日記④

7/12

BLM運動における銅像に対する異議申し立てへの考察。の追記。

ある種の人間は、リー将軍だったり並み居る大統領だったりの銅像が攻撃されることに怒り、そして攻撃するものを嘲笑する。しかし、異議申し立てのあることそれ自体が、特定の人物の銅像が必ずしもナショナルな記念碑たり得ない事実を示している。また、そうたり得ないことは、特定の人物を象った銅像が無謬の記念碑としての不可侵性を欠いていることの証左である。

言い換えるならば、異議申し立てを受けている時点でその銅像は、少なくともナショナルな記憶・感情の共有・継承といった意味で、役目を果たすことのできない無用の長物に過ぎないのだ。

なぜそうした事態が起こるのか。「無名戦士の墓」との対比で考えてみればいい。「無名戦士の墓」に入るのは、奴隷制を擁護する人格者の将軍でもなければ、奴隷農園を営む偉大な建国の父でもない。存在しないが故に完全である、我らが”アメリカ人”の偶像に他ならない。

 

7/13

 ハリウッド映画が所謂ポリティカル・コレクトネスに気を使っていて、とくに人種マイノリティ描写なんかでは、それをごくごく自然かつ上手にストーリーの内側に着地させている作品も増えていることに異論はないだろう。しかし、それでも変わらないな~という部分はあって、たとえば『ブラック・ウィドウ』におけるロシア人描写のテンプレ加減なんかがそれだ。最近ではほかにも『Mr.ノーバディ』のロシアンマフィアがコテコテのロシアンマフィアでちょっと食傷気味に感じた。

もちろん、同じMCUにしても『エンドゲーム』の日本描写が『ブレードランナー』から変わらないイメージで流石にどうなのとか、『ブラックパンサー』もアフロ・フューチャリズムといえば聞こえはいいけどエキゾチシズムの枠を出ないんじゃないかとか、前から目に付く部分はあって、そこには地続きの何かが存在しているように思う。

それが何かというと、アメリカニズムの問題だ。アメリカニズムとは、アメリカにおけるナショナリズムの在り様というか、植民地国家であり多民族国家であり、伝統的な文化(もちろん言語も含む)や境界を持たない国家としてのアメリカにあってナショナルネス─国民であること、そのあり方─を規定する価値観である(古矢旬の研究を確認されたし)。究極的なアメリカニズムのイメージはWASPと呼ばれる、白人でアングロサクソン系でプロテスタントの宗派を信奉する者こそアメリカ人であるというそれだろう。しかし、今日では、人種や宗教に基づいてある集団を排除しようとすることが(少なくとも表立って(とトランプ時代以降を生きる我々が言っていいのか分からないが))受け入れられないように、そうした凝り固まったアメリカニズムは解体されていると言ってようだろう。

一方で、Qアノンに見られるユダヤ陰謀論のたぐいは、現在でも驚くほどの影響力を持っている。その理由の一端は、直接的な人種や宗教に対する憎悪というよりも、ユダヤ人がアメリカ国家ではなく、ユダヤ教ユダヤのネットワークに準じているというイメージに由来する。 たとえば、かの黒人に対するリンチで有名な秘密結社KKKは、1920年代、特に東部や中西部の活動において反カトリシズムを明確にしていた。それはカトリック教徒が、アメリカ国家ではなくローマ教会に準ずる、アメリカ的価値観への同化を拒む存在と捉えられたからだった。

つまり、シチリアマフィアや上記のロシアンマフィアに顕著なステレオティピカルな描写は、単に視点が「アップデート」されてないのではなく、根本的に、アメリカ国家ではなく組織に準じているために、ある種のイタリア人やロシア人をアメリカニズムの範疇と見なしていないことから生じている。であれば、日本やアフリカの国を描く上で、そこに誠実な想像力を働かせる動機が消えうせるのも当然だ。ハリウッド映画におけるポリティカル・コレクトネスとは、アメリカ人をアメリカ人と認める限りにおいて発揮される包摂の一形態なのだから。

 

7/14

フルット読み返してるけど、この漫画の無職描写のソリッドさを無職になったことで改めて感じた。石黒正数、初期も結構な高頻度で短編描いてるからあまりそんな感じを受けなかったけど、大学卒業してから連載持つまでの5年くらいはだいぶ鬱屈としてたのかな。

 

7/15

ライトハウス』よかった。『ウィッチ』のほうが好きだけど。どっちにも共通するけど、動物の禍々しさを扱うのが非常に上手い。

 

