動物を可愛く撮るべきか、撮らざるべきか、それが問題な『GUNDA』(の感想)

  スクリーンに─光学的な意味で─投影される映像というのは現に存在しているわけであるが、そこに映し出される意味はと言えば、投影された観客の欲望にも他ならない。

 

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 『GUNDA』はドキュメンタリー映画だ。BGMやナレーションを排し、画面はモノクロ。そうした抑制的なタッチで、ある畜産場で生きる豚の親子たちを観察する作品だ。ゆえに、あらすじもない。

 しかし、この映画が動物たちの”ありのまま”を映しているなどとは、ゆめゆめ思うことなかれ。カメラを向けること、BGMを排すること、ナレーションを排すること、ひとつひとつのカットを切ること。モノクロの映像にしたことも、全てが人為的な選択によるものだ。仮にこの映画が”ありのまま”に見えるのならば、ありのままだと思わせたい演出の結果である。

 もちろん、それはこの映画の持つ豊かさの証明でもある。本作に施された演出からは、多様な意図を読み取る機会が観客に向かって開かれている。そして、作り手の意図を排した”ありのまま”を感じ取ることもまた、そうである。

 個人的な所感を述べるならば、『GUNDA』は今年最も感動的に動物の人格を描いた映画であろう。足の悪い子豚を甲斐甲斐しく世話するように見える母豚。まるでピクニックのように映される豚親子の散歩。大きくなって自立したかのように見える子豚たちと、少し疲れた様子でそれを遠くから見守るように腰を下ろす母豚。トラックに子供たちを連れ去られ、取り残された母豚の、大きく張った乳房に執拗にカメラをズームする意図は、果たして。なぜ、一本足の鶏を被写体に選ぶのだろうか。立ち尽くす鶏の、直立した脚ばかりを数分にわたって映し続けるスクリーン。ようやく鶏が走り出した瞬間の、その肉体的な躍動は、おそらく観客の精神的な躍動を誘い出すだろう。

 豚の可愛さと、鶏の力強さ。豊かな動物の世界を見ることを可能にするのは、作り手と観客の共同作業であって、ありのままの動物の世界は、その断片を覗かせるのみである。

 この映画は二重の搾取の上に成り立っていると言わねばならない。家畜のLife─生命─を切り取り加工し、食卓へと供する食品産業のそれであり、家畜のLife─人生─を切り撮り、加工し劇場へと供する映画産業のそれである。観客に唯一可能なのは、せめて欺瞞に陥らず、動物との関係のあり方を思考することだ。