Fuck Swag-i ___寸借詐欺には気を付けよう。

タイトルの通り。それ以上でも以下でもない話。

 

よく、「自分は詐欺に引っかからないと高を括っている人ほど詐欺に引っかかりやすい」という話を聞く。その意味で言えば、僕は特段「自分は絶対に引っかからないね」と自信を持っていたわけではないように思う。と言っても、心の底では、多少そう思っていたのかもしれない。まあ、もう既に起こってしまったことだし、今となっては引っかかる以前の自分はこの世に存在しない。この世に存在しないもののことなど、思い出せない。ひとつ言えるのは、自分がそれほど詐欺に対して無知だったわけではなく、しかし、それほどに平常から疑り深さを発揮できる鋭さを備えていたわけでもないということ。

そうすると、なぜ今日の僕は寸借詐欺に引っかかってしまったのか、曖昧で混乱した思考の線を辿り、事件に至るまでを俯瞰して思い起こすことは、なにか推理ゲームをしているようで面白くもある。また、僕の自分の頭の中を整理することは、ナラティブセラピー的な意味で精神衛生にもいいことだし、なにより警察に駆け込んだ時、(といっても寸借詐欺では警察は取り合ってくれないようだけど、)当日に記した日記としてこのブログが何かの意味を成すこともあるかもしれない。あるいは、何かのきっかけでこれを読んだ人が詐欺に気を付けてくれたり、もしくは、同様の手口の詐欺に遭った人に対する何かの慰めになるかもしれない。そういった目的で、今日1日と、これまでの人生の中でリンクする出来事をまとめていきたい。

 

まず、そもそもであるが、精神状態が不安定な時ほど、冷静な思考ができないということを改めて痛感させられた。「詐欺に引っかかりやすいか否か」の話とも関係するエピソードだけど、自分は3、4年ほど前に一度、詐欺に「引っかかりかけた」ことがある。その当時は再々々履修がかかった語学の授業や演習系の授業をいくつも取っていた上に、ゼミで進級のための論文を書いていたこともあり、非常に忙しく、他のことを考える余裕がこれっぽっちもなかった。そんな時、スマホAmazonから「支払いが滞っている」旨を伝えるショートメッセージが届いた。なぜメールアドレスを登録しているAmazonからショートメッセージが?今考えれば、一目瞭然である。しかし、恥ずかしながら学生ローンを借りたり、リボの返済額をアレコレいじっては時々クレカの支払いを滞らせていた当時の、それも上述のように課題に追われていた自分にとって、判断を鈍らせるには充分だったようだ。

「とりあえず電話をかけてみよう」僕の下した選択は、思考の放棄だった。呼び出し音が鳴る。電話に出たアンちゃんは、こう言った。「お客様、カリビアンコムというサイトを閲覧されていますよね?その料金が…」もちろん、全て聞くまでもなく、カリビ…と聞こえた時点で察した。あとはもう、如何に適当なかたちで電話を切るかということしか考えていなかった。「払う」と言えば、嘘でも言質というか、法的な何かが発生するかもと思い、「払わない」と言えば、面倒な反応が予想される。「あ~、ちょっと考えときます」と返して、会話を終わらせた。

すごい下らないことだけど、やっぱり参っていると思考は狂わされるのだ。しかし、そのまま「カリビアンコム」にノセられるほど、愚かなわけでもない。といったくらいの、僕の”詐欺感度”を示すエピソードである。

 

そこで、今日の話に戻る。僕は2週間ほど前から片方の耳が聞こえづらく、病院に通っている。その病院は先週はじめて伺った場所で、申し訳ないけど、診断が少しどうなのかなという部分がある。前回診断された病気と若干症状が違うように感じるところがあり、今回はそこら辺を聞いてみたかった。のだけど、流れ作業的に診察を済まされたり、なんの説明もされずに急に鼻に鉄の棒を突っ込まれたり、あまりに雑に扱われていることに面食らってしまった。挙句の果てには、僕の質問しようとしていたことを遮り、「はいはい、もういいですから、じゃあお大事に」といった具合で追い出されるようなかたちになってしまった。

自分でも不思議なんだけど、これが殊の外こたえた。言ってしまえば、正直そんなに大したことでもないのに、なぜか心がひどくどんよりとして、歩くのも億劫になってしまった。何か溜まっていたストレスとも関係しているのかもしれない。ともかく、そうして近場のマックに駆け込み、コーヒーを飲みながら本を読んで、気を紛らわしながら1時間半ほどを過ごした。

そうすると少し落ち着いてきたのか、わざわざ外出したんだし、マックからすぐ近くのところにある映画館にでも行こうかと思い立った。とはいえ気分は優れないまま。とりあえず、一服して考え直そうと映画館の手前にある喫煙所に足を運ぶ。前置きが長くなってしまったけれど、この喫煙所で寸借詐欺に見舞われることとなった。

 

煙草を吸い終わったあたりで、その人に話しかけられた。身長は小柄で160cmほど。少し太めの黒縁メガネに、銀髪のポニーテール。グレーのジャージのようなラフな格好で、バックパックを背負っていた。曰く、フリーランスの(たしか)建築設計士で、コロナ禍で仕事が減っているのもあり、この機会にと広島から東日本各所を転々と旅行しているのだという。それが、急いでいるときにバックパックの横ポケットにスマホと財布を入れたのを忘れていたら、いつの間にかスられてしまい、仕方がないのでとりあえず新宿まで歩いて向かいたいらしい。再び煙草に火をつけるうちに、「新宿まで歩いて行きたいからスマホで道を見せてくれ」→「…よかったら広島まで帰る深夜バスの料金を貸してほしい」と話は発展していく。もちろん、僕だってはじめは怪しいと思った。しかし、物腰の柔らかさや、彼の仕事や最近の時事の話をするに及び、「それなりに知的な職業に就いているが、フリーランスの制約の少なさを活かして旅行を趣味とするポニーテールのオジサン」というのが、とても板について見えるようになってしまった。

