ロンリーウルフと呼ぶにはあまりにも……な松坂桃李(『孤狼の血 LEVEL2』感想)

果たして、この映画における”孤狼”とは誰のことだっただろう。

少なくとも、前作『孤狼の血』におけるそれは、ダジャレめいた名前が指し示す通りに、大上その人であったことは間違いない。すると"血"というからには、日岡がその役回りを受け継いだかのように思えた。しかし、本作を見てみるに、日岡は警察組織にあっての形式的な役回りを引き継いだのであって、サーガにおける孤狼としてのロールを大上から受け継いだわけではなかった。では、『LEVEL2』において孤狼の名に相応しいのが誰かといえば、鈴木亮平演じる凶暴なヤクザ、上林であることは明らかだ。

胡乱な風体の新聞記者、高坂が劇中で日岡へ突きつけたように、大上が自らの仕事を蛇の道の範疇と心得ていたのに反して、日岡は己の築き上げた秩序に思い上がり、開き直ってさえいた。システムの中心で踏ん反り返るロンリーウルフなんているわけないだろ。この辺りはさしずめ「おめェもボスになったんだろぉ?このガレキの山でよぉ」といった具合だ。

対する上林はというと、その生い立ちから(劇中の)現在に至るまで、常に孤独を背負って生きてきた男だ。なによりも7年間刑務所に入っていたという設定が非常に活きている。刑期を終えシャバに戻ってきた上林を待っていたのは、尾谷組との手打ちを経てすっかり牙を抜かれてしまっていた五十子会の面々だった。口を開けばビジネスビジネスと筋も仁義もへったくれもないその姿に上林は絶望し、怒りを燃やしていく。

平成2年(1990年)を舞台にした本作であるが、この上林の姿はまさに時代感を反映している。バブル景気に浮かれる日本の象徴としての五十子会、そして日岡。不動産を転がして金を稼ぎ、外車を乗り回すアホ面の男たち。好景気に浮かれ熱狂する社会から取り残されてしまった上林からすれば、浦島太郎にでもなったようなものだろう。刑務所にいる間に日本社会もヤクザも、その装いをガラッと変えてしまったのだから。しかし、だからこそ上林は忘れていない。仁義も、筋を通すことも、今まで飲まされてきた苦汁の味も。あるいは旧時代の遺物なのかもしれないが、それこそが、上林が孤独な狼の、絶滅したはずのニホンオオカミの血をその身に宿している証左である。

本作が『仁義なき戦い』シリーズに多大なるオマージュを捧げた映画であることは言わずもがなである。同シリーズも同様に、変わりゆく社会の中で居場所を失っていく男たちの物語だ。仁義が失われ、経済的合理性や組織の論理が渦巻くヤクザの有様は、戦後の広島にあって、あの戦争などなかったかのように手のひらを返し、とぼけた顔をして経済成長に浮かれる日本社会そのものだった。広能や大友に代表される、『仁義なき戦い』シリーズに登場する時代に翻弄される若者たち。上林はその系譜にあるキャラクターだ。

そう考えると、主人公日岡の担っている役割が見えてくる。大上と上林、二匹の狼の死を看取った日岡とは、あくまでも観測者に過ぎない。滅びゆく種族をその記憶に留める、例えば『マッドマックス2』におけるフェラル・キッドのような、生き証人である。この物語のラストで日岡ニホンオオカミを幻視したことは示唆的だ。畢竟、『孤狼の血 LEVEL2』のストーリーとは、絶滅したはずのケモノが現れたことで右往左往する村人たち、山狩りをする消防団、その中にあってただ一人ニホンオオカミを認めることができた駐在さんという、あのエピローグに全て集約されていると言えよう。

そうして狼の姿を見ることのできる唯一の人間たる日岡が本シリーズの主人公であるのも必然なのだが、とはいえそれが物語の面白さに繋がっているかというと難しい部分もある。観測者の立場に甘んじなければいけない日岡は、孤狼に出会うことを経てもさして成長(し主体として行動)することができないからだ。故に『LEVEL2』では、大上の意志を受け継いだというにはあまりにも無様な、仁義なき体制の謀略と荒ぶる狼の間で悶える日岡を延々と見せられることになる。

確立した秩序の中で目的を見失い、目先の目標にさえなんら有効な手を打てない主人公の存在は、あるいは上林との対比として引き立てることに機能していると言ってもいいのだけれど、しかしどうにも映画そのものの在り様とダブっても見えてしまう。精緻なプロットも美しいフォトジェニーも鋭いクリティカルさも欠いて、行き当たりばったりの展開に身を任せるしかないスクリーン。ただ、行き当たりばったりの曲がり角で、失われた何かを─在りし日の東映ヤクザ映画を─観客に幻視させようと這いずり回るキャラクターたちに、もしかするとニホンオオカミの影を見ることができるかもしれない。我々はせめて日岡でいられるだろうか。そこに関しては自分の目で見て、あるいは見ることのできないことを通して、各々が確かめるしかない。