見たぞ!2021年上半期の動物映画まとめ

①新感染半島 ファイナル・ステージ

KCIA 南山の部長たち

③スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち

 

④花束みたいな恋をした

猫映画。二人が社会人として型にはまった生活をはじめる前に飼うのが猫というのが如何にも。

 

⑤シン・エヴァンゲリオン劇場版

猫映画。これが、猫。これが、可愛い。

なぜ犬でも鳥でもなく、猫である必要があるのか。ストレートに解釈すれば、人間と共同生活を送りながら決して交わることのない存在として、猫とチルドレンを重ねているんだとは思う。(アスカがそういうこと言ってたよね)

しかし、本作が絶えず繰り返し母性について描いていることを考えると、また違った視点も生まれてくる。というのも、猫は昔から女性として表象されてきた動物だからだ。(ワンコくんや子猫ちゃんがあっても、その逆はあまり聞かないだろう。)

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猫の姿をしたエジプトの女神バステト

もちろん、猫撫で声とか猫かぶりとかいった慣用表現が指し示すように、猫は信用できない、男を惑わす妖艶な女性として表象されることも多く、もしかしたら、猫=女性と聞いてそういったイメージを思い浮かべる人のほうが多いかもしれない。一方で、ビクトリア朝時代のイギリスをはじめ、猫を母性の象徴として描く潮流も存在している。

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童謡『三匹の子猫たち』(1843年)のイラスト

例えばエリザ・リー・フォーレンによる童謡『三匹の子猫たち』の中では、ミトンを失くした子猫たちを厳しく躾けつつも優しく育て上げる理想的な母親としての猫が描かれている。それには、飼い主の指示のもと活発に仕事に従事する犬と、飼い主の役に立たず家でだらだらしている猫というイメージが、ヴィクトリア朝的価値観に合わせて「仕事=犬=男/家庭=猫=女」と再解釈された背景がある。

まあ、現代日本においてそうした性規範と結びついた犬/猫描写がどれほど残存しているかというと、そこまで強固なものではない気もする。しかし、本作がくどいほど母性について描いていることと、NERVのワンコくんとの対比を通して考えれば、シンエヴァにおいて子供を産み育てる動物として猫が選ばれている理由に関して、上述の歴史的表象が影響を与えていると見ることは、さほど的外れでもないように思う。

 

⑥あの夜、マイアミで

⑦ミナリ

 

⑧フィールズ・グッド・マン

カエル映画。自分も幼少期からカエルが好きだったので、ペペの作者に感情移入して悲しくなっちゃった。ペペはなんてことないキャラクターだが、なんてことなさ、つまり空っぽの記号であるが故に、悪意のもとに自由に意味付けされてしまう(=オルトライト)。けれども、意味を塗り替えることもできる(=香港)。ポップカルチャーの持つ希望と絶望。

 

⑨パーム・スプリングス

⑩騙し絵の牙

 

⑪隔たる世界の二人

犬映画。主人公が飼っているのが猫であれば、「別に帰らんでもいいだろ」となるよね。家で主人の帰りを待つワンちゃんという磁力。それに、何度も何度もトライ&エラーを繰り返す主人公の必死さは、猫の軽やかさとはミスマッチなので、やっぱり犬である必然性が存在する。

 

ノマドランド

犬映画。序盤、Amazon倉庫の駐車場でフランシス・マクド―マンドが行き場のない犬を撫でるシーンがキュートかつ、彼女の人柄を表してもいる点で秀逸。ここで撫でるのが猫であったなら、また違った意味合いが生じるはずだ。自由奔放な猫と、鎖に繋がれた犬。勝手気ままにネズミを狩る猫と、主人のハンティングのために働く狩猟犬。彼女の旅路が自由奔放なバカンスでも勝手気ままな放浪でもないことの裏返し。

 

アンモナイトの目覚

アンモナイト映画。シアーシャ・ローナン

 

⑭愛してるって言っておくね

サンダーフォース~正義のスーパーヒロインズ~

 

⑯オクトパスの神秘:海の賢者は語る

タコ映画。人生に行き詰まったら動物と触れ合え。

 

