そこは中世ではなく、そこに真実は存在しない(『最後の決闘裁判』感想追記)

Ⅰ.そこは中世ではない

  その評(肯定的にしろ否定的にしろ)の中で、この物語が「中世」を舞台にしている点に何らかの意味を見出す意見を目にし、耳にする。要約するならば、「アップデートされた視点から野蛮な旧習を描けている」的なそれや、「いま・ここの問題を中世のロマンの内側に押しやっている」的なそれになるだろう。付言すれば、その前者には(なのでこの映画で描かれているような価値観を今日保持している人間は中世的な野蛮に他ならない)という言外の意味が込められているはずだ。

 悲しいことに僕は中世フランス史に明るくなく、また愚かしいことにこの映画の原作を読んでいないので、史実との整合性に関して見当違いなことをこれから書くことになるかもしれない。しかし、あくまでも劇中で描かれることの整合性についてここでは論じたいのだということを、先に言い訳しておく。

 単刀直入に言えば、『最後の決闘裁判』は必ずしも中世的な世界を舞台としているわけではないと解釈できる。それは史実の出来事が歴史上のいつに起こったとか、広く知られるところの時代区分に当てはまるとかではなく、あくまでも劇中で描かれることの整合性から見れば、中世的なるものとして表象される要素(封建制キリスト教世界のイメージ)からは解放された物語だということだ。

 例えば、カルージュとル・グリはどうして決闘をしたのか。高等法院で司法官たちに判決を下されるより、決闘を通して神の意志のままに決着を任せることを選んだのだろうか。もちろんその答えは否である。彼らは男としての名誉を示すために決闘を選んだのだ。

 また、劇中ではマルグリットの妊娠に関して、何度も男たちから「絶頂をしたのか」と問いかけがなされる。セカンドレイプの表現を意図しただろう反復と解釈できるシーンだ。しかし、ここでもうひとつ注目すべきなのは、彼らにとって妊娠が神から子を授かることではなく、(当時の基準における)生物学的な現象として理解されている点だ。医者がマルグリットに四体液のバランスを問うてさえいることは極めて重要だろう。この映画の登場人物たちにとって、不妊は信仰によってではなく、自然的な人体の機能に対する働きかけによって解決されるべきものなのである。

 そして、それに注目すべき理由とは即ち、ジェンダーもまた身体に自然化された特徴として認識されるからである。解剖学的な意味をひとつの基準とすれば、女性とは子どもを産む存在と見なされる(解剖学的に見た性器の形状を基準にセックス=性が定義されていると説いたジュディス・バトラーの議論にも留意する必要はあるだろう)。それと違わぬ地平において、女性とは肉体的にも精神的にも薄弱な存在であり、理性的というよりも感情的な存在とされるのだ(精神的に薄弱でありながら感情的な存在という矛盾!)。ともかく、その”感情的”の具体例として、女性は共感に優れていると考えられるし、よって男性を支えるべきなのだと言いつけられる。反対に、肉体的にも精神的にも強固な男性は、それ故に自身の力を適切に制御することが求められるし、あるいは時に力を適切に振るうことを通して、己の名誉を示すことが必要とされる。儀礼化された暴力の行使、つまり決闘である。

 こうしてジェンダー規範は近代の中で合理的な自然科学としての装いを獲得することとなる。自然化されたジェンダージェンダー化された感情。そして、名誉という感情を演じる場としての決闘。そこに"暗黒"の中世は存在せず、近代理性の光が性のありかを照らし出す。

 ”最後の”という形容に惑わされてはいないだろうか。たしかに、この映画に描かれる出来事は最後の決闘裁判だったのかもしれない。しかし、決闘という行為そのものは近代まで広く行われてきたものであることを、いま一度思い出してほしい。帝政ロシアの詩人プーシキンアメリカ合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、近代において決闘を行った著名な人物である。すると、”最後の決闘裁判”とはやはり、中世騎士道物語の最後の輝きではなく、近代へと連なるマイルストーンのひとつと見るべきではないかと思えてくる。少なくとも、この映画で描かれる決闘は、近代におけるそれとの感情的類似が強く見られる。であるからこそ、後期近代を生きる我々にとってもアクチュアルな物語として解釈する余地が生じる。

 

