『花束みたいな恋をした』ことはないけれど。

 『花束みたいな恋をした』ことはないけれど、”クソみたいな労働をした”ことはある存在としての我々。しかし、驚くなかれ。『花束みたいな恋をした』は、予告編やタイトルから(恐らく多くの人が)想像するイメージに反し、そうした我々にとってこそ、目を逸らしがたい確かな引力を感じずにはいられない映画である。

 そもそも、なぜ「我々」なのか。『花束みたいな恋をした』を見て、ある感触を抱かずにはいられない「我々」と、そうではない者達。では、この場合の「我々」ならざる者とは?

 恥ずかしながら、映画の感想を考えるにあたって、多くの場合、自分とは感触を異にする人の感想に対するカウンターから思考を整理していく癖が僕にはあり、あまりよくないよなとは思うのだが、今の自分には、この怒りともつかない燃え上がるような感覚の失われていないことが、まだ俺は大丈夫だという安心材料というか、カナリアのように感じられることがある。ともかくとして、今回におけるそれは、

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このアトロクのポッドキャストで、それぞれ意見は違えど前提として共有されてはいる、ある認識に対する憤りである。

 

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 そもそも、『花束みたいな恋をした』はどういったストーリーか。予告を見れば分かるように、所謂「サブカル」趣味同士の男女がその趣味の一致から距離を詰めていき、ゆくゆくはカップルとして幸福な同棲生活を送るというラブストーリーが主軸となっている。しかし、予告においても示唆されるように、本作の要はむしろ、同棲の開始からしばらくしての転調、破局に至るまでの模様にある。そして、その転調に対する直接的な要因こそ、クソみたいな労働と、それを仕向ける社会(こちらの方は、さほど、突っ込んで描かれないが)に他ならない。

 ここで「いや、違うよ」と暢気に言いやがるのが、上述のアトロククルーの連中である。彼らに言わせれば、労働が重要なのではなく、時の流れがそうさせるのであり、それによる関係性の変化は普遍的なことなのであるそうだ。この一見穏当な正論は、しかし、麦が労働によって調教されていく様をあまりにも軽視した、毒にも薬にもならない一般論に過ぎない。「好きなことを仕事にできなくても趣味を捨てなきゃいけないわけじゃない」「働きながらアーティスト活動をしている人だってたくさんいる」「今なら片手間でYouTuberだってやれる」という驚くべき感想の数々はそれを如実に表している。もちろん、好きなことを仕事にできなかったことが、麦に変化が訪れるトリガーなのではない。趣味を続けられ得ない自己に彼を調教した労働に問題の根幹がある。

 実際、劇中の麦の働き方を見ればそれは明白だ。二言三言の会話を交わすのすら億劫なほど朝早くから家を発ち、遅くに帰ってきて食べるのはカップ麺。寝るまでは持ち帰りの仕事をやり、あるいは泊まり込みで残業をすることもある。クライアントの都合があるからと、自分の好きなタイミングで休みをとれるわけもない。そのような生活の中で本の一冊を読むことが、映画の一本を見ることが、どれほど根気を必要とする作業だろう。単純な時間的余裕の不足、疲労故の精神的余裕の不足。それを象徴するのが、(映画や漫画や小説が好きであったはずの)麦が横になりながら虚無感たっぷりに遊んでみせるパズドラである(インターネットのオミットされた10年代を映す本作では影もなかったが、今どきの多くの若者にとっての「パズドラ」はSNSである場合が多いように思う)。

 具体的にイメージしてもらうために、僕の生活サイクルを例に出そう。朝6時に起床。朝食や身嗜みを整えるなどすれば家を出る時間、7時だ。1時間弱かけ通勤し、8時半に仕事が始まる。12時から1時間の昼食を挟んで、定時が17時半。定時には帰れず、平均して2時間の残業がある。19時半に職場を出ると、また1時間弱かけ帰宅し、家に着くのは21時前だ。帰ってまずは風呂に入り、その後に夕食を食べるのだが、これらが済んだ段階で大体22時15分ほど。就寝時間は24時が目標なので、余暇に充てられる時間は1時間半ほどしかない。単純に考えれば、映画の一本も見られない。そして、6時から起動している故の睡魔と、疲労感。そのような状況では多少漫画を読んだり、Youtubeを見るので精一杯だ。就寝目標は24時だが、元来の寝付きの悪さや、細々としたタスクの積み重なりで予定を外れ、寝入るのはいつも24時半ほど。睡眠時間は5時間半が平均となる。

