか。もちろんそれでかまわない。ときに理性から飛躍することこそ我々の人生に必要なのだから。

翻弄される朝鮮半島のイメージとしての(『白頭山大噴火』感想)

ここ数年のハリウッドで、これといったディザスタームービー(とくに自然災害を取り扱ったそれ)が思いつかない。
僕が子供のころに都市伝説大好きキッズだったからそう見えていたとか、あるいは日本社会がノストラダムスの余韻とマヤのダメ押しの狭間で妙な熱に浮かされていた空気感の反映なんじゃないかとかを抜きにしても、ゼロ年代はディザスタームービーが豊富だったように思う。個人的に印象深いのは『デイ・アフター・トゥモロー』で、単にテレビでよくかかっていたというのが一番の理由だろうし、ここでは置いておこう。
とにかく『白頭山大噴火』は、そうしたディザスタームービーの感触を我々に思い出させるには充分な映画だということである。韓国映画の恐ろしさは、ポン・ジュノがオスカーを席巻したことよりもむしろ、案外とこういった大味の娯楽大作を、まさにハリウッドの大味娯楽大作と遜色のないものとして作れてしまうようになったところにあるのかもしれない。

この映画におけるディザスター(大災害)とはタイトル通り火山の噴火である。しかし、ストーリーの主題は、そのディザスターによって翻弄される朝鮮半島を描くことにある。例えば『シン・ゴジラ』において、日本を襲うゴジラが3.11の惨禍のアナロジーであったように。
ここで重要なのが、ゴジラが襲うのは「人間」や「文明」ではなく紛れもなく「日本」であり、そこに『シン・ゴジラ』がナショナリスティックだと言われる所以がある(同作のキャッチコピーは"ニッポン対ゴジラ。"である)。誤解してほしくないのは、ナショナリスティックというのが─”ナショナリズム”という語が世間一般で安直に用いられているような─”愛国主義”を意味しているのではなく─差し当たり簡潔にまとめるならば─共同体としてのネイションの成員(登場人物にしろ観客にしろ)の精神的紐帯を無謬の前提としており、またそれを喚起する話法が用いられているということである。
話を戻そう。『白頭山大噴火』は、その意味で『シン・ゴジラ』と構造上の類似点を指摘できるし、平たく言えば、やはりナショナリスティックなのである。しかし、この映画におけるネイションとは韓国ではない。未完のプロジェクトとしての、韓民族(朝鮮民族)の手によるネイションである。

清と日本─ロシアと日本─ソ連アメリカ─中国とアメリカといった具合に、朝鮮半島近現代史とは周辺各国の勢力争いによって翻弄されてきた歴史という側面を持つ。もちろん、そうした歴史を生き抜いた主体的なアクターとしての韓民族を無視してはならない。この映画は、まさに近現代史において朝鮮半島を翻弄してきた一連の事象を自然災害へと見立てることによって、韓民族による主体的なネイション建設─今日的な意味で言うならば、半島の統一という悲願─を語りなおすことを可能としたジャンル映画なのだ。

そう。本作はメロドラマの性格を備えたディザスタームービーであるから、直接的に政治的社会的事象を物語ることを避けている。その表れの一端は、ストーリーにおける北朝鮮の不在である。もし劇中に北朝鮮が存在していれば、この映画の性格はポリティカルサスペンスへと装いを大きく変えていただろう。そこで本作は、イ・ビョンホン演じるキャラクターへ北朝鮮性を一手に引き受けさせることにより、その問題を解決している。北朝鮮を体現するイ・ビョンホンと、韓国を体現するハ・ジョンウ。白頭山の噴火から朝鮮半島を救おうと奔走するこの凸凹コンビの交流は、バディムービー的な面白さを盛り立てるだけでなく、本来ネイションを同じくすべきであった同胞の和解を演出することに主眼が置かれている。

一方で本作は同時に、韓国から北朝鮮に対するパターナリスティックなまなざしによって支えられており─北朝鮮核兵器を手放したことで始まる物語において、同国が如何に飼い慣らされた表象と化しているか─、そこにエゴイスティックな自意識を見出すことも可能である。しかし、そうであっても、である。これほど露骨にアメリカを、中国を悪し様に描くことのできる胆力は中々にすごみを感じさせる。白頭山の噴火に端を発する半島の混乱に乗じ、各々の利益を完遂するために暗躍する米中。事程左様に本作は、近現代史において翻弄されてきた朝鮮半島を再演してみせる。アメリカ軍と中国の工作員に挟まれ身動きの取れなくなっているイ・ビョンホン父娘は、その今日的様相の忠実なイメージに他ならない。だが、状況をコントロールするのは今度こそ……。そこに駆け付けたハ・ジョンウのもたらす映画的飛躍は、火山さながらのカタルシスの爆発である。