Ⅱ.そこに真実は存在しない

  この映画はあくまで決闘についての映画である。タイトルが指し示す通りに、と言うとナイーブすぎるだろうか。しかし、決闘シーンから始まり時系列を遡る本作は、やはりそれぞれの登場人物がどのような路を経て決闘の場に臨んだかに注意することで見えてくるものが多い。

  また、決闘の行われることが決まっている以上、「真実」を追求することに意味はない。確かなことは、真実の追求を望んだ女が一人、真実を追求することよりも闘うことを選んだ男が二人いて、結果的に真実は明かされなかった─カルージュの勝利によってマルグリットの望む真実が証明されたと考える観客はよもやいないだろう─ということだけだからだ。

 よって三章立ての構成をとる本作で提示される三者三様のナラティブは、それぞれが等しい審級において、つまり「平等にみんなの意見を聞いてみよう」と並置されたものではあってはならない。ナラティブである以上つきまとう物語性の問題や、被害者の声に耳を傾けるべきという倫理的な問題は、ここではいったん置かせてもらおう。とりもなおさず重要なのは、真実を望まなかった二人のナラティブと真実を望んだ一人のナラティブの対比である。

 カルージュとル・グリの視点から描かれた一章と二章では、相反するナラティブが並べられる。お互いが如何なる認識で決闘を選ぶに至ったのか。なぜ法廷のもとの真実ではなく、決闘のもとの名誉を選んだのか。ここで示されるのは、彼らが決闘という場にそれぞれの名誉を持ち込む過程だ。対してマルグリットの視点から描かれる三章で示されるのは、彼女が名誉も尊厳も奪われて決闘の場に巻き込まれていく過程である。決闘において男らしく戦うことは、カルージュ/ル・グリの名誉を回復させるだろう。そして決闘に勝利することは、自身のナラティブを押し通し、その正統性を周囲に示すことでもある。だが、マルグリットは夫カルージュに「勝って私の名誉を守って!」などと言いはしない。女の名誉とは、ジェンダー規範に沿って女らしく、貞淑な妻であることで保たれるものであり、故に、レイプされ声を上げた時点でマルグリット自身の名誉は失われているからだ。このようにジェンダー化された名誉という感情の在り様を中心に考えれば、三人のナラティブ、というよりも二人と一人のナラティブが、根本的な性質を異にしていることが理解できる。

 この二人の男と一人の女のナラティブの対比という構図を描く上で、三章立ての『羅生門』的な構成は有用なものになるはずだ。僕自身の意見を言えば、本作はそのように読み解く余地を、一定の程度ではあるが、創出できていると考えている。しかしこの映画は、そうした解釈を妨げる重大な過ちもまた犯している。それは、ル・グリ視点の二章とマルグリット視点の三章で繰り返される、前者が後者をレイプするシーンの存在だ。

 これまで述べてきたように、ナラティブの対立はカルージュとル・グリの間で生起するはずのものである。マルグリットが語るのは、そこで覆い隠され、こぼれ落ちたピースを拾い上げるナラティブだ。であれば、ル・グリとマルグリットの視点を対立させ、性行為に関してその合意の有無を問うことは、端的に構造にそぐわない。それだけではない。そもそも、決闘がそうであるように、男は女を対等な相手として認めていないのだから、認識の食い違いを描くべきではないのだ。男たちは最初から女と認識が食い違うことに関心を払ってなどいないだろう。「平等にみんなの意見を聞いてみよう」的にル・グリとマルグリットのナラティブを並置することは、実際にはそのような姿勢はありえなかったという意味でも欺瞞であり、避けるべき方法だった。

 性暴力をスペクタクルとして興行に利用することの倫理的な問題など、様々な観点から本作が直接的にレイプシーンを映したことに対する批判が上がっている。そうした意見の妥当性は自分も認めるところだ。一方で、決闘を中心としてストーリーおよび三章立ての構造を解釈する上でも、同シーンは決定的に不要だったと思う。

 繰り返しになるが、性行為に合意があったのかどうか、その真実など─マルグリット以外の人間の─誰も明らかにすることを望んでいないし、決闘によってそれは明らかになどならない。この映画は真実をめぐる物語ではなく、真実を求めた/なかった者たちをめぐる物語である─もしくは、そうあることを徹底すべきだった。