 こういった生活を続けていれば自ずと精神は摩耗していき、(時間的余裕のなさは大前提としても)、趣味にさえ手をつけるのが億劫となっていく。ここにおいて、「働きながら〇〇をすれば」だの「好きなことを仕事にできないからって」だのいった月並みな感想がどれほど無意味なものか、理解できるだろう。しかし、(「残業がなければいいのか」や「通勤時間を短くすれば」、「休日に〇〇すればいい」、あるいは「それでも頑張って好きなことをしている人はいる」といった、ありふれた反論を予想するなら)、ここで重要なのは何よりも、精神が摩耗していくことの意味、加えてそれが労働に本質的な特徴であることを、指摘しなければならない。

 自らの身体を唯一の資本として、我々は労働に駆り立てられる。この、高度に発達した資本主義社会における、資本の円滑な増殖に奉仕させられる歯車として。歯車というのは、しかし陳腐な例えであるが、我々は単に歯車であるだけではない。自分自身をメンテナンスするとても特別な歯車だ。思い返してみれば、我々に許された自由な時間──出勤前・昼休み・退勤後とは、本当に「自由な時間」だろうか。そこにあるのは、単なるセルフメンテナンスの営みに過ぎないのではないか。食事は体力を蓄えるための、睡眠は体力を回復するための、また趣味は憂さ晴らしをするための───。ここでふと思い出すのは、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の序盤、主人公(レオナルド・ディカプリオ)の運命を変えることになるエキセントリックな上司(マシュー・マコノヒー)のとあるセリフだ。彼は新米の主人公に、株屋として長続きする秘訣を説く。曰く、「1日に2回はマスをかけ。そうしたいからではない、膨大な数字に囲まれておかしくなってしまわないよう、リラックスして、バランスを保つために」。至極プライベートな領域である性にまつわることが、労働のための贄として差し出される瞬間。しかし、我々を取り囲む広告をひとたび見てみれば、リラックスやリフレッシュといった枕詞とともにいかに多くの趣味が手招きしていることだろうか。彼は冗談を言っているのではないのだ。好きでやっているはずの趣味でさえ、労働の供物として取り込まれていく、その再帰的無能感。精神の摩耗、諦念の正体。ここにマルクスのテクストを引用しよう。

賃金労働の平均価格は、労働賃金の最低限度のものである、すなわち、労働者が労働者として生命を維持していくのに欠くことのできない生活手段の総計だけである。

マルクス・エンゲルス(1951)『共産党宣言岩波文庫、大内・向坂訳、65頁)

 ここで問題とされている「賃金」は「時間」と読み替え可能だろう。事程左様に、我々に与えられる時間は、生命を維持していくのに欠くことのできない生活上の営み─食事、睡眠、せいぜい発狂を避け得る程度の余暇、に割くそれだけである。

申し訳程度に『花束みたいな恋をした』の話をすれば、劇中における食事のシーンからも同様の読み解きができることを指摘しておこう。麦と絹がまだ同棲を始める前、麦のアパートで二人で食べる素麺(それも夜食にも関わらず律義に氷を添えた)の温かさと、残業帰りの麦が絹とは離れたテーブルで一人啜るカップ麺の味気無さの対比。その味気無さの正体とは、言わずもがな、次なる労働に備えてカロリーを摂取するための食事の味気無さである。

