ボーイズクラブは走り続けるか

最近、花沢健吾の『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を読んだ。

 

がむしゃらな田西の姿がウィル・スミスのビンタにダブってしまうのはタイミングのせいかもしれない。求められてもいないのに、女のためにと拳を振るう男たち。

 

特に、同作の前半におけるヒロイン・植村ちはるが悪女としてクソミソに描かれていくのは非常にツラく、今だったら無理だろうな~という以前に、当時としてもそのまま受け取るのは厳しかったんじゃないかとさえ思ってしまう。

 

作者はどう考えていたんだろうか。何度も何度も、植村ちはるの口から、彼女が、田西と青山の決闘を望んでいないことが述べられる。にも関わらず彼らが拳を振るうのは、男としてのプライドを守るために他ならない。

駅でのくだりは読んでいて本当に辛い。死に物狂いで闘ったにも関わらず、最後まで己の、言わば"勇姿"を認めてもらえなかったがために、怒りを露わにする田西。しかし、そこで田西が浴びせる罵倒が示唆するのは、青山や内木がそれを利用してつけ込んだように、植村ちはるが必要としていたのはケアであったということ。

 

男性性の規範が支配する感情のアリーナで蚊帳の外に置かれる女の絶望。

封建的な武家社会で駆動する暴力のシステムを主題に、それを描き切った怪作というのは『シグルイ』である。あるいは、中世から近世の端境期において行われた最後の決闘裁判が、如何にして男の/騎士の名誉を守り、女の名誉を足蹴にしていたのかをビビッドに描いたリドリー・スコット監督作『最後の決闘裁判』を挙げてもよいだろう。

いずれにしても、『シグルイ』の岩本三重や『最後の決闘裁判』のレディ・マルグリットに同情の念を抱いた読者・観客ならば、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の植村ちはるが負った傷を想像することなどさほど難しくないはずだ。

 

いや、確かに『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は植村ちはるの傷も描いていて、それはまさに後半で再登場を果たす彼女のリストカット癖とセックス依存症?に象徴されており、(植村ちはるというキャラクターの扱いに対する)作者のジレンマがアウトプットされた結果なのかなと思わなくもない。

 

一方で、そうした”堕ちていく女”というステレオティピカルなイメージは、やはり女性蔑視的である。

個人的に思い出されるのは中島哲也監督作品『来る』の原作小説、『ぼぎわんが、来る』を読んだ時の驚きだ。映画『来る』の前半では、都会的で育児にも積極的な良き夫を演じる田原秀樹がその醜態を晒して命を落としたのち、母親としての義務を放棄して性的にも堕落していく田原香奈の姿が描かれる。

『来る』が好きすぎるあまり、初見時にはそこの描写にそれほど違和感を抱かなかった(言ってみれば、この映画は全編に漫画的なけれんみ、戯画化が施されている)のであるが、同中島哲也監督作『嫌われ松子の一生』を見ると、彼のストーリーテリングに共通するミソジニックな手つきが気になりはじめる。で、実際に澤村伊智による原作『ぼぎわんが、来る』を読んでみれば、そこには田原香奈が性的に堕落していく様など描かれていなかったのであるから、思わずあっと声を上げてしまった。

 

事程左様に、男性性の規範が駆動するパワーゲームから疎外される女の姿であって、彼女に主体性が生まれるときは堕落の責任主体としてである。ウィル・スミスに関する報道を見れば、それが現在進行形であることが理解できるだろう。

とはいえ、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を読んで青山をぶん殴ってやりたいと思うのは人情でもある。男だろうが女だろうが、誰だって、偉そうなクズ野郎は殴りたい、はず。問題は規範に駆動されるそれなのだ。時にヒーローよりもヴィランのほうが我々の目に魅力的に映るのは、権力の軛から解き放たれた純粋な暴力の夢を認めるからなのかもしれない。