『NOPE』雑観~空飛ぶ円盤と映画史の円環~

 ジョーダン・ピール監督の最新作『NOPE』が映画史を多分に参照していることは、この物語の早い段階で明示される。

 

 主人公のOJは、ハリウッドの映画撮影に使われる馬を育て、調教する牧場を父から受け継ぐ。このヘイウッド・ハリウッド牧場は、世界で最初の映画(と作中で評される)エドワード・マイブリッジの『動く馬』の騎手を務めた男の手で開かれたという。つまり、OJやその妹エメラルドらは、世界で最初の映画スター(これはエメラルド当人の評である)の子孫だというのだ。

 

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 しかし、そのハリウッド的には由緒正しい家系の彼等も、周囲から見れば一介の調教師に過ぎず、あまつさえCGによって動物を使ったシーンの撮影を簡単に済ませられる現代においてはなおさらである。

 

 そうしてヘイウッド一家の置かれた立場というのは、ハリウッド、あるいはアメリカ社会における黒人の状況と重ね合わせて描かれている。エメラルドが語るように、世界で最初の映画スターである黒人の名前を誰も覚えてはいないのだ。

 ジョーダン・ピールの名前を世に知らしめた『ゲット・アウト』は、まさにそうした都合のよい搾取に晒される黒人身体の表象についての映画だった。白人(に限らないが)が黒人身体に見出す意味─優れた身体能力、性的な強靭さ等々─によって、文字通り身体を乗っ取られていく黒人たち。

 それは初代ヘイウッドがハリウッドの映画史から無視されたこととコインの裏表である。とにもかくにも、白人は他者をまなざす主体としての特権を振るってきたというわけだ。

 

 序盤の撮影スタジオのシーンで、OJが女優から「あなたの名前OJっていうの?本当に?」とニヤけながらたずねられるくだりがあった。このセリフはギャグでもありつつ、OJが黒人の一人として、まなざされる客体としての生き辛さに苦しめられてきたことを表している。ここでいう”OJ”とは、かのO・J・シンプソンを指し示しており、黒人男性のスキャンダラスな暴力性─というステレオタイプ─のメタファーだからだ。

(余談であるが、監督の前作『Us』でもO・J・シンプソンのネタは使われていた)

 しかし、OJがこの物語の主人公足り得る所以もそこにある。まなざしに敏感に生きてきたからこそ、やはり視線に敏感な動物の気持ちに寄り添うことができるのだ。しかして、彼は馬を駆る現代のカウボーイとなり、空飛ぶ円盤に知恵をもって立ち向かうヒーローとなる。

 また、OJの勇姿がカウボーイと重ね合わされているのは、言うまでもなく、西部劇の中で─史実に反して─無視されてきた黒人の存在を語り直すためであろうし、事程左様に映画史の参照の上に立つ映画なのだ。

 

 話を戻せば、この物語の主題の一つは、まなざされる客体へと押し込められてきた黒人たちによるリベンジ、と言って差し支えないだろう。そこに、空からこちらを監視しているUFOという、ジャンル的想像力の飛躍を持ち込んだ点こそが白眉である。つまり、雲の中から人間を監視するUFOと、UFOの姿を収めた衝撃映像(オプラ・ウィンフリー級の)をテレビに売り込んで名をあげたい兄妹という、なんとも卑近かつユニークなかたちで見る/見られる権力関係の逆転する様を活劇に仕立てている。

 故に、UFOをフィルムにおさめるために立ち向かうキャラクターたちの物語は、必ずしも映画というメディアへの愛や礼賛のみを描いているわけではない。UFOをフィルムにおさめることが勝利の条件となるのは、他者をまなざすことの暴力性、そこに生じる権力関係を執拗に描いてきたからこそ成り立つのだ。

 

 そして何より皮肉なことに、劇中、最終的にUFOの姿を捉えたのは、動画の撮影によってではなく写真の撮影によってであったことも、もしかしたら重要かもしれない。

  本作の序盤で名前を挙げられるマイブリッジであるが、彼は映画監督ではなく写真家であって、『動く馬』は映画ではなく、厳密には”連続写真”なのだ。もちろん、このフィルムが映画史上で重要な役割を果たしたことも事実だが、映像の記録ではなく、あくまでも写真として撮られたものだった。

 どういうことか。写真家マイブリッジは、元カリフォルニア州知事で鉄道と海運の大手企業社長であったリーランド・スタンフォードと知り合い、彼と彼の友人の間で行われた賭けに手を貸すこととなる。その賭けとは「馬が走っているとき、4本の脚が同時に地面から離れている瞬間はあるのかどうか」というものだ。その証明のために撮られたのが『動く馬』というわけだ。本ブログ冒頭にリンクを貼ったYoutubeの動画を見てもらえば分かるように、結果として、馬は疾走する際に、”空中を浮遊していた”。

 空中に浮遊する馬の写真の撮影から始まる映画史。それを参照する『NOPE』は、空中に浮遊する円盤の写真を撮影することによって幕を閉じる。ここに奇妙な円環構造が立ち顕れる。

 その円を繋ぐのは映画ではなく、"何か"を見ることに取り憑かれた人間の情熱である。