それに、僕がこれまで見てきて寸借詐欺というのが、如何にも悲愴な、同情を誘う表情をして、申し訳なさそうに交通費をねだる人たちばかりだったのも災いした。対して、このオジサンは話のディテールが細かく、「警察に行ったけど1000円までしか貸せないと言われた」との泣き言や、「明日絶対に連絡する」といった約束、地元広島の財政やごみの分別の話、自分からマイナンバーカードのコピーを見せて「写真を撮ってもらってもかまいません」とも言ってきた。今思えば、それも色々とおかしいところがあるのかもしれないが、この時の僕は(仮に寸借詐欺だとして、ここまで具体的な話を毎度繰り返して自分の痕跡を残していたら、流石に足がついて捕まってしまうのではないか?=つまり、寸借詐欺ではない?)と、暢気に考えていた。例えば、なぜ財布はスられたのに、マイナンバーカードのコピーだけ都合よく持っているのか。ただの紙切れだ。映画『パラサイト』よろしく、何通りのそれを作ることだって造作もないだろうに。先日の金曜ロードショーでやっていた『パラサイト』を、吹替だからいいやと言わずに再見していたら、シナプスが繋がり、そこで気がつけたかもしれない。

また、決め手となったのはガンダムの話だ。山下公園ガンダムファクトリーに行きたかったというので、「ガンダムが好きなんですか」と返したら、それ以上聞いてもいないのに、いついつまでのガンダムはよかった、最近のナントカってシリーズはダメで、といったことを早口で語り出したのだ。「最初のシリーズは放送当時人気がなくて」という話は自分がなんとなく知っているガンダム知識と一致するし、「あの時自分は小学校の高学年だったからドンピシャだった」という思い出話もマイナンバーカードの年齢と一致するので、迫真性があった。

ところで、僕は顕〇会の勧誘を受けたことがある。高校2年生のとき、塾帰りに本屋で漫画を眺めていたら、「漫画好きなんですか?」と話しかけられた。「大学の漫画友達がみんな最近は漫画読まなくなっちゃって、新しく趣味の友達がほしい」なる話はあまり要領を得ないし、探りを入れてやろうと好きな漫画を聞いても「え~…」だの「ジャンプとか…」だの「最近の漫画は読んでないから、ちょっと趣味が合わないのかも」だのはぐらかしてばかり。明らかにおかしいなと思い、嘘の電話番号を教え、その場は逃れた。顕〇会がアニメイトメロンブックスで、この手のオタクをターゲットにした勧誘をしていると知ったのは、大学生になってからだ。

閑話休題。顕〇会の話は、一応の僕の、最低限の冷静な思考を示すエピソードでもあると同時に、どうして寸借詐欺には騙されたかという一因に繋がる部分だ。つまり、胡散臭い人間の話は総じて胡散臭い、といったイメージが、僕の中に形成されてしまっていた。その点で、あのオジサンがペラペラと一人でガンダムの話に熱を上げる姿は、「本当」のように見えた。「本当」を持っている人間なら、「本当」なんだと思った。というより、信じたかった。これから、いや、今まさに詐欺を働いている人間が、これほど平然と、楽しそうに、自分の好きなアニメの話をすることなんてできようか?、と。まあ、僕はガンダムのオタクではないから、彼のガンダムトークが表面的だと気が付けなかっただけかもしれないが。

 

また、僕が単に、彼の印象に引きずられただけが原因ではないとも、付け加えておきたい。先に書いたように、今日は病院に行ってからめちゃくちゃダウナーな気分になっており、なんというか、心の鎧みたいなものが、きれいに剥がれ落ちていた。件の喫煙所でTwitterのタイムラインを遡っていたら、「コロナ禍で生活に困窮する若者が駅で物乞いをするも誰も目をかけてくれず…」といったタイトルのYahooニュースが目に入った。オジサンに声を掛けられたのは、その直後だった。自分の弱さと他人の弱さが、不思議とシンクロする感覚があった。自分の思考と目の前の情報をリンクさせてそこに何かの意味を見出すのは、陰謀論にも通ずるパラノイアの兆候だ。しかし、その時は、巡りあわせなんていうほどのことでもないけど、こういうことってあるな、と思ってしまった。普段、金欠の僕の財布には2000円も入っていればいいほうだけど、今日はたまたま病院帰りで、6000円が入っていた。横浜から新宿まで電車で安い路線を乗り継げば500円もしないし、新宿から広島までの深夜バスは今の時期なら安いので5500円くらいだろう。オジサンが「6000円貸してくれないか」と言ったのは、もっともだった。なにより、僕の財布には、ぴったし6000円が入っていたのだから。

 

 

〇グーグルで検索したところ、このオジサンは2016年ごろから、ほとんど同様の手口で、都内や横浜近辺を中心に寸借詐欺を繰り返しているようです。警察、何やってんの??????????????

おかしなガムボール~ママさん回まとめ_シーズン1~

「おかしなガムボール」のニコル・ワタソンこと、ママさんのキャラクターが多少なりとも掘り下げられる、ママさん好き的に見どころのある回を備忘録としてまとめておきます。

 

#2「家族改造プログラム」

序盤はあまりママさんに焦点があたる話はない。この回はママさんのワーカホリックっぽいところが少しだけ取り上げられる。

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落ち着かないママさん

ソファに座ってゆっくりしようとするも、落ち着かずに指をぴろぴろ。

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ワーカホリック

家じゅうを3回も掃除したり、わざと花瓶を割って仕事を増やすなど、若干の異常性が垣間見える。

 

#6「空手マスタードの夢」

空手マスターになりたい息子を過剰に心配する回。

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進研ゼミの漫画みたいなセリフ

「あんた他の習い事も続かなかったじゃないの」と進研ゼミの漫画みたいなセリフを言うママさん。ガムボールのハチマキが『ベスト・キッド』仕様。

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妄想癖

まだ常識人キャラっぽいけど、自分の世界に入り込んでしまうあたりのちょっとした「この人大丈夫か?」感が漂う

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幼少期(初出)

幼少期のママさん。かつてタオルをマントに見立てて騎士ごっこをしていたリチャード(夫、パパさん)がクラスメイトたちにバカにされていた経験から、息子の空手マスターごっこを心配していたことが判明。



#10「ダーウィンは天才?」

ちょっとしたきっかけで天才児と間違われたダーウィン(元ペットだけど一応ガムボールの兄弟?)が政府機関に連れ去られてしまった回。

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サイコ顔

ダーウィンに体の色が似ている学校の用務員ロッキーを攫ってきて息子替わりに。

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続く顔芸

ここら辺からママさんの子供たちへの愛情が狂気との間で反復横跳びし出す。


#12「のけものクラブの復讐」

休日に学校で開講されている趣味クラブに参加するワタソン一家。

ガムボールだけ、どこのクラブにも入れず。さらにのけものクラブからは入会を断られた上に、ガムボールに恥をかかすイタズラを画策される。家族をバカにした人は絶対に許せないママさん主導で、ワタソン家vsのけものクラブの戦いがはじまる。