 では、こうした労働に身を置きながら日々変貌を遂げていく麦を目にして、アトロククルーたちが上述のような感想を抱いたのはどうしてだろう。それを考える上で、もう一度確認したいのは、ここまで僕が問題にしているのが単に労働作業の辛さだとか、単に労働時間の長さだとかではなく、労働時間外の自由な営みさえも労働に奉仕するためのセルフメンテナンスへと意味を書き換えられていくことの再帰的無能感である、ということだ。そして、なぜ彼らは、そうした発想と無縁でいられるのか。

 昨年に公開・配信されたピクサーの最新作『ソウルフル・ワールド』は、「生まれる(生きる)意味」をテーマにした壮大な作品ながら、実験的なアニメーションとニューヨークの片隅に生きる主人公のミクロな人生にフォーカスした内容故に、ごく私的な味わいのある映画だ。この作品において繰り返されるキーワードが”スパーク”。なぜ我々は生まれ、そして生きているのか。日々の生活の中の些細な一瞬──ピアノの弦の弾ける音を聴いた、風に吹かれた落ち葉が舞うのを目にした、その一瞬に心に生ずる”スパーク”(ときめき、きらめき)が私たちを生かしているのだ。それが本作の訴えるところである。

 翻って我々の生活を見てみると、まずは円滑に機能する歯車として存在することを求められる労働と、そうした労働へ備えたメンテナンスを求められる余暇がある。その円環の中で絶えず刷り込まれる再帰的無能感。それらがもたらすメランコリー。このような日々の中で、僕らは”スパーク”を失っていくわけだ。

 逆に言えば、平然と「空いた時間で〇〇でもすればいいじゃないか」と言ってのける人たちというのは、”スパーク”を失っていないことが分かる。労働によって、またその労働に飼い慣らされた余暇によって”スパーク”が失われていくのなら、話は早い。”スパーク”の失われないような、むしろ”スパーク”の拾い上げやすい仕事へと就くべきなのだ。実際のところ、彼らの職業を見てみればいい。ミュージシャン、ライター、ラジオ番組のディレクター、映画会社勤務、編集者、etc…。これまた「好きなことを仕事にして辛いことだってある」と、月並みなセリフが上記のポッドキャストで飛び出していたが、 やはり的を外した意見だ。ここにおいて重要なのは、”スパーク”を身近に感じられる仕事とそうでない仕事というのが、明らかに存在している点である。

 これまで書き連ねてきたことを換言しよう。下部構造が上部構造を規定するように、労働の様式が思考の様式を規定する。”スパーク”の取り上げられた仕事に身を委ねるうち、そうした仕事へと従属させられる余暇もまた色褪せて感じられるように。仕事の中で生まれた”スパーク”を活力に、余暇を充実させていくように。生活の在り様が精神の枷となる。「〇〇をすればいい」のではなく「〇〇と考える」ことが(少なくともリアリティの次元において)不可能となっていく。

 しかし、労働のもたらす再帰的無能感は、そうして規定された上部構造そのものというよりむしろ、言わば「学生」の思考の様式と「社会人」の労働の様式との矛盾の中で生ずる闘争といったほうが相応しいだろう。この闘争を経ることにより、人生に折り合いをつけ、「大人」になっていく。大人になっていくこととはつまり、「社会人」の思考様式を手に入れることであり、こうして革命の火は静まり、お前らは言う。「だって仕事だから仕方がないよ」。それがことの次第というわけだ。

 最後に再び『花束みたいな恋をした』劇中の話に戻ろう。「学生」の麦を象徴する食べ物が素麺だとするなら、闘争の段階を象徴する食べ物はカップ麺であった。では当然、「社会人」の麦を象徴する食べ物も登場するはずだ。麦が絹と別れた後、一人暮らしをしているマンションの部屋で食べていたパスタがそれに当たる。ちゃんとした社会人はカップ麺を啜って夕食とすることを良しとしない。仕事と折り合いをつけ、家に帰ってきてから少し手の込んだパスタを自炊するくらいの、大人の余裕。

 果たしてそれが成長なのだろうか。誰しもがいずれそうなる時の必然なのだろうか。あるいは、身体の(やがては精神の)規律化からは逃れられないのだろうか。今の僕にはまだ分かりません。