翻弄される朝鮮半島のイメージとしての(『白頭山大噴火』感想)

ここ数年のハリウッドで、これといったディザスタームービー(とくに自然災害を取り扱ったそれ)が思いつかない。
僕が子供のころに都市伝説大好きキッズだったからそう見えていたとか、あるいは日本社会がノストラダムスの余韻とマヤのダメ押しの狭間で妙な熱に浮かされていた空気感の反映なんじゃないかとかを抜きにしても、ゼロ年代はディザスタームービーが豊富だったように思う。個人的に印象深いのは『デイ・アフター・トゥモロー』で、単にテレビでよくかかっていたというのが一番の理由だろうし、ここでは置いておこう。
とにかく『白頭山大噴火』は、そうしたディザスタームービーの感触を我々に思い出させるには充分な映画だということである。韓国映画の恐ろしさは、ポン・ジュノがオスカーを席巻したことよりもむしろ、案外とこういった大味の娯楽大作を、まさにハリウッドの大味娯楽大作と遜色のないものとして作れてしまうようになったところにあるのかもしれない。

この映画におけるディザスター(大災害)とはタイトル通り火山の噴火である。しかし、ストーリーの主題は、そのディザスターによって翻弄される朝鮮半島を描くことにある。例えば『シン・ゴジラ』において、日本を襲うゴジラが3.11の惨禍のアナロジーであったように。
ここで重要なのが、ゴジラが襲うのは「人間」や「文明」ではなく紛れもなく「日本」であり、そこに『シン・ゴジラ』がナショナリスティックだと言われる所以がある(同作のキャッチコピーは"ニッポン対ゴジラ。"である)。誤解してほしくないのは、ナショナリスティックというのが─”ナショナリズム”という語が世間一般で安直に用いられているような─”愛国主義”を意味しているのではなく─差し当たり簡潔にまとめるならば─共同体としてのネイションの成員(登場人物にしろ観客にしろ)の精神的紐帯を無謬の前提としており、またそれを喚起する話法が用いられているということである。
話を戻そう。『白頭山大噴火』は、その意味で『シン・ゴジラ』と構造上の類似点を指摘できるし、平たく言えば、やはりナショナリスティックなのである。しかし、この映画におけるネイションとは韓国ではない。未完のプロジェクトとしての、韓民族(朝鮮民族)の手によるネイションである。

清と日本─ロシアと日本─ソ連アメリカ─中国とアメリカといった具合に、朝鮮半島近現代史とは周辺各国の勢力争いによって翻弄されてきた歴史という側面を持つ。もちろん、そうした歴史を生き抜いた主体的なアクターとしての韓民族を無視してはならない。この映画は、まさに近現代史において朝鮮半島を翻弄してきた一連の事象を自然災害へと見立てることによって、韓民族による主体的なネイション建設─今日的な意味で言うならば、半島の統一という悲願─を語りなおすことを可能としたジャンル映画なのだ。

そう。本作はメロドラマの性格を備えたディザスタームービーであるから、直接的に政治的社会的事象を物語ることを避けている。その表れの一端は、ストーリーにおける北朝鮮の不在である。もし劇中に北朝鮮が存在していれば、この映画の性格はポリティカルサスペンスへと装いを大きく変えていただろう。そこで本作は、イ・ビョンホン演じるキャラクターへ北朝鮮性を一手に引き受けさせることにより、その問題を解決している。北朝鮮を体現するイ・ビョンホンと、韓国を体現するハ・ジョンウ。白頭山の噴火から朝鮮半島を救おうと奔走するこの凸凹コンビの交流は、バディムービー的な面白さを盛り立てるだけでなく、本来ネイションを同じくすべきであった同胞の和解を演出することに主眼が置かれている。

一方で本作は同時に、韓国から北朝鮮に対するパターナリスティックなまなざしによって支えられており─北朝鮮核兵器を手放したことで始まる物語において、同国が如何に飼い慣らされた表象と化しているか─、そこにエゴイスティックな自意識を見出すことも可能である。しかし、そうであっても、である。これほど露骨にアメリカを、中国を悪し様に描くことのできる胆力は中々にすごみを感じさせる。白頭山の噴火に端を発する半島の混乱に乗じ、各々の利益を完遂するために暗躍する米中。事程左様に本作は、近現代史において翻弄されてきた朝鮮半島を再演してみせる。アメリカ軍と中国の工作員に挟まれ身動きの取れなくなっているイ・ビョンホン父娘は、その今日的様相の忠実なイメージに他ならない。だが、状況をコントロールするのは今度こそ……。そこに駆け付けたハ・ジョンウのもたらす映画的飛躍は、火山さながらのカタルシスの爆発である。