ロンリーウルフと呼ぶにはあまりにも……な松坂桃李(『孤狼の血 LEVEL2』感想)

果たして、この映画における”孤狼”とは誰のことだっただろう。

少なくとも、前作『孤狼の血』におけるそれは、ダジャレめいた名前が指し示す通りに、大上その人であったことは間違いない。すると"血"というからには、日岡がその役回りを受け継いだかのように思えた。しかし、本作を見てみるに、日岡は警察組織にあっての形式的な役回りを引き継いだのであって、サーガにおける孤狼としてのロールを大上から受け継いだわけではなかった。では、『LEVEL2』において孤狼の名に相応しいのが誰かといえば、鈴木亮平演じる凶暴なヤクザ、上林であることは明らかだ。

胡乱な風体の新聞記者、高坂が劇中で日岡へ突きつけたように、大上が自らの仕事を蛇の道の範疇と心得ていたのに反して、日岡は己の築き上げた秩序に思い上がり、開き直ってさえいた。システムの中心で踏ん反り返るロンリーウルフなんているわけないだろ。この辺りはさしずめ「おめェもボスになったんだろぉ?このガレキの山でよぉ」といった具合だ。

対する上林はというと、その生い立ちから(劇中の)現在に至るまで、常に孤独を背負って生きてきた男だ。なによりも7年間刑務所に入っていたという設定が非常に活きている。刑期を終えシャバに戻ってきた上林を待っていたのは、尾谷組との手打ちを経てすっかり牙を抜かれてしまっていた五十子会の面々だった。口を開けばビジネスビジネスと筋も仁義もへったくれもないその姿に上林は絶望し、怒りを燃やしていく。

平成2年(1990年)を舞台にした本作であるが、この上林の姿はまさに時代感を反映している。バブル景気に浮かれる日本の象徴としての五十子会、そして日岡。不動産を転がして金を稼ぎ、外車を乗り回すアホ面の男たち。好景気に浮かれ熱狂する社会から取り残されてしまった上林からすれば、浦島太郎にでもなったようなものだろう。刑務所にいる間に日本社会もヤクザも、その装いをガラッと変えてしまったのだから。しかし、だからこそ上林は忘れていない。仁義も、筋を通すことも、今まで飲まされてきた苦汁の味も。あるいは旧時代の遺物なのかもしれないが、それこそが、上林が孤独な狼の、絶滅したはずのニホンオオカミの血をその身に宿している証左である。

本作が『仁義なき戦い』シリーズに多大なるオマージュを捧げた映画であることは言わずもがなである。同シリーズも同様に、変わりゆく社会の中で居場所を失っていく男たちの物語だ。仁義が失われ、経済的合理性や組織の論理が渦巻くヤクザの有様は、戦後の広島にあって、あの戦争などなかったかのように手のひらを返し、とぼけた顔をして経済成長に浮かれる日本社会そのものだった。広能や大友に代表される、『仁義なき戦い』シリーズに登場する時代に翻弄される若者たち。上林はその系譜にあるキャラクターだ。

そう考えると、主人公日岡の担っている役割が見えてくる。大上と上林、二匹の狼の死を看取った日岡とは、あくまでも観測者に過ぎない。滅びゆく種族をその記憶に留める、例えば『マッドマックス2』におけるフェラル・キッドのような、生き証人である。この物語のラストで日岡ニホンオオカミを幻視したことは示唆的だ。畢竟、『孤狼の血 LEVEL2』のストーリーとは、絶滅したはずのケモノが現れたことで右往左往する村人たち、山狩りをする消防団、その中にあってただ一人ニホンオオカミを認めることができた駐在さんという、あのエピローグに全て集約されていると言えよう。

そうして狼の姿を見ることのできる唯一の人間たる日岡が本シリーズの主人公であるのも必然なのだが、とはいえそれが物語の面白さに繋がっているかというと難しい部分もある。観測者の立場に甘んじなければいけない日岡は、孤狼に出会うことを経てもさして成長(し主体として行動)することができないからだ。故に『LEVEL2』では、大上の意志を受け継いだというにはあまりにも無様な、仁義なき体制の謀略と荒ぶる狼の間で悶える日岡を延々と見せられることになる。

確立した秩序の中で目的を見失い、目先の目標にさえなんら有効な手を打てない主人公の存在は、あるいは上林との対比として引き立てることに機能していると言ってもいいのだけれど、しかしどうにも映画そのものの在り様とダブっても見えてしまう。精緻なプロットも美しいフォトジェニーも鋭いクリティカルさも欠いて、行き当たりばったりの展開に身を任せるしかないスクリーン。ただ、行き当たりばったりの曲がり角で、失われた何かを─在りし日の東映ヤクザ映画を─観客に幻視させようと這いずり回るキャラクターたちに、もしかするとニホンオオカミの影を見ることができるかもしれない。我々はせめて日岡でいられるだろうか。そこに関しては自分の目で見て、あるいは見ることのできないことを通して、各々が確かめるしかない。

