日記⑤

7/19

ルックバックの話がしたいけどルックバックの話はしたくない。

個人的なことを言えば、落書き小僧だった頃の記憶が奔流のように溢れだしてとてもつらくなった。小学生のころは、今からは考えられないほど、漫画を描くことに取り憑かれていた。では、なぜ落書き小僧を卒業したのか。中学生になって、自分よりも絵の上手い人がこんなにいるんだなと思い知ったことが、たぶんその一因かもしれない。

そういう意味で、その作品の内容や出来とは別のところで、読者にそれぞれの過去を振り返らせる(ルックバック!)恐ろしい漫画であることは確か。

 

7/20

『プロミシング・ヤング・ウーマン』の居心地の悪さ。

この映画のエッセンスは、オープニングの場面のあと、路上を歩いて家に帰るカサンドラが作業着を着た男たちにヘラヘラと声を掛けられるシーンにある。声を掛けるというのは性的なからかいでありいやがらせ─Catcallと言われるそれ─なのだが、そのまま立ち尽くしたカサンドラは彼らをにらみつけ微動だにしない。すると男たちは「何見てやがる」「はやく行け」「冗談じゃねえか、本気にしやがって」と狼狽えはじめる。

『透明人間』がそうであったように、この映画でもジェンダーにおける権力勾配を、見る─見られるの関係の中で捉えており、また時にそれを転倒してみせることで、観客にメッセージを伝えようとしている。本作の結末に対してそれぞれ意見はあるだろうが、最後にチャットアプリで送られる「終わりだと思ってない?いえ、今はじまったばかり」というメッセージは、まさしく映画を見ていた観客に向かって宣言することで、上映時間の間ずっと傍観者であった我々に居心地の悪さを感じさせるそれだ。

 

7/21

最近イライラすること。

〇「朝シャンはハゲる」という言説。調べてみると多くの点で「朝にシャンプーをすること」がハゲに繋がるのではなく、「夜にシャンプーをしないこと」がハゲの原因になることが分かる。したら、「朝シャンはハゲる」じゃなくて、「夜シャンしないとハゲる」というのが適切だろうが。僕は朝シャンしないのでどうでもいいっちゃどうでもいいけど。

〇「化調(および化学調味料を使った料理)は不味い」という言説。化学調味料とはすなわちうま味調味料である。つまり、うま味成分をして我々の舌のうま味受容体を刺激してくるのだから、不味いわけがないのだ。化調は不味いは嘘だ。もちろん「化調を使ってない料理のほうが美味しいor好き」という言い方は成り立つ。というか、僕自身がそういう意見だから。例えばラーメンなら、化調を使っていない店であれば、いかに化調を使わず美味さを引き出すか、多様な材料の複雑な味を組み合わせてスープを作っているわけで、そこには重層的な味わいが生まれるはずだ。対して化調は、結局化調の平板な味わいでしかなくて、美味いけど美味いだけなような感じがする。スープを飲んでいても、醤油ダレだったり煮干しだったり鶏や豚だったりの味が引き出されてるから美味いのではなく、化調がうま味成分を持ってるから美味いだけであって、何を食べているのか分からなくなって気さえする。何が言いたいかと、化調の不味さという無理のある言葉で食い物を語るのではなく、それぞれの食材の美味さにおいて化調の限界を見定めることのほうが、筋が通っているのじゃないでしょうか(なによりそうしないと化調は美味いし健康に悪くないという反論を許すことになる)。ちなみに僕が一番好きなラーメンは「地球の中華そば」の塩そばです。(今日久しぶりに食べに行って前々から化調について考えていたことを思い出した)

 

7/22

小林某の”ユダヤ人大量惨殺ごっこ”が軽薄な不謹慎ネタだったことは言うまでもないが、それが即刻の解任によって埋め合わせられるべきものだったのか、あるいはその悪質さとは如何ほどか、僕には言明できないし、多くの人にとってもそうだろう。実際に他人に危害を加えていた小山田のそれと異なることはもちろん、露悪的であるもののホロコーストをよろしくないものと扱ってはいるネタである点が、その判断基準を難しくさせる一因だ。とはいえ、今回フォーカスされたホロコーストギャグには二つのレイヤーでの軽薄さが備わっていると、個人的には思っている。