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暴力衝動(初出)

アンガーマネジメントのクラブに通っているのに怒りの暴力衝動が抑えきれないママさん。多分この回からママさんが壊れ始める。

 

#13「ミス・シーミアンのトモダチ作戦

子供たちの通うエルモア小学校の副校長のミス・シーミアンは、生徒からの推薦が必要な「人気賞」のトロフィー欲しさにガムボールたちにすり寄るが…。

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険しい顔

孤独なヒロインを演じて同情を誘うミス・シーミアン。しかしママさんだけ厳しい視線を向ける。

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ツラい過去①

ママさん、実は幼少時からミス・シーミアンにいじめられていた悲しい過去。

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ツラい過去②

いきなり出てきては笑われる。

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ツラい過去③

プロムでも。

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ツラい過去④

結婚式にもヤジを飛ばされる。

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カーチェイス

そんな経験から「ルーザー」と嗤われるのに我慢ならないママさん。ついにミス・シーミアンの企みが露見し、推薦状を巡ってカーチェイスに。

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一件落着

一件落着。笑顔のママさん。




#14「ママの誕生日とスプーン強盗」

ママの誕生日。プレゼントを買い忘れたリチャードは、息子たちに代わりに買いに行かせることにするが…。

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常識人

(こんなに可愛いママさんの誕生日プレゼントを買い忘れるのもどうかしてるんだけど、)夜遅い時間に子供たちだけでプレゼントを買いに行かせる(それも自分ではなくガムボールたちが買い忘れたんだと嘘をついて)リチャードに激怒するママさん。

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スイッチが入ると止められない

スーパーでスプーン強盗と鉢合わせてしまったガムボールたち。追いついたワタソン家全員も参加して強盗と対決。善戦するも追い詰められた息子たちを嘲笑うスプーン強盗を背後からの一突きで倒すママさん。やっぱり「ルーザー」と言われると怒りが爆発してしまう模様。ところで、このスーパーマーケットで色んな商品を利用しながら戦うシーンってアメリカ映画によくあるけど(最近見た映画だと『グレムリン』『ジングル・オール・ザ・ウェイ』『ホット・ファズ』(はイギリス映画だけど)にあった)、日本のフィクション作品では全然見ないよね。

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逮捕

状況的にアウト。

 

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留置場で誕生日

誤ってぶち込まれてしまった留置場で誕生日パーティ。

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最後は拳で

スプーン強盗が捕まりママさんの疑いが晴れる。最後は暴力でけじめをつけさせるあたり、キャラクターが定着してしまった感じがある。


#15「ミスター・ロビンソンの車のナゾ」

ガムボールが洗おうとスポンジで触れただけで大破してしまったロビンソンさんの車。その原因とは…。

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寝不足

毎日遅くまで仕事の上、おそらく家事も担っているママさん。リチャードは規格外のバカということで、ここまではなあなあで済まされているんだけど、流石にニコルが可哀そう。ということで寝不足の中、アナイスに連れられてお出かけすることに。

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ドジっ子

ロビンソンさんの車が大破した原因の一端はママさんがバックするときにぶつけてしまったことだった。一応おバカな夫や息子と比べて常識人的な立ち位置ではあるんだけど、ガムボールのドジっ子・不運あたりの要素はママさん譲りでもある。


#16「余計なことしないで、ママ」

「誰もかまってくれない!」というガムボールの不満を受け、学校に着いてきちゃったママさん。ほとんど狂気。

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おててを繋いで

ここまでコテコテの”ママ”感を出してきたのは初かも。新鮮な回。

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背中を流すママさん

ちょっと、いいの?

これ?

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完全に赤ちゃん扱い

「あ~んして?」とママさん。

 

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結局甘えるガムボール

最初は反発するも後半は甘えっぱなしのガムボール。




#17「ヘルメット争奪戦!」「ティナVSガムボール」

幸運をもたらす銀紙の兜を巡って家族がいがみ合う話。

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抑えきれない暴力衝動

リチャードに騙されていたことに気が付き、会社の面接で大暴れ。『ファイトクラブ』か?

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我を失うママさん

常識人キャラではあるものの、ママさんも”こっち側”であることが示されるシーン。

 

Bパート。恐竜の同級生ティナにガムボールがいじめられているということで、乗り込むシーン。

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この構図何回目?

何かあるとすぐに車を走らせて敵のもとに駆け付けるママさん。

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暴力で解決しようとするな

そして暴力に頼るな。




#18「覚悟を決めて!?」

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暴力を使いこなすママさん

ダラダラする息子を暴力で脅すママさん。

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鼻が利くママさん

息子がレンタルDVDの延滞をしていることに気が付く。

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運動神経抜群

ママにバレてビビる息子との追いかけっこ。

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ハグ🤗

仲直り。

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蛙の子は蛙

破壊したDVDの弁償代25ドルに加え、延滞料金700ドルも請求されて逃走するママさん。やっぱり蛙の子は蛙。

 

以上シーズン1。

2020年に見た映画とか②~『ナイブズ・アウト』『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

〇『ナイブズ・アウト』

 去年に『トイ・ストーリー4』の感想で書いたことと大体おなじ。まあ『グラン・トリノ』ってことなんだけど、アメリカの魂がWASP的なアメリカの手を離れて新しいアメリカ人に受け継がれていく話が好き。それは必ずしも新しい移民がアメリカナイズ(=WASPの作り上げたアメリカ社会の既存の規範に同化していくこと)されることと同義でなく、人種や性別、文化の壁を越えてふたりの魂の通じ合う世界が立ち上がる瞬間の感動であって、その世界を埋めるものが各自の思い描くアメリカ的理想なんだと思う。

本作の中でも、個人的に好きなシーンは、マルタと囲碁をしていたハーランが、負けそうになって碁盤をひっくり返すところ。素直に見ればヤケを起こすヤンチャな老人なのかというシーン。なんだけど、ハーランが”ちゃぶ台をひっくり返す”人間であると示しているのは意外と重要かもしれない。それは彼が看護師のマルタに遺産を相続させたこととも地続きだから。では、それとは何かというと、フロンティアスピリットや猟官制のメタファーではないだろうか。自らの故郷を捨て、まっさらな荒野の大地に踏み出した先人たちへの賛歌であり、大統領の入れ替わりに伴って多くの公職者がごっそりと入れ替わる社会システムのラディカルさであり、要するに、全く新しい状況に飛び込んでいけるアメリカの”自由”さそのものである。

