雑多な感想

日本沈没2020

普段からそこまで考えているわけではないけれど、あるいは、なりに?、優等生的に今風のリベラルなメッセージなんかを込めてうまくまとめたんだなって印象。それ以上の何かが伝わってくることはない。国家なり民族なりを、真剣に思考したと思えないことは、このアニメに天皇が不在である謎からも理解できると思う。

主人公家族をフィリピン人とのミックス(ハーフ、ダブル、混血…)にして今風である感じを出しているが、出自からいえばむしろ彼らは越境的な存在で、日本という単一のネイションに縛られない人々である。むしろ、日本が沈没するときに問題となってくるのは、地=血によって列島に縛り付けられた人間たちの実存のほうだ。であるからこそ、天皇もまたこの物語に不可欠であるはずじゃないか。もちろん、現代日本社会の多様性を描く上で、前者の人々をメインに描くこと自体は否定しないが、しかし、後者の人々の視点から「日本」が語られることがほとんどないのは、作品の根幹にかかわる欠落だと思う。

それに気になるのは、最後に映る衛星写真では韓国も一緒に沈没していること。序盤では、フィリピンとかにも津波の被害が、なんて言っていた。わりと本気で分からないのだが、「日本が沈没する」という絶対にありえない嘘を既にひとつついているわけで、中途半端に他のどこぞにもこれくらいの被害がと、妙なリアリティに寄せていく意味があるのだろうか。(原作を読んでいないので、元からある設定ならすみません)

それほど、地球規模の災害になってしまうなら、もはや、日本というネイションの問題ではなく、グローバルに立ち向かうべき環境問題の話に片足を踏み込んではいまいか?そのほうが、図らずも、時宜に適ったテーマでもあるわけだし。

 

〇BNA

ふざけんなトリガー。なにが中島脚本じゃボケナス。湯浅が今風なテーマを形だけでも今風に仕立て上げてるのに対し、こっちは今風なテーマを勘違いした醜悪な何か。前作の劇場版アニメ『プロメア』からほとんど成長が見られない。何故かマイノリティと差別の問題を描くことに執着しているようだが、およそ真剣に考えているとは言いようのないストーリー。

言うまでもなく、差別とは一般に、他者をとある、所与の性質を持った存在としてまなざすことによって生じるものだ。アルベール・メンミは著書『人種差別』の中で、人種差別を以下のように定義している。

人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである。

ある集団が、他者集団に対して、差異を捏造、あるいは強調し、そしてその差異に価値づけをすることによって、自身の利益を引き出すこと。同時に、利益を引き出すことは、その他者集団への支配、搾取へと繋がることにもなる。そこにおいて、マイノリティがマジョリティをまなざすことの暴力性が顕現する。しかし、BNAでもプロメアでも、そういった差別を引き起こす心性にまで踏み込むことはない。かろうじて熱血キャラの主人公が、友情を通して偏見を反省する描写があるくらいで、差別の根源的な問題には一切立ち入らない。

では、そうした両者の、差別を描いた物語は、なにをもって解決を見るのか。それは、「実は諸悪の根源は悪のマイノリティだった!」であり、「悪のマイノリティを善のマイノリティが倒して一件落着!」なのである。は?舐めてんのか?

一万歩譲って、悪のマイノリティが既得権益的にマジョリティの社会の内側に座しているとしても、差別の問題は他者に偏見の目を向ける(マジョリティの)精神構造に根差すものであって、ひとりのヴィランを排除したところで解決されるものではないし、そもそも根本的には別の問題だろう。もちろん、差別の問題を描くときに、その原因をマイノリティに求める作劇を平然と作れてしまう神経のおぞましさは言うまでもないけど。ガイナックスのアニメにもよく見られた「実は敵(仲間)だと思ってたアレが!」的などんでん返しに対する強迫神経症なのか分からないけど、そんなどんでん返しならどんでん返さないほうがいいよ。

 

WAVES

しばしばTwitterでも「男の会話には中身があるけど女の会話には中身がない」とか「男は論理的だけど女は感情的」とかいった趣旨のツイートが流れてきてうんざりすることがある。けれどもそれは、部分的に、現実社会における何がしかの構造を照射してもいる話ではあるように思う。それはケア労働がもっぱら女性の領域とされてきたことと無関係ではない。