一つには、日本のドメスティックな軽薄さである。端的に言えば、閣僚が「ナチスの手口を見習え」と言ってもなんらお咎めを受けない社会の、全くの考えなしにアイドルにナチスの軍服風の衣装を着せてしまう大人たちの、軽薄さだ。

今回の件でサウスパークが引き合いに出された言説をいくつか目にしたが、サウスパークラーメンズ当該コントの決定的な違いというのはここにある。良しにつけ悪しにつけ、サウスパークのギャグがレイシズムやアンチセミティズムに対する批評性によって裏打ちされたものであることは、当シリーズの視聴者であれば首肯してくれると思う。対して、”ユダヤ人大量惨殺ごっこ”はどこまでいっても些細な不謹慎ギャグでしかなかった。

その表層だけを上滑りしていく露悪の表象は、ナチスヒトラーに対するあまりに浅薄な取り扱い(ギャグとしてでさえ、である)の許されるこの国特有の現象のように思われる。

次に考えたいレイヤーの軽薄さは、恐らくサウスパークにも関わるものだ。ヒトラーを真正面から扱ったエポックメイキングな映画に『ヒトラー~最期の12日間~』がある。本作自体は硬派な政治劇であるのだが、まさにエポックであったがために、ある種のタガを外すきっかけとなってしまったことに特徴づけられる。というのも、これ以降にヒトラーをカジュアルに扱う映像作品が急激に増えたからである。それというのはもちろん、「総統閣下は〇〇にお怒りのようです」と題した一連の動画群に見られる、この映画のパロディ動画を含むものである。

ここでその是非を問おうというのではない。そうした動画にしても、見方を変えればヒトラーを笑いものにしているわけであるから、なにもナチスを賛美しているわけではないだろう。しかし、からかいという行為は親密性を前提としたものでもある。その点から言えば、『ヒトラー~最期の12日間~』以降の文化状況は、ヒトラーナチスに対する心理的ハードルを著しく下げたものに変容してしまった。そうした社会において、ポップカルチャー的カジュアルさが政治的カジュアルさにいともたやすく接続し得ることを示したのが、映画版『帰ってきたヒトラー』に映しとられた街頭インタビューの数々ではなかったか。仮に批評的な意図があったとしても、ある事象をカジュアルに表象する営みが、我々の認識枠組みを変容させる可能性。くしくも『帰ってきたヒトラー』が日本で上映されたのは、相模原市津久井やまゆり園で植松聖があの大量殺戮を繰り広げるおよそ一ヵ月前であった。

ユダヤ人大量惨殺ごっこ”は戦争犯罪や差別の問題に誠実に向き合ってこなかった日本社会の軽薄さの反映といって差し支えないだろう。しかし、政治や歴史に一家言ある人間の、多分に批評的な意味付けのなされた不謹慎ネタであろうと、そのスタイルが、軽薄が軽薄である故にもたらされる不幸の可能性が存在する。そこに考えが至るとき、やはり小林某に対する、こうした不謹慎な笑いに対する、自らの過去のふるまいに対する批判的目線の必要を感じざるを得ない。

 

7/23

オタクだからどうしてもサブカルチャーの視点で考えてしまうんだけど。今回のオリンピックの開会式では、普段クールジャパンだなんだと言いつつも、精々ゲーム音楽を選手団入場のBGMにしてやろうくらいにしか、自国のポピュラーカルチャーを信用していないのだろうなということが分かった。

しかし、恐らくそこに何かの意図が働いていたわけではないだろうと思いつつも、あの”安倍マリオ”との比較はやはり印象的だ。良かれ悪しかれ、というか主に悪しだと思うが、ともかく新しい政治状況を演出してみせた前首相と、ことコロナ禍において旧態依然のそれを思わせる現首相との対比。もちろんクールジャパンだなんだと言いつつクソみたいなハリボテ政策をやっていたのは安倍その人であるのだが。批判的な人間すら揃って「チンポを見せろ安倍晋三」だのとじゃれて見せるほどに大衆的人気を集めていることが個人的には全く理解できなかったのだが、なるほどである。欺瞞であれポップカルチャーをまとってみせる人間。かたや、形だけ取り繕ったまじめ風な開会式の開催される時代を象徴する人間。