Twitterで政治ウォッチャーみたいなオタクが本作を「最近の(なんかマイノリティがいい思いして白人が悪し様に描かれる)ポリコレ映画」とクサし、当然映画館に映画なんて見に行かないオタクたちがそれをリツイートしているのを見てひどく気分を害されたことがあったが、そんな感想は表面も表面しか見えていない人間の戯言だ。むしろ『ナイブズ・アウト』は、今日的な政治的?状況にあってこそ、アメリカの揺るがないオリジンに立ち返り、それを継承することで、統合していく過程なのだ。

 

〇『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語

若草物語』の何度目かの映画化。監督グレタ・ガーウィグで主演シアーシャ・ローナンの『レディ・バード』座組。

この映画を見て分かるのは、とにかくグレタ・ガーウィグが信用できる人間だということ。自分が原作を読んでモヤっとしたところをちゃんと解消してくれるので、「解釈、一致!」と叫びたくなる。言わずもがな、その頂点はラスト。例えば少年漫画でもそうだけど、とりあえず出てきた主要な男女のキャラクターを、まるでパズルゲームでもしているかのように、なんとなく適当な組み合わせで結婚させていく最終回というのは萎えるものである(シャーマンキング、ナルト、ブリーチ、最近だと鬼滅の刃とか)。本作は、ジョーの結婚という結末の虚と実を曖昧なものにして幕を閉じることで、その種の結婚規範、と強い言葉を使うまでもなく、じゃじゃ馬で自由に振る舞うジョーが社会に取り込まれていくことの納得できなさをひっくり返してくれる。

しかも、それを一切乱暴に感じさせることなく、上手に着地させる点に、グレタ・ガーウィグの手腕が光る。原題は『Little Women』(つまり「若草物語」)であり、邦題の『ストーリー・オブ・マイライフ』というのが、やや冗長で説明的に感じるのだが、しかし、本作の性質をそれなりに表していることも事実である。時間軸をシャッフルして、ジョーが家族やローリーたちと過ごした半生を振り返りながら「若草物語」を書くに至るまでを描くこの映画は、まさしくナラティブに依って立つ物語だからだ。そして、ナラティブであればこそ、「ジョーは結婚したのか否か」をジョーの語りの中において曖昧に濁すことが自然な作劇足り得ている。こうしてみると、去年のアカデミー賞で(本作は日本で公開前だったからなんとも言えなかったけど)これが脚色賞も脚本賞も逃したのが不思議でならない。

また、シアーシャ・ローナンはじめ、キャスティングが善いのも本作の魅力のひとつ。ボブ・オデンカークが出てくると嬉しいとか、ティモシー・シャラメがニクいとか色々あるんだけど、個人的に注目すべきはフローレンス・ピューの妹力(いもうとぢから)。フローレンス・ピュー演じるマーチ姉妹の四女エイミーは、一応小学生くらいの年齢設定。のはずなのだが、1996年生まれのフローレンス・ピューは、どうみても小学生に(中学生にも)見えない。学校の教室のシーンでは、周りは相応の小学生くらいの子役が座らされている中で、一緒になって座っているけれども明らかに浮いているフローレンス・ピューの可笑しさは、正直今年見た映画で一番面白かったかもしれない。しかし、姉妹の間でじゃれ合っているときの、小生意気で子憎たらしい、けど天真爛漫で可愛げのある末っ子ぶりは、中々目を見張るものがあって、普段は姉派で鳴らしている自分としても認めざるを得ない妹力(いもうとぢから)だった。昨年のアカデミー賞において、『ストーリー・オブ・マイライフ』から演技の賞でノミネートしたのがフローレンス・ピューだったというのも納得である。

2020年に見た映画とか①~『透明人間』『ミッドサマー』『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』

 

 〇『透明人間』

前回のブログでは、どちらかというとポリティカルな?側面について触れたので、それだけでは、「そういう社会的なメッセージとか嫌いなんだよね~」と言いたがる種の人間に、本作を勘違いされてしまう可能性もある。この映画は、純映画的な仕掛けに富んだ面白さにこそ、見どころがあるからだ。

透明人間という題材はこれまで、透明になる人間の視点から描かれることが主だったと思う。しかし、VFXの発達によって透明描写の技術的制約から解き放たれた今日にあって、本作が選んだのは、透明人間に覗かれる側の視点から描くことだった。そうすることによって、『透明人間』はサスペンスフルなホラー映画足り得ることができている。

見られる側からすれば、透明人間がどこにいるのかなど分からない。常に見られているのではないかという恐怖がつきまとうことになる。そうした時、何もない空間にただカメラを向けるだけで、そこに透明人間が潜んでいるのではないかと、恐怖を煽り、サスペンスを生じさせることができるのだ。

これは、恐らく映画にしか表現のできない演出である。テレビでは”何もない”を映す時間を流す贅沢は許されていない。アニメであれば、根本的に何もない空間というのを、映しようがない。何もない空間というのが、例えばなんてことない普通の部屋だったりするのだが、紙になんてことない普通の部屋を描いてしまえば、そこに映されるのは「何もない空間」ではなく「「何もない空間」として描かれた空間」になってしまう。なんてことない部屋にカメラを向けるだけ、そこから生まれる宙づりの時間に、観客は不安を抱くのであって、アニメにおいて映されるなんてことない部屋は、意図をもって描かれている以上、宙づりではありえないからだ。(もちろん、だからアニメより映画のほうが優れているという話ではない。あくまでメディアとしての、両者の特性の違いの話である。)

透明人間×ホラーというジャンル的面白さに加え、上述のサスペンスフルな映画的演出、そしてポリティカルなテーマを下敷きにすることによって生じるカタルシス、これらが三位一体となることで、この映画のビシッとキマった感じが醸し出されている。

余談ではあるが、この「何もない空間」を映すことによって恐怖を演出するやり方は、ただ部屋にカメラを向ければいいだけなので、とても経済的ですらある。如何にも低予算ホラーをメガヒットさせ続けてきたブラムハウスらしい。また、今日的な、ポリティカルなテーマを恐怖に結び付ける作劇も、やはりあの『ゲット・アウト』を製作したブラムハウスらしさを感じさせる。