7/16

吉田大八の映画が面白い。まだ『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』だけは見てないけど、それ以外はどれも自分の好みにあったストーリーを描いている。そのエッセンスを端的にまとめるなら、日常と非日常の綱引きとでも言えるだろうか。たとえば、恐らく一番有名な彼の監督作『桐島、部活やめるってよ』と『騙し絵の牙』は、とある出来事をきっかけに平穏な日常が音を立てて崩れていく話だ。また『クヒオ大佐』と『紙の月』では、その裏返しとしての非日常への憧憬が強く表出している。『パーマネント野ばら』と『羊の木』、『美しい星』の三作は、日常に対する倦怠感と同時に生活者への温かい目線が感じられる点に、綱引き度合いの高さが窺える。

唐突だけど僕は「フリクリ」と「だがしかし」が好きだ。それは日常と非日常の綱引きを描いているからだ。毎日毎日代わり映えのしない景色にがっかりしているので、当然のごとく非日常に連れ出してくれるヒーローを求めているんだけど、最後はニナモやサヤ師のほうを向かなきゃ、ちゃんとしなきゃと思い出させてくれる。

とはいえ、吉田大八の映画は自分の趣味にあっているから面白いのではない。日常と非日常の綱引きというのが、本質的にサスペンスであり、スリリングであるからだ。退屈な日常を飛び出して非日常に足を踏み入れることは、ワクワクする冒険であるだけでなく、未知の世界に身を投げ出す恐怖でもある。じわじわと生活が変容していくドラマといえば静的な印象を与えるが、慣れ親しんだ日常で何が起こるか分からないということほど恐ろしいものはない。そして、吉田大八監督の、その慣れ親しんだ日常を描くことに長けている手腕(『桐島、部活やめるってよ』の自然主義的な演出はその白眉だろう)は、(もちろんそれ単体でも味わいがあるが)そうした物語構造を扱うにあたってこの上なく効果的だ。

 

7/17

平山夢明の短編集『独白するユニバーサル横メルカトル』を読んだ。

僕とこの本の因縁は7年前、高校3年生のころまで遡ることができる。その日が雨だったのか晴れだったのか、暑かったのか寒かったのかも思い出せないけど、予備校をサボって学校帰りにマックでダべっていたくらいだから、まだ受験の緊迫感もさほど高まってない春先の出来事だったと思う。なんということはなく、友達とポテトをつまみながら雑談をしていて、どういう流れだったのかは忘れたけど、その時すすめられた本が『独白するユニバーサル横メルカトル』だった。その異様な響きを持つタイトルに引っかかりを覚えたものの、「受験が終わったら読むよ」と生返事をしてまたポテトをひとつ口に運んだのが最後、悲しいかなそれは記憶の引き出しの奥にしまい込まれてしまった。

次にこの本と出会ったのは2016年。大学の先輩から映画に誘われた。場所は渋谷アップリンク、映画のタイトルは『無垢の祈り』。「無垢の祈り」は『独白するユニバーサル横メルカトル』に収録された一編で、これはその実写映画である。この段になると流石に平山夢明の名前と彼がホラー小説家であることくらいは知っていた。しかし、ホラーものがすこぶる苦手だった僕が手を伸ばすわけもなく、映画を見に行くにあたってググった情報から、『独白するユニバーサル横メルカトル』が彼の作品であると認知し、やっぱり読んでおくべきだったかなと思ったことは覚えている。映画の内容については触れないが、川崎の、灰色の工場地帯と、そこから排出される煙によって染め上げられた灰色の空で、スクリーンいっぱいに広がる息苦しさが印象的だった。ちなみに、映画館を出てすぐに、先輩がお腹が空いたと言ってケバブを買って食べはじめたのを見て、すごいなと思ったこともまた、未だに忘れられない。(なぜすごいのか、映画のあらすじを読めばだいたい察しがつくと思う)

して、なぜ今日まで読まなかったのかと問われても明確な理由はこれっぽちも存在せず、故に、なぜ今日になってようやく読んだのかを語るほうがよほど生産的だろう。といっても、そこにだってまともな理由なんてものはなく、単なる偶然にすぎない。何を隠そう、フォロワーのツイートしていた本棚の写真の中に、『独白するユニバーサル横メルカトル』の背表紙を認めたからである。またか、と頭を抱えた。もちろん、2007年に「このミス」1位を獲得している本作だから、それはいたるところで目にしたって不思議はないんだけど、こう度々偶然が飛び込んでくると、三度目の正直というか、仏の顔も三度までというか、なんとなくこれを逃したら穏やかじゃないような気がしてくる。その運命的な不吉さに恐れをなした僕は一路紀伊國屋書店へと急ぎ、とうとう本書を手に取ることと相成ったのだった。(しかし、買ってから実際に読み始めるまで2カ月を要した)

 

7/18

細田守の映画全部見る。に着手した。

未来のミライ』、横浜が舞台だけど特に横浜っぽさを感じないのが、喉に魚の小骨が引っかかったようなアレさがある。