庵野秀明展感想(『ラブ&ポップ』の切断、『シンエヴァ』の接続)

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庵野秀明展に行った。印象に残ったところだけ。

 

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 ひとつめは『ラブ&ポップ』。『シン・ゴジラ』以外の実写監督作の扱いは大きくないため、『ラブ&ポップ』も基本的に上の写真2枚に収まる程度だと思っていただければ。

 

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 ちなみに、アニメでも一部携わりましたみたいな作品の扱いは小さい(これは仕方ないか)んだけど、『彼氏彼女の事情』もこれっぽっち。オリジナル作品じゃないとはいえ、演出に見るべきところはあるし、何よりメンタルヘルス的なテーマは他の作品と共通するところもあるだけに、掘り下げがないのは少し残念だった。

 

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 話を戻すと、『ラブ&ポップ』の展示で興味深かったのは脚本の企画書の表紙に描かれた初号機……ではなく、「女子高生のリアルを自分の中に持つ」の文言。

 『ラブ&ポップ』は4人の女子高生の群像劇的な側面を持つ映画ではあるけれど、基本的には裕美を主人公に、女子高生としての等身大な葛藤を描いた作品。彼女の独白をベースに、家庭用ビデオカメラを用いた自由闊達なカメラワーク、凝ったアングルのショットを繰り広げて物語を展開する構成になっている。

 で。自分がこの映画を見たとき気になったのは、まさに感情移入を誘うような独白が物語の推進力の主たる部分を占めていながら、カメラワークが一切の感情移入を拒絶しているところだった。家庭用ビデオカメラの身軽さを活かして、とは言うものの、そのほとんどは女子高生のリアルな生活を覗き見るような手つきで、実際に超ローアングルからスカートの中を─文字通り─覗き見る構図も多用されており、本作の内包する窃視症的な傾向は色濃い。ストーリーとしては援助交際をめぐる女子高生の心の揺れ動きを描き出そうとしているわけだけど、カメラ-観客の目の接続は、女子高生をまなざして楽しむという点で、むしろ我々を、作中における援助交際を持ち掛けるおじさん側の立場へと導いている。

 この矛盾は上映時間を通して我々に居心地の悪さを感じさせる。対象に様々なアングルからまなざしを向けて視覚的快楽を充足するとき、あるいはそうして欲望を喚起させられた観客としての己を自覚したとき、「自分の中」に掴みかけた「女子高生のリアル」は、たちまち霧散してしまう。絶えざる共感と、絶えざる切断。その、無限の循環。

 この捉えどころのなさは、果たして意図的なのかどうなのか。恐らくはコメンタリーとか各種インタビュー等の資料をdigれば簡単に答えに辿りつけるのかもしれない。ただ、少し前に『ラブ&ポップ』を見たばかりの自分は、偶然に庵野秀明展でその一端を見つけることとなった。つまり、「女子高生のリアルを自分の中に持つ」という監督の試みは、うまく機能しているとは言い難いという結論である。

 

 

 つぎに面白かったのは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の主要な舞台となる第3村のミニチュア。

 

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 やっぱり転車台が広場のように配置されている。と、思う。映画館で最初に見たときから感じていたことではあったが、あらためてミニチュアという形で提示されたことで再確認できた。

 日本の都市にそうした伝統はないけれど、欧州において都市の中心には広場が配されている。それは古代ギリシアアゴラであり、古代ローマのフォルムであって、現代の諸都市においてもそうである。

 

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古代ローマトラヤヌス帝のフォルム
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↑現代イギリスはトラファルガー広場

 

 こうした公共スペースとしての広場は、市場が開かれるだけでなく、市民の交流を活発化させ、政治的な活力を生み出す場としても機能してきた。古代ギリシアのポリスにおける民主政がアゴラで花開いたのは、その一例である。

 ちなみに、都市地理学の授業なんかを受ければ、日本の地方都市の中心市街地が崩壊している一因に、こうした広場文化の欠如が挙げられるのを耳にすることがあるかもしれない。実際、富山市がまちづくり事業-中心市街地復活策の一手としてグランドプラザを建設したのには、そうした背景があってのことである。

 

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富山市はグランドプラザ。商店街や商業施設に隣接しており、買い物客をはじめ普段は市民の憩いの場として、時にイベントスペースとして活用されることを意図している。郊外立地の大規模商業施設に対するひとつのアンサー。

 

 閑話休題。ここで僕が指摘したかったのは、『シンエヴァ』の第3村における転車台が広場のように配されている─実際に劇中ではこの転車台を囲うようにして診療所と食料の配給所が立地しており、多くの村民が行き交う場となっている─ことの意味だ。転車台とは電車を運用するための装置であるわけだが、庵野監督が常々電車を、あるいは線路を、運命論的なメタファーとして用いてきたことを思い出そう。『新世紀エヴァンゲリオン』で、『式日』で。その他の作品にもそうした瞬間を見出し得るだろう。それに、例えば新海誠監督の『秒速5センチメートル』や『君の名は』にも見られるように、こうしたメタファーの使い方は色々なアニメ、映画に共通するものでもある。

 しかし、『シンエヴァ』の第3村では転車台が広場のごとく鎮座している。ここにあるのは、現実および劇中において街と街を、生活と生活をつなぎ、物資の調達によって人々の命をつなぐインフラとしての電車と、市民の生活が交差し、人と人とがつながり合う公共空間としての広場のアナロジーではないか。

 『シンエヴァ』のラスト、シンジくんは宇部新川駅のホームから駆け出し、現実の宇部の街へと歩を進める。これを「現実に帰れ」というメッセージとして解釈するのは安直だろう。運命をなぞる線路、動き出す車両、人間の手に負えない巨大な機構。その座席に腰掛けうじうじと悩み続けたエヴァの登場人物たち。しかし、電車から降りたって構わない。ひとたび電車を降りれば駅があり、駅の周りには街が広がっていて、人がいる。第3村における転車台のアナロジー庵野秀明なりの、運命論の隘路からの脱却なのだと認めたとき、この映画の持つ意味はまた違って感じられるはずだ。