さらに余談である。前のブログで『透明人間』の描く恐怖の源を、見る/見られるという関係に潜む権力の不均衡と書いた。この1年就活で四苦八苦していた自分にとって、この映画のそうしたテーマはアクチュアルに刺さった。就活における面接は、まさに、一方的に権力を有する面接官と、その品定めの視線に晒される無力な就活生という構造の上に成り立っている。面接は入室時から、いや、受付時から?誰にどう見られているのか。どういうジャッジが下されるのか。常にそうした恐怖がつきまとう。

 

 

〇『ミッドサマー』

アリ・アスター監督の前作『へレディタリー』が大好きな自分にとって、今年のインターネットを駆け巡った『ミッドサマー』ブーム(過激かつ過剰な煽り文句や、単純なワードを何度も繰り返してヤバいヤバいと喚くバズ狙い丸出しのツイートがどれほどタイムラインに流れて来て、その度に辟易させられたことだろう?『へレディタリー』も見ていないくせに?)には逆張りしたくなってしまうのだが、ひとつ、確実に評価できる点はある。それは、多くの人が言及するように、ドラッグ描写だ。

『ミッドサマー』のドラッグ描写はリアルだという声をよく耳にするし、恐らくその通りなのだと思う。では、そのリアルさの要因はどこにあるだろう。これまで自分が見てきたドラッグムービー(『ラスベガスをやっつけろ』や『トレインスポッティング』や『ブレイキング・バッド』、あるいは『ドクター・ストレンジ』)は、ドラッギーな”イメージ”を描いているものが多かったように感じる。その点で言えば、本作の描いているものはドラッギーな”センス”そのものではないだろうか。

つまり、視覚的な部分にとどまらず、音の聞こえ方だとか、ちょっとした時間感覚のズレとか、そういった状態にある中で感じる不安や焦り、不快感総体みたいなものとしてのセンス(バッドトリップというか、バッドに入っていく前段階の感じ)を、うまく捉えているのだ。そうしたドラッグ描写のメルクマールとして、本作を見ても損はないはず。

 

〇『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』

ウディ・アレンが養女に性的虐待をしていたという告発がMeToo運動の中で再燃し、アメリカでは公開中止になった本作。ただ、劇場で見られなかったことが大きな損失かというと…。

ウディ・アレンの他の作品と同様に、いわば感傷マゾっ気の大量放出。こんな文化系男子の俺がこんな女の子といい感じにアレして~~~という、それ以上のものはない。しかし、この映画を見る価値がないわけではない。それは、ティモシー・シャラメエル・ファニングのキュートな2人が主演を務めているからだ。特にシャラメ。

シャラメ演じる主人公の造形が本当にキモくて、文化系男子の妄想する「俺の考えた最強の文化系男子」像の極北というか、ここまで突き詰めると呆れ果てるほかないのだが、彼が演じていることもあり、一周回ってアニメキャラみたいなポップさが意外と悪くない。というかある程度は意図的なのかも。マンハッタンで裕福な家庭のもとに育ち、文学映画美術音楽に通じる教養モンスターで、しかし家族の束縛を嫌ってドロップアウト街道爆走中。ハーバードを中退するわギャンブルにのめり込むわ、酒を飲んで煙草を吸って無頼ぶることに余念がない。それでもって美少年。

そんな主人公が雨の降るニューヨークを彷徨いながら、キュートな彼女に裏切られたり、セクシーな彼女に慰められたり、クールな彼女と意気投合したりする話。なぜコイツは雨の降る、曇り空のニューヨークが好きなのか。感傷マゾも大概にしろ。

しかし、家族との関係の話では唐突に『エデンの東』のパロディ?オマージュ?が挿入されるので、(『エデンの東』ではないけど、その影響を受けた)とある映画の好きな自分も他人事ではないというか、いたたまれないというか、他山の石だなと思った。

あと、やたらシャラメのiPhoneの着信音が流れまくるので、本当に心臓に悪い。

 

 

 

ロシャオヘイセンキは赤いのか?(『羅小黒戦記〜ぼくが選ぶ未来〜』雑観)

しかし、これが現代の中国で作られることに、幾らかの悩ましさを感じざるを得ない。

それは、ストーリーに対する感触だ。

もっとも、この映画の見どころは、なんと言っても作画のほうにある。本来日本アニメが得意としたような空間表現、その空間を利用したアクションとそれを見せるカメラワークにずば抜けて優れており、これを見るためだけに鑑賞料金を払っても十分に元が取れる作品だと断言できる。

だが、そのストーリー。王道な展開と、オマージュというか映画的記憶というか、平たくいえば、どこかで一度は見たことがあるようなイメージを素直に使うことによって、かなり大胆に説明を省略し、100分の上映時間の中にアレコレとやりたいことを詰め込みつつ、分かりやすいお話に仕立て上げている、といったところなのだが。もちろん、本作がwebアニメシリーズの拡張であるために、さほど背景の説明を求められていなかったり、独立した作品としての脚本の完成度を前提としていなかったり、という部分もあるとは推測できる。とはいえ、自分が疑問を感じるのは、ストーリーの完成度の部分ではなく、何を、どうやって描いているか、という点だ。

 

 

 

<ここからネタバレ>

 

 

 

本作のおおまかな構図は、人間に住処を奪われている妖精たちの宥和派と強硬派の間の対立が主軸だ。

(以下あらすじ)

人間に故郷を奪われ都市で孤独に暮らす主人公シャオヘイはフーシ―と出会ったことをきっかけに、妖精の仲間たちとの共同生活をスタートさせる。しかし、それもつかの間、妖精と人間の間の調整を行う組織「館」の執行官ムゲンが現れ、シャオヘイはさらわれ、仲間と離れ離れにされてしまう。はじめはムゲンを敵視していたシャオヘイだが、「館」までの道のりをともに旅することで外の世界を知り、心を通わせることで、やがて二人の関係に変化が訪れる。物語の後半、シャオヘイを取り戻すために現れたフーシーが実は、人間を排除した妖精の居場所を作るためにシャオヘイの特別な力を利用しようとしていたことが分かり、避けられない戦いがはじまる。

(以上あらすじ)

結論を言ってしまえば、人間を強制的に排除しようとするフーシーを倒すことで、人間と妖精が共存できる社会を作っていくためにまたイチからガンバロー、というオチ。穏当な結論と言えばそれまでだし、さもありなんという域を出ないのだが、この描き方というのが最初に書いたように、現代中国でやるにはかなりポリティカルにサスペンスフルなのである。どういうことか。