 

 

日記⑧

仕切り直し

 

9/10

京急油壺マリンパークに行った。

油壺はだいたいマグロで有名な三崎の辺りで、言わば神奈川県における南の端っこ。

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個人的には数少ない家族旅行で行った土地の一つ。そんなに思い入れがあるわけではない、どころかほとんど記憶にはないんだけど、今月中に閉館するというニュースを見て、せっかくだから少しでもノスタルジーに浸れたらなと思い駆け込んだ。

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うおー。

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うおー。

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魚(うお)ー。

 

 

 

 

 

 

 

 

以上。

記憶の中で油壺はかなり広い水族館というイメージだったんだけど、予想外にこぢんまりとしていて全くしっくりこず、懐かしさは微塵も感じなかった。ここまでくると、恐らくここを訪れた8歳当時の自分もあまり感動することなく、その後別に行った規模の大きい水族館の記憶で色々と上書きされてしまったのではないかと推測される。

一応イルカショーとか回遊水槽とか多少スペシャルなナニがないわけではないんだけど。この時はイルカショーの時間に間に合わなかったのと、回遊水槽も、まぁ、普通の水槽がグルッと一周してるだけっちゃだけなので、やっぱり感動は薄い。

がまがま水族館(白い砂のアクアトープ)ってたぶんイルカショーと回遊水槽をなくした京急油壺マリンパークくらいです。まぁ如何せん古い施設だし、規模でどうこういうのも野暮で、どちらかというと教育・研究的な方向性で特徴があるんだと思う。とはいえ個人的に、記憶との整合性が取れず、微妙にがっかりしたのは事実。

ちょうど目にボカシが入ってしまった”あの人”にまつわる教育的なパネル。

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ただ、古びた謎の展示が醸し出す、ノスタルジックを越えてもはやメランコリックですらある雰囲気等々、ここはここで見どころがある。

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やる気のないペンギン。

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眺めは良い。

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三崎のマグロはちゃんと旨い。f:id:metasiten:20210917230730j:image

 

でもやっぱ普通はみんな江ノ水行くよな~~。

 

9/11

TOEIC受けた。

 

9/12

『アナザーラウンド』

 

9/13

発狂。

 

9/14

発狂。

 

9/15

新居に本棚が届いた。本棚の組み立てと荷ほどきで一日終わった。これ見よがしに本棚の写真をインターネットに上げるオタクじゃないのでこれ見よがしに本棚の写真はインターネットに上げません。

 

これは猫。

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9/16

インターネットの居心地の悪さ、「拙者は世間の卓越化のゲームから降りてやす(笑)」みたいなノリのインターネッターたちがこぞってインターネットという”界”での卓越化のゲームをやってるからだろ。

 

9/17

『モンタナの目撃者』

 

9/18

発狂。

 

9/19

攻殻機動隊 4K リマスター』見た。アニメーションは4Kリマスターの恩恵を受けづらい素材ではあるが、クラシックを劇場の大スクリーンで見る機会があればできるだけ見ておいたほうがいいよね。

 

 

 

日記⑦

8/16

ゲームセンターでアップルジャックのBIGぬいぐるみをGETした。

↓大きさ比較。かなりBIG。かわいい。

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https://twitter.com/mylittleponyjpn/status/1423878792397791234?s=20

クレーンゲームをまともにやった経験がない、少なくとも物心がついてから真剣に欲しい物を狙ってやったような経験はないので、ゲームセンターに行く前はかなりナーバスな気分だった。どうせウン千円くらい使わないと取れないんじゃないの、みたいな。家で「UFOキャッチャー コツ ぬいぐるみ」とか調べて出てきた動画をいくつか見て臨んだ。

ところが蓋を開けてみると1回で取れてしまい拍子抜け。1ゲーム200円、3ゲーム500円。最悪の事態も想定して、最初から全力でいこうと500円を投入してからの1回目なので、実質200円というか、300円分は損。残り2回分は適当にプレイして消化。まあ他のポニーも取れたら取れたでうれしいかもだけど、如何せんBIGなのでMane6全員揃えるとかさばるし、でも2個3個取っちゃったらこの際6個全部揃えなきゃ収まりが悪いし、という強迫性障害じみた思考の結果、下手に本気で取りに行こうとせず、一番好きなアップルジャックひとつで満足するのが吉という結論に行き着いた。強いて言えばレインボーダッシュとペアにできるなら悪くなかったけど、ダッシィはBIGぬいぐるみ第一弾なのでそれも叶わず。

