日記②

6/29

思弁的になりすぎるとよくないという当たり前のこと。だいたいにして、その思弁を突き動かすのは煮詰まった自意識だったりする。それ自体は結構なのだが、自意識から出発した思弁の末に出力されるものは、やっぱり自意識に返ってくるところが難点。

例えば、政治的社会的なマターについて考えるとき、諸個人の理性(あるいは感情。あるいはその弁証法的な構図。)の問題にばかり執着する様を見ることになる。そこでは、構造の問題が置き去りにされる。歴史が忘れ去られる。それぞれのマターによってグラデーションはあれど、歴史的に構築されたシステムの上に成り立つ社会の、それも具体的な問題について論じるときにそうした態度でいることは、はたから見れば空回りだ。

(レヴィ=ストロースサルトルを批判した構図ってそういうこと?)

 

6/30

クワイエット・プレイス』。公開当時から絶賛されているのは知っていたけど、「どうせあれでしょ?静かなところにいきなりバンッ!!!って出てきてギャーーー!!!!!みたいな感じでしょ?」と思い、元々ホラーが苦手なのもあって見送っていた。けど、アマプラに追加されてるのでようやく見た。

いざ見始めると、序盤から避妊問題が立ちふさがるなど、結構リアリティラインが低め。やっぱりそうしたツッコミも多いようで、ググると粗さがしレビューみたいなブログがわんさか出てくる。ただ、絶賛とボロクソで評価が割れるのも分からないでもなく、硬質な演出と演技、ファミリードラマに対し、ジャンル映画的な奔放さ(的というか、モロにホラー映画なので当然なのだが)が併存しており、そのあたりで各人の期待との(良い意味でも悪い意味でも)ミスマッチの余地が生じているんだと思う。

個人的には、ファミリードラマが硬質なだけに、実際粗さが目立ってしまう部分があるのは否めないと感じた。ロケットのオモチャ云々の前にガキを走り回らせるな、こんな状況じゃなくったってそれくらいの歳のガキとは手を繋いで歩くだろ、とか。何か袋に引っかかってるんだから横着せず下に降りて外せ、釘じゃなくても無理に引っ張って袋破けたり反動で転んだりして大変なことになるだろ、とか。歩くとき壁に書けてある写真の額縁に一々触るな、もし外れて落ちたらどうすんだ、とか。一言でいえば、緊張感のピントとでもいうものが時々定まってないというか、徹底されてないのが気にかかる。

ただ、最後のショットガンをリロードしてエンドロールに入るところがよかったので、終わりよければ全てよし的な感じで、まあ悪くなかった。(2を映画館で見るほどじゃないかなあ)

 

7/2

イギリス映画はイギリス英語(と言ったらイギリス人が発狂しそうだけど、実際多くの日本人にとって耳馴染みがあるという意味でスタンダードなのはアメリカ英語だろう)に注目して見ると面白い。

ピーターラビット2/バーナバスの誘惑』を見たのだが、バーナバスはピーターを”ピーッア”というふうに発音していて、恐らくこれは労働者階級に見られる発音だと思うのだけど、イギリス人であればここでバーナバスが湖水地方出身でなく、ピーターたちに嘘をついていることが分かるようになっているのかもしれない。

 

7/3

BLM運動などに見られる銅像に対する攻撃を所謂歴史修正主義と同一視する人間は浅慮がすぎる。前者は表象される歴史に対する異議申し立てであって、事実に反した歴史の読み替えである後者とは決定的に異なる。

公共空間において、我々の歴史を象徴する人物であるとか、我々のコミュニティが語り継ぐべき人物であるとかして顕彰される銅像は、それ自体が権力を生み出す装置であり、暴力性を備えている。それは、そうした銅像の建立された時代である近代を通して、政治的主体として(何を、如何に記念碑として顕彰するのか判断をする)社会に参与する道を断たれ、断たれていたが故に銅像の象徴するナショナルなナラティブに包摂され得ないマイノリティの立場においてである。

つまり、これまでナショナルヒストリーの構築から排除されてきたサバルタンとしてのマイノリティと、公共空間に記念碑を打ち建てて─歴史記憶の場を占有して─きたマジョリティとの分断を直視する過程として、銅像への攻撃は(ラディカルであれ)必然的な帰結にすぎない。とくに多文化共生社会であるアメリカでは尚更だ。

然るに、人々の歴史記憶の象徴たる記念碑に対する暴力的な抗議を攻め立てるならば、人々に象徴すべき歴史記憶を押し付ける記念碑の暴力的な機能にも目を向けなければ、単なる空虚なマジョリティのポジショントークでしか在り得ないだろう。