本作における妖精たちの多くは、人間から離れた場所で静かに暮らしていたようだ。そこに、人間たちがどんどんと入植してきては森林伐採、工場を建て、都市化を進めていき、住処を奪われた。例えば、とある妖精のセリフに「数百年の間、誰も来ない洞窟で静かに過ごしていたが、人間が現れたせいで洞窟は観光地にされてしまい、もう帰れない」といったようなものがあった。妖精たちは、人間の前でありのままの姿を見せることが禁じられており、擬態することがルールだ。具体的なところはよく分からなかったが、「館」というのも人間世界から隔離された空間にぽつんと浮かんでおり、ここで妖精は生活の支援を受け暮らしている。一方で、妖精たちはスマホを使いこなすなど、人間文化にも親しんでおり、故に宥和的なムードが妖精界では主流?っぽい感じ。

ここまでで勘のいい人は気が付くかもしれないが、この人間と妖精の関係というのが、どうも漢民族少数民族、とくにチベット人ウイグル人との関係と重なって見えてしまうのである。チベット仏教寺院やモスクが取り壊され、あるいは改装されて観光地化の進んでいることは、日本の新聞でも報道されている通りだ。漢化政策が進行する中で、そこに住んでいる人の多くは自らの文化を慎み、共産党社会主義核心価値観に適応することが求められる。表向きとしては、投資もしてやったし、近代化も進んで便利になって、”職業訓練”もしてやってるし、どんどん生活も豊かになってるよね、といった具合である。そして人間文化のいいところを代表するのがスマホという描写も、中国特有のデジタルテクノロジーを駆使した統治功利主義を彷彿させるアイテムになっており、なんとも言い難い味わいがある。

もちろん、本作では人間による妖精の住処の破壊を批判的には描いているし、滅んでゆくフーシーへの同情的なまなざしがないわけではない。それだけではないにしろ、このアニメが中国共産党少数民族政策を正当化する意図で作られていると言うつもりは僕にはない。しかし、劇中で人間と妖精の共存というシステムの絶対性が疑われることもなく、共存というよりも人間の文明に妖精の生活が包囲されていると言った方が相応しい実情に対するエクスキューズもまた、ない。

いや、分かる。それほど真面目なトーンの作品じゃないから仕方がないじゃないかという気もするし、あるいはwebアニメのほうで色々細かい捕捉はあるんじゃないかという感じもあるし、元々海外展開なんて考えていなかったという監督のインタビューもあるし、なにより僕が過剰にセンシティブに斜めからストーリーを見すぎているんじゃないかとか、とにかく、言いたいことは分かる。

しかし、あくまで、これを一つの独立したアニメ映画として向き合った場合に、現代中国社会でこういったストーリーが紡がれることの時代性が頭をよぎる時、どうしても素直に面白がることのできない自分がいる。

 

『エノーラ・ホームズの事件簿』、あるいは無関心のヴェールについて

「〇〇は社会の役に立たない」という言説はクソの役にも立たない。

文系、というか、主に人文科学を専攻している人間が自虐として、「〇〇学は社会の役に立たないからな~」なんて言う姿を見ることがままある。しかし、ここでいう「社会」とは、「役に立つ」とは、一体よくわからない。公共圏において、個々人がその成員としての自覚の下に振る舞い、普遍的な利益を導き出すことに貢献できるということか。もちろんそうではない。

では、この場合の「社会」とは?それは「国家」と言い換え可能なものだ。国家であり、国益であり、国力である。そして、「役立つ」とは、そうしたものに”資する”企業における資本の増殖に、あるいは国家を円滑に統治する機構の温存に、役立つということに過ぎない。学問の成果が社会に還元されるべきだという点について、それは僕も信じるところである。しかし、そういった種の「生産性」に、学問、というよりも、自由な人間の営みが従属しなければならないという主張には、バカげてると言う他ない。

 

ところで、主張が180度変わっている風に聞こえてしまうかもしれないのだが、人文社会科学を学ぶ”硬派”な学生の中には、現代社会の問題についてアクチュアルに向き合う学問に対し、見下すような態度をとる人も多い傾向があるように見えて、それもまたモヤっとする。所謂「社会学」(実際のそれではなくインターネット上に広まるイメージとしての「社会学」)に対する昨今の風向きの原因の一端もそこにあるのではないかと、個人的には感じたりもする。

 

まあ、それはそれとして、今回書き留めておきたいのは、Netflix配信の映画『エノーラ・ホームズの事件簿』について。主演のエノーラ・ホームズは『ストレンジャー・シングス』のミリー・ボビー・ブラウンで、その脇を兄シャーロック・ホームズヘンリー・カヴィル、母ユードリア・ホームズにヘレナ・ボナム=カーターと、結構豪華なキャスト。ヴィクトリア朝時代のイギリスを舞台に、シャーロック・ホームズの妹エノーラが、失踪した母を見つけ出すために、あれやこれやと奔走するストーリー。ヴィクトリア朝好きやシャーロッキアンには言うまでもなくおすすめできる本作なのだが、時に第四の壁を破壊しながら観客に語り掛けてきさえするエノーラの自由闊達ぶりがパワフルかつチャーミングで、娯楽作としても、誰にでもおすすめできる一定の楽しさを備えている。

一方で、「シャーロック・ホームズの妹」という設定が、それ自体として作品の根幹をなしている点も、この映画が単なるバリエーションに留まらない一因だろう。

つまり、シャーロックと同じ探偵としての才能を持ちながらも、女性であるが故に家庭に縛り付けられるという障害が、エノーラの冒険のドラマ性を高めると同時に、謎多き母に対する理解を深めていくきっかけともなる。本作は、決して傑作というわけではないのだが(※個人の感想です)、しかし、随所にそういった”上手さ”を感じる映画でもあり、見て損はない、はず。

個人的なその白眉は、本作独自のシャーロック・ホームズ評にあると思う。映画の中盤、シャーロックとある人物が、こんな会話を交わす。

「あなたは政治に無関心ね」

「退屈だからな」

「それは世界を変える気がないからよ、現状で満足してるから」

「……なるほど」

 