⑰ビーチ・バム まじめに不真面目

猫映画。規範に縛られず自由気ままに生活する男が(犬ではなく)猫をお供にするというあたり、分かりやすい猫表象の例。「最初つまんない。イルカウォッチングのところまで退屈」と正直に言うあたり、町山智浩が嫌いになれない理由。

 

⑱ミッチェル家とマシンの反乱

 

⑲ザ・ホワイトタイガー

トラ映画。ではない。

 

⑳ジェントルメン

㉑ファーザー

 

㉒アーミー・オブ・ザ・デッド

トラ映画。実際トラ、というかネコ科であることは意味を持っていて、仮にゾンビ犬が出てくるとすれば、本来人間に従順な動物である犬が理性?を失い牙をむいてくるというギャップに恐怖が喚起されるので、本作のように知能を持ったゾンビを扱うなら、元々人間に制御不可能なネコ科の動物のほうがイメージに合うのかもしれない。

 

㉓映画大好きポンポさん

 

㉔Mr.ノーバディ

猫映画。『ジョン・ウィック』が犬映画だったのに対し、同じ制作陣の集まった『Mr.ノーバディ』は猫映画だというのがミソ。それは、単にそれぞれの殺し屋の携えるペットが犬であり、猫であるというだけでなく、キャラクターやストーリーの方向性にも表れているのが面白かった。

たとえば、両作品ともに所謂「舐めてた相手が実は殺人マシンでした」映画なのだが、この手の映画は主人公が輩に舐められて舐められて舐められて、大事なものを失うなどの一線を越えられてようやく爆発することでカタルシスが生じるストーリーラインが一般的で、実際『ジョン・ウィック』もそうなっている。一方、『Mr.ノーバディ』はというと、大して舐められていないし、大事なものも失ってもいない。ラテン系の強盗カップルへの逆襲にしろ、直接的なきっかけとなるバスでの乱闘にしろ、わざわざ主人公のほうから火の中に飛び込んでいくし、舐められを誘っているのだ。

ここに犬と猫の対比が顕在している。忍耐は犬の美徳だ。その目に哀愁を漂わせるジョン・ウィックは、妻の形見であるペットの犬を失うことで、それまで耐え忍んできた悲しみが閾値に達し、溜めに溜めたフラストレーションを解放させていく。対する『Mr.ノーバディ』のハッチ・マンセルは、実に気まぐれだ。上述したように、ラテン系の強盗カップルもロシアンマフィアも、厳密には向こうから絡んできているとも言うことはできるものの、バイオレンスな事態へ発展させるのは常に主人公の側である。それに、ハッチ・マンセルが闘いに身を投じる主な動機となるのは、日常生活の中で感じている欲求不満なのだ。子どもたちから尊敬されない。妻はバリバリ働いてるのに自分はしがない工場でしがない事務仕事をしている。叔父さんは軍隊上がりのマッチョで、お隣さんは高級車に乗るナイスガイ。繰り返しの毎日にうんざりしている中年男性。”猫を被って”生活しているけど、本当は凄腕の殺し屋なのに……。というわけだ。

大して舐められてもいないし、ツラい思いをさせられているわけでもないのに殺人マシンと化す主人公へ感情移入できるのは、そうしたファミリードラマを下敷きとしているからなのは間違いない。一方で、そうした家庭での鬱憤とその解放を描く本作は、マチズモを無批判にストーリーの軸に据えている点で、かなり居心地の悪い映画でもある。この主人公は、己の男としての強さを誇示するために強盗やマフィアにカチコミをして、その結果家族に危険が及ぶことを省みないからだ。そして、そのような身勝手さ、軽薄さこそ、この映画が猫映画たる所以でもある。

ただ、それでも見る価値があると思えるのは、ボブ・オデンカークが主役をやっている一点に尽きる。とくにブレイキング・バッドとベター・コール・ソウルを見ている人なら、かつてリッチな弁護士だったオデンさんがシナボンの従業員として冴えない生活を送っている姿がフラッシュバックしてやっぱり応援しちゃう。

 

㉕劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

キリン映画。舞台をテーマにしたアニメなのに電車という映画的な装置にフォーカスして利用するセンスがよかった。