とはいえ、いわゆる「MIKIKO案がよかった」的な議論をしたいわけではない。むしろ、その形だけのイベントに諸々のカルチャーが取り込まれなくてよかったとすら思う。同性婚は絶対に合法化しないけれどレインボーのドレスで着飾ったMISIAに国歌を歌わせ、おぞましい人種差別(入管など国家ぐるみで)がまかり通っているのにも関わらず大坂なおみ聖火ランナーのトリをまかせるような、形だけ取り繕ってイマドキぶってみせる最悪のイベントに。

 

7/24

ファイト・クラブ』で”宿題”を出されたメンバーの一人が道行く人にホースで水を掛けるシーン、リュミエール兄弟の『水をかけられた散水夫』じゃん

 

7/25

細田守の映画全部見た。

通しで見ると作家性がダイレクトに伝わってきて、この監督本当にホンモノなんだなと感慨を新たにした。あるインタビューによれば、宮崎駿はレイアウト至上主義であり、押井守もそのイズムを受け継いでいるという。その意味で言えば、細田守もまた、レイアウトに忠実な作家の一人であろうし、現在最も正統なアニメーション監督と言えるかもしれない。

細田守のアニメに特徴的なのは、正面、もしくは真横からキャラクターを映す引きのショットを多用するところである。そうした抑制的なカメラは、淡々とキャラクターのアクションを観察することに終始する。すると必然的に、鑑賞に耐えうる秀逸なレイアウトが求められることになる。また、この監督は同じショットの反復─ときにそこに描写される背景やアクションの微妙な差異─によってストーリーやキャラクターを物語るのを好む。その積み重ねから生み出されるのは、バシッとキマったショットの中でバシっとキマったアクションをさせる(=そこにおいて物語る)という、アニメーションの快楽原則をこれでもかというほどまっとうに果たしてみせる映画だ。

実は20日に諸事情で4度目の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見たのだが、4度目ともなるとかなり冷静にスクリーンを眺めることができ、また細田守集中週間との対比の中で、この映画が(個人的には色々あって好きだけど)傑作の風格を欠いた作品である理由というのも見えてくる。その一因は、やはりレイアウトに対する執着の欠如にあると思う。落ち着いて見られるようになると際立って感じられはじめたのは、『シンエヴァ』があまりにもシャカシャカとカットを割ることだった。異常なテンポで不必要なほどカットを割る。その度にどうでもいい角度で、どうでもいいクローズアップで、どうでもいいものを映す。ハッキリ言ってうっとうしい。それで何がしたいのかも分からない。異常にカットを増やした結果目立つのは、女の尻が大写しになるその異常な回数だけである。いや、いいショットだってあるのだ。でも、「このショットいいな」と思った瞬間、すぐにカットが切られてしまう。いいだけに、そのもったいなさが悲しい。

なぜ、そうした事態が起こるのか。プリヴィズによって自由度が格段に上がったことの弊害かもしれない。もしくは、モーションキャプチャーによって実写に近い映像表現を取り入れたことの副作用かもしれない。つまり、『シンエヴァ』の新しい挑戦の数々はアニメーションの表現の可能性を広げたのかもしれないが、アニメーションの快楽の原形を損なわせてしまったのかもしれない。

実際、どれほど『シンエヴァ』に印象的なショットがあっただろう。なぜ、この映画からは旧劇に満ち満ちていたフォトジェニーを感じ取ることができないのだろう。あれだけたくさんカットを切れば、一見したときの、劇場用アニメとしてのゴージャスな雰囲気や、完結作に見合った景気の良さは演出できるかもしれない。しかし、どうしても気持ち良くはない。

逆に言えば、である。細田守の作品の内容に対する好悪や評価はそれぞれあれど、この監督の作るアニメーションの気持ちよさだけは常に確かである。この1週間細田守の監督作を見返したことで、『竜とそばかすの姫』を見るのが楽しみになったのはささやかな幸運だった。