(僕は一応シャーロック・ホームズシリーズの原作をすべて読んでいるがだいぶ前のことであり記憶も定かではないので、と保険をかけつつ)このやりとりがどれほど元のシャーロックの人物像に切り込んだものかというと確証はないのだが、とはいえ、ある一定の、現実にも存在する、キャラクターに対する鋭い批評性を持っていることも確かなように感じる。(市民運動を天空目線で見下しつつ、(退屈でシリアスなそれを)ネタにして喜んでいる人たち、「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らせ」と草薙素子(攻殻機動隊 S.A.C.)のセリフを引用して得意げになるような人たちは言わずもがな)自分はあらゆる人間の営みを俯瞰して平等に見ているだとか、逆に、自分はあらゆる人間に興味がない(ので平等に取り扱っている)とか、そういった、俗っぽいことにこだわらない、超然とした人物かのようにふるまう(あるいは周囲がそういった風に見なす)キャラクターに対する疑いの目線だ。

シャーロックとエノーラは、同じような資質を有している。エノーラはシャーロックのように生きたいだけだった。しかし、エノーラは政治に巻き込まれ、シャーロックは政治に無関心でいられた。そこを分かつものはなにか。言わずとも分かるだろう。

かくして、どのような人間にも、政治に無関心でいられなくなる瞬間というのがやってくる可能性は大いにある。もし、人間を(俯瞰しているが故に)平等に見ているとか、平等に興味がないとか言うなら、それは嘘か、その人の目は節穴だ。その「平等」は、無関心でいられる人の、無関心の上に成り立つ、薄っぺらなポジショントークに過ぎない。某インターネット掲示板の元管理人ひ〇〇き氏は、よくアベプラに出演したときに、「男性はその問題について何も訴えてない。女性だけが訴えている。じゃあそれって(普遍的な問題ではなく)女性の側が(個人の問題を拡大解釈して)一般化してるだけなんじゃないですか?」という論法を使う。自分は人間を平等に俯瞰しているつもりなのだろうが、まさにその「平等」(のつもり)でいられる自己が如何なる存在かというところに思慮が及んでおらず、そして「平等」という口当たりのいい言葉が現実に存在する差異(この場合はジェンダー)を覆い隠すヴェールになっている点で、悪辣ですらある。

 

話を戻そう。「〇〇学は社会の役に立たない」と言ったとき、そこで想定されるのはむしろ「国家」における資本の増殖や統治機構の温存である。そういったシステムの系譜を辿り、既成の価値観を疑う営みは歓迎されないようだ。そして、”硬派”な人文社会学徒や趣味者にありがちな、現代社会の問題に対するアクチュアルな態度を忌避する姿勢。これもまた、現状のシステム、価値観の中で足る人間の無関心が支えるふるまいである。

『エノーラ・ホームズ』はヒロインのオリジンストーリーだ。オリジンストーリーとは、自分はこうありたい、という覚悟を行動に移すまでを描く物語だ。こうありたい自分を決意するためには、自分が如何なる存在なのか、その系譜を否がでも突きつけられることになる。無関心から脱皮することで、世界に羽を広げることができるのだ。

 

追記

「「平等」にバカにする」ことも同様の問題を孕んでいる。尖った笑いに対して「全方位(性別や人種、民族や宗教、また政治的立場におけるそれ)に喧嘩を売っている」と称し、故に特別な地位が与えられるかのような評価をする向きもある。しかし、ある作品内で「全方位」をバカにしていることが、マジョリティの人間がマイノリティに対するステレオタイプを助長する表現で笑うことへの免罪符になってはならない。

仮に劇中で「全方位」をバカにしている、つまりそこで揶揄される様々な立場がフラットに描かれているといっても、現実には厳然たる差異が横たわっており、また、そこで供される笑いは往々にしてマジョリティからマイノリティへのまなざしの下で構築された文法に依るところが大きいわけで(エスニックジョークなど)、やはり平等などではないのである。

もちろん、そういったコメディのあり方を否定するものではない(批判的に見ることはあるが)。繰り返しになるが、「全方位をバカにしている」からといって、現実的に差異が存在する以上はフラットなそれは成立しえず、故にマジョリティがマイノリティを面白おかしく描写することの免罪符にしてはならない、ということである。

雑多な感想

日本沈没2020

普段からそこまで考えているわけではないけれど、あるいは、なりに?、優等生的に今風のリベラルなメッセージなんかを込めてうまくまとめたんだなって印象。それ以上の何かが伝わってくることはない。国家なり民族なりを、真剣に思考したと思えないことは、このアニメに天皇が不在である謎からも理解できると思う。

主人公家族をフィリピン人とのミックス(ハーフ、ダブル、混血…)にして今風である感じを出しているが、出自からいえばむしろ彼らは越境的な存在で、日本という単一のネイションに縛られない人々である。むしろ、日本が沈没するときに問題となってくるのは、地=血によって列島に縛り付けられた人間たちの実存のほうだ。であるからこそ、天皇もまたこの物語に不可欠であるはずじゃないか。もちろん、現代日本社会の多様性を描く上で、前者の人々をメインに描くこと自体は否定しないが、しかし、後者の人々の視点から「日本」が語られることがほとんどないのは、作品の根幹にかかわる欠落だと思う。

それに気になるのは、最後に映る衛星写真では韓国も一緒に沈没していること。序盤では、フィリピンとかにも津波の被害が、なんて言っていた。わりと本気で分からないのだが、「日本が沈没する」という絶対にありえない嘘を既にひとつついているわけで、中途半端に他のどこぞにもこれくらいの被害がと、妙なリアリティに寄せていく意味があるのだろうか。(原作を読んでいないので、元からある設定ならすみません)

それほど、地球規模の災害になってしまうなら、もはや、日本というネイションの問題ではなく、グローバルに立ち向かうべき環境問題の話に片足を踏み込んではいまいか?そのほうが、図らずも、時宜に適ったテーマでもあるわけだし。

 

〇BNA

ふざけんなトリガー。なにが中島脚本じゃボケナス。湯浅が今風なテーマを形だけでも今風に仕立て上げてるのに対し、こっちは今風なテーマを勘違いした醜悪な何か。前作の劇場版アニメ『プロメア』からほとんど成長が見られない。何故かマイノリティと差別の問題を描くことに執着しているようだが、およそ真剣に考えているとは言いようのないストーリー。

言うまでもなく、差別とは一般に、他者をとある、所与の性質を持った存在としてまなざすことによって生じるものだ。アルベール・メンミは著書『人種差別』の中で、人種差別を以下のように定義している。

人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである。

ある集団が、他者集団に対して、差異を捏造、あるいは強調し、そしてその差異に価値づけをすることによって、自身の利益を引き出すこと。同時に、利益を引き出すことは、その他者集団への支配、搾取へと繋がることにもなる。そこにおいて、マイノリティがマジョリティをまなざすことの暴力性が顕現する。しかし、BNAでもプロメアでも、そういった差別を引き起こす心性にまで踏み込むことはない。かろうじて熱血キャラの主人公が、友情を通して偏見を反省する描写があるくらいで、差別の根源的な問題には一切立ち入らない。

では、そうした両者の、差別を描いた物語は、なにをもって解決を見るのか。それは、「実は諸悪の根源は悪のマイノリティだった!」であり、「悪のマイノリティを善のマイノリティが倒して一件落着!」なのである。は?舐めてんのか?