WAVES』の前半には、そうして感情のケアから疎外されてきた男性たちの末路が、あまりにも痛々しく描かれている。彼女の妊娠に動揺したタイラーが、両親と相談して生むことに決めたという彼女に対して「なんで親に言ったんだ」と怒鳴るシーンは、その対比としてよく機能しているのではないか。「勝手にそんなことを決めるなんて!」と怒るタイラーに感情移入してしまいそうな場面だが(そもそも妊娠して困るなら避妊を徹底しろ)、妊娠という重大な事態を親に相談できないほどに彼を束縛する価値観のほうにこそ、根本的な問題が横たわっている。弱さをさらけ出せないマスキュリニティの拘束が、テイラーを視野狭窄にせしめ、悲劇へと追いやるのだ。

後半は一転して、タイラーの妹エミリーの目線でその後の生活が語られる。ボーイフレンドとなるルークは気取った感じのない、素直な少年であり、彼との交流を通じて、高まりに高まった物語の緊張と、ウィリアムズ一家を苦しめてきたマスキュリニティが解きほぐされていくわけだ。(このルークが、死を間近にした父の介護をするシーン、そして亡くなった父を前にして涙を流すショットは、直接的な意味でのケア労働と広い意味での感情のケアを切り取っており、エミリーに、そして我々観客に、可能性をほのめかす点で感動的である)その意味で、最終的に、悲劇の原因でもある父ロナルドが涙ながらに感情を吐露するシーンで本作が幕を閉じるのは必然だろう。

性的に、あるいは社会的に?不能感を抱える男性に対して向けられる「”男らしさ”から降りましょう!」といった類のメッセージは、それが根本的な解決へと至らないアドバイスであるのに加え、問題の解決を社会構造にではなく個人の領域に押しとどめるという意味に限って言えば、疑問を抱かずにはいられないものである、と個人的には思う。のだが、それにしても、”男らしさ”によって自縄自縛に陥る男性(もちろんマスキュリニティによって被害を受ける女性も含む)の生きづらさを、幾分か解消する可能性も秘めている。その点において、本作の描くストーリーにも多分に価値がある。

 

〇透明人間

古典的な題材である透明人間を、見るー見られるという構造に潜む権力関係から再解釈した映画。BNAの話でも触れたように、差別とは、一般にマジョリティがマイノリティに対して、偏見の目を向けることによって生ずるものである。「偏見の目」というのはひとつの比喩であるわけだが、この見るという行為の権力性は、実際、支配ー被支配の関係の中で、明瞭にその実態を認めることができる。例えば、帝国主義の時代、欧米に存在した「人間動物園」や、日本でも、1903年の第五回内国勧業博覧会で設置された「人類館」などは、観察という行為がどのような権力関係の上で成り立っているものなのか、顕著に我々に知らしめる出来事だ。

それを踏まえたうえで『透明人間』を見ると、透明であることというのが、ひとつのメタファーであることがよく分かるだろう。というのも、この映画は、監視カメラによって始まり、監視カメラによって終わるからだ。やはり、本作の通奏低音となっているのは、見るー見られるという権力関係の告発である。

なによりも本作における権力関係とはジェンダーだ。男性が女性をまなざすこと。それは、単に監視することであり、「女はこうであるべきだ」とジェンダー規範を押し付けることであり、そして支配することに繋がっている。

物語は、セシリアが監視カメラを切り抜けて、夫エイドリアンの眠る家を脱出するシーンから始まる。多くは語られないセシリアの結婚生活であるが、監視カメラを張り巡らせて家の中に閉じ込めていたこと、後に明かされる、無理やり子供を産ませようとしていたことなどを勘案すれば、セシリアが(ジェンダーロールを期待されて)家庭に縛り付けられていたことは想像に難くない。そこから抜け出したセシリアは、透明人間と化した(らしい)エイドリアンによって脅かされることになる。ここで疑問が湧く。なぜ家出をしたくらいで、そんなに回りくどい嫌がらせをされなければならないのか。途中でセシリアが「なんで私なの?」と叫ぶシーンがある。金持ちで、若くて、ナイスガイなエイドリアンなら、新しくパートナーを見つけることなんて造作もないはずだ。なぜエイドリアンはセシリアに執着したのか。その答えは、家父長制─ラディカルフェミニズムにおける「男性による女性の体系的・総体的支配」、としか言いようのないものだろう。思い通りに支配すること、その欲動。つまり、本作において透明人間とは、一方的に他者を観察することの暴力性であったり、家父長制的な支配欲求であったりと、多義的な性質をまとった存在なのだ。

しかし、本作の偉いところは、そういったテーマを、悲観的に描くにとどまらない点にある。むしろ、その、見られていることを利用して、最後には……を………することで、納得のラストシーンを生み出しており、(もちろん単にホラーとしても面白いんだけど)、カタルシスの伴った快作として、かなり優れた一作のように思う。