2回目3回目はフラタを置いてもらって一応やったけど、たぶん適当にやらなくても簡単には取れなかっただろうし、順当に500円だけ使いAJをGETして帰宅。アームがうまい具合にAJのポニーテールに引っかかってくれたことが勝因だと思う。無職の成人男性が巨大なぬいぐるみを担いで帰るのは恥ずかしいと思うくらいの理性は残っているので、店員さんがくれたビニールの袋からさらに自前の紙袋に入れて持ち帰りました。

 

8/17

発狂

 

8/18

ローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」を読む。仕事を辞めてからの読書に一貫していることは、なんとなく内容は知ってる、大学の授業で重要なページが印刷されたレジュメは読んだ、みたいな本をまるっと読むことです。

で。実際に読むと、今日的に見てもその有効さが損なわれていない議論の明晰さ、鋭さにひたすら膝を打ってしまう。少なくとも、男性観客と父権的社会の無意識が投影されたメディアにおける女性の表象、といった関係に絞れば、現代日本のおよその主流メディアにも当てはまる分析だと思う。

まあ、月並みなようだけど、それだけ日本社会において規範意識の変化がないことの裏付けかもしれない。あるいは、そうしたメディアの在り様が、観客の価値観を再生産するという、相補的な関係の内側にある循環。

例えば、なぜTwitterアニメアイコンは女性の描いたエッセイ漫画を叩き、嘲笑することにあれだけ執着するのかという、至極卑近かつクソどうでもいい話だが、やはり、そこにも構造的な問題があるわけで。マルヴィの精神分析を用いた映画理論的に言えば、男根中心主義(ファロセントリズム)によって規範(コード)化されたメディアの表象においては、女性は去勢不安の象徴としてしか描き得ない、つまり、女性を罰するなり救うなりの男性による支配を通して神秘性を剥ぎ取るか、逆にフェティッシュとして崇拝することを通して神聖化し祀り上げるか、どちらにせよ去勢不安を取り除くための客体として描くわけだ。逆に言えば、女性主体を、そこに内在する女性の自我を描くことは、極めて去勢不安を現前化する行為であり─なんでも去勢不安で説明ができると思っているわけではない。しかし、女性主体を描かないことが規範化されたメディアによって構造化された男性の意識が引き起こす、ヒステリックな拒否反応の説明としてはさほど的外れではないだろう。

また、マルヴィの理論は女性の主体性─とくに観客としての─を置き去りにしている点で反発を呼ぶものであったわけだが、自分の目で確かめてみれば、マルヴィ自身も女性の主体性を論じる必要があることを分かった上で、まずは父権社会─男性中心主義のハリウッドの無意識を暴き出すことが最初の一歩だよね、というエクスキューズも述べている。こういうのは、まぁ~そうだよねそれは、ということなんだけど、やっぱり実際に読んでみないと分からない。映画史、フェミニスト映画(理論)史における評価─マルヴィってこういうことやった人でしょという話─と、マルヴィ個人の思想─そういうことやああいうことをやる必要性有用性を認めてはいたけど、まずこういうことをやったという話─には、当然それぞれ文脈がある。

 

8/19

寝ても覚めても』を見た。濱口竜介東出昌大づかいが上手すぎる。後半の麦の登場シーンとかほとんどホラー。東出昌大の無機質さ。あとは海辺と喪失の取り合わせも『スパイの妻』と通ずる部分。あと猫。

 

8/20

8/18の追記。

テレサ・ド・ローレティスによる「女性映画再考 美学とフェミニスト理論」の位置づけは、マルヴィに代表されるテクスト分析(男性中心主義のハリウッドに対する批判的な動き、客体として描かれてきた女性表象の分析)の隆盛した第二期に対して、そこで掬いきれない女性観客の主体性や、レズビアン、非白人などのマイノリティ女性の問題を論じた第三期を代表する論文ということになる。

で、そのド・ローレティスがマルヴィをどう評しているかと言えば、「過去の論文を今の時点で読み直してみると、映画言語とか女性の美学といった問題は、女性運動との関連性において初めから、明確にされてきたことがよく判る…」という流れの中で言及している。

やっぱり、〇〇史のアウトラインだけで知った気になっていると、こういう血の通った枝葉の部分を見落としてしまう。少なくとも、連帯を志向するフェミニズムの範疇である当該学問分野にあって、こうした機微は重要なんだろうなと思う。

 

8/21

発狂。

 

8/22

発狂。

 

引っ越しの準備が忙しくなってきたため、集中して本を読むのが難しくなり、大変厳しい。暇なタイミングでも落ち着かず、とにかくYouTubeを眺めてボーっとしてしまうのがとてもよくない。(とくに理由はないけど高校生の頃サッカーをよく見ていたのを思い出し、当時のEUROやワールドカップのハイライトやゴールシーン集ばかり見ています)