一万歩譲って、悪のマイノリティが既得権益的にマジョリティの社会の内側に座しているとしても、差別の問題は他者に偏見の目を向ける(マジョリティの)精神構造に根差すものであって、ひとりのヴィランを排除したところで解決されるものではないし、そもそも根本的には別の問題だろう。もちろん、差別の問題を描くときに、その原因をマイノリティに求める作劇を平然と作れてしまう神経のおぞましさは言うまでもないけど。ガイナックスのアニメにもよく見られた「実は敵(仲間)だと思ってたアレが!」的などんでん返しに対する強迫神経症なのか分からないけど、そんなどんでん返しならどんでん返さないほうがいいよ。

 

WAVES

しばしばTwitterでも「男の会話には中身があるけど女の会話には中身がない」とか「男は論理的だけど女は感情的」とかいった趣旨のツイートが流れてきてうんざりすることがある。けれどもそれは、部分的に、現実社会における何がしかの構造を照射してもいる話ではあるように思う。それはケア労働がもっぱら女性の領域とされてきたことと無関係ではない。

WAVES』の前半には、そうして感情のケアから疎外されてきた男性たちの末路が、あまりにも痛々しく描かれている。彼女の妊娠に動揺したタイラーが、両親と相談して生むことに決めたという彼女に対して「なんで親に言ったんだ」と怒鳴るシーンは、その対比としてよく機能しているのではないか。「勝手にそんなことを決めるなんて!」と怒るタイラーに感情移入してしまいそうな場面だが(そもそも妊娠して困るなら避妊を徹底しろ)、妊娠という重大な事態を親に相談できないほどに彼を束縛する価値観のほうにこそ、根本的な問題が横たわっている。弱さをさらけ出せないマスキュリニティの拘束が、テイラーを視野狭窄にせしめ、悲劇へと追いやるのだ。

後半は一転して、タイラーの妹エミリーの目線でその後の生活が語られる。ボーイフレンドとなるルークは気取った感じのない、素直な少年であり、彼との交流を通じて、高まりに高まった物語の緊張と、ウィリアムズ一家を苦しめてきたマスキュリニティが解きほぐされていくわけだ。(このルークが、死を間近にした父の介護をするシーン、そして亡くなった父を前にして涙を流すショットは、直接的な意味でのケア労働と広い意味での感情のケアを切り取っており、エミリーに、そして我々観客に、可能性をほのめかす点で感動的である)その意味で、最終的に、悲劇の原因でもある父ロナルドが涙ながらに感情を吐露するシーンで本作が幕を閉じるのは必然だろう。

性的に、あるいは社会的に?不能感を抱える男性に対して向けられる「”男らしさ”から降りましょう!」といった類のメッセージは、それが根本的な解決へと至らないアドバイスであるのに加え、問題の解決を社会構造にではなく個人の領域に押しとどめるという意味に限って言えば、疑問を抱かずにはいられないものである、と個人的には思う。のだが、それにしても、”男らしさ”によって自縄自縛に陥る男性(もちろんマスキュリニティによって被害を受ける女性も含む)の生きづらさを、幾分か解消する可能性も秘めている。その点において、本作の描くストーリーにも多分に価値がある。

 

〇透明人間

古典的な題材である透明人間を、見るー見られるという構造に潜む権力関係から再解釈した映画。BNAの話でも触れたように、差別とは、一般にマジョリティがマイノリティに対して、偏見の目を向けることによって生ずるものである。「偏見の目」というのはひとつの比喩であるわけだが、この見るという行為の権力性は、実際、支配ー被支配の関係の中で、明瞭にその実態を認めることができる。例えば、帝国主義の時代、欧米に存在した「人間動物園」や、日本でも、1903年の第五回内国勧業博覧会で設置された「人類館」などは、観察という行為がどのような権力関係の上で成り立っているものなのか、顕著に我々に知らしめる出来事だ。

それを踏まえたうえで『透明人間』を見ると、透明であることというのが、ひとつのメタファーであることがよく分かるだろう。というのも、この映画は、監視カメラによって始まり、監視カメラによって終わるからだ。やはり、本作の通奏低音となっているのは、見るー見られるという権力関係の告発である。

なによりも本作における権力関係とはジェンダーだ。男性が女性をまなざすこと。それは、単に監視することであり、「女はこうであるべきだ」とジェンダー規範を押し付けることであり、そして支配することに繋がっている。

物語は、セシリアが監視カメラを切り抜けて、夫エイドリアンの眠る家を脱出するシーンから始まる。多くは語られないセシリアの結婚生活であるが、監視カメラを張り巡らせて家の中に閉じ込めていたこと、後に明かされる、無理やり子供を産ませようとしていたことなどを勘案すれば、セシリアが(ジェンダーロールを期待されて)家庭に縛り付けられていたことは想像に難くない。そこから抜け出したセシリアは、透明人間と化した(らしい)エイドリアンによって脅かされることになる。ここで疑問が湧く。なぜ家出をしたくらいで、そんなに回りくどい嫌がらせをされなければならないのか。途中でセシリアが「なんで私なの?」と叫ぶシーンがある。金持ちで、若くて、ナイスガイなエイドリアンなら、新しくパートナーを見つけることなんて造作もないはずだ。なぜエイドリアンはセシリアに執着したのか。その答えは、家父長制─ラディカルフェミニズムにおける「男性による女性の体系的・総体的支配」、としか言いようのないものだろう。思い通りに支配すること、その欲動。つまり、本作において透明人間とは、一方的に他者を観察することの暴力性であったり、家父長制的な支配欲求であったりと、多義的な性質をまとった存在なのだ。

しかし、本作の偉いところは、そういったテーマを、悲観的に描くにとどまらない点にある。むしろ、その、見られていることを利用して、最後には……を………することで、納得のラストシーンを生み出しており、(もちろん単にホラーとしても面白いんだけど)、カタルシスの伴った快作として、かなり優れた一作のように思う。