日記⑪

11/1

『DUNE』見た。悪くはないけどぼんやりしてんな~、くらいの感想。Part1でぶつ切りするストーリーに2時間半もかけるなら、もう少しメリハリつけてほしいよね。”砂の惑星”といっても、例えば『アラビアのロレンス』ほどのスペクタクルを感じられるか?という具合に、アクションだったり諸々一歩及んでない。ムードを作り出すキャラクターだったりガジェットだったり美術だったりの演出は上手い。

こういうので旧版を引き合いに出して比べて「ここがダメだあそこがダメだ」言うやつが嫌いで、それこそ『ブレードランナー2049』の時とかまさにそうだったんだけど、『DUNE』に関しては出来の良し悪しは別にしても記憶に残るのはリンチ版のほうだよね。

 

11/2

ヨーグレットMINIが近所のコンビニに入荷してたから大量に購入した。

 

11/3

ブルーピリオドのアニメ微妙やね。

ところで漫画のほうを読み返してると、蓺大の立地がそうなので、上野の行ったことある喫茶店とかぼちぼち出てきて面白いなと今さら思った。

あとこの前見た『ベイビーわるきゅーれ』も上野の古城で撮影してた。めっちゃどうでもいいんだけど、古城って地下にあるけど内装のステンドグラスが光ってるじゃないですか。あれのせいで「うわまだ全然外明るいじゃん」って思って長居しちゃうんですよね。

 

11/4

発狂。

 

11/5

『エターナルズ』見た。

本筋とは全然関係ないけど、手話って会話それ自体がアクションになるし、もっと映画で掘っていく余地があるよなと思う。

『エターナルズ』はあっさりと自然に手話を取り入れていたけど、『ドライブ・マイ・カー』はかなり意図的だった。常に動き続ける車の中を主要な舞台に据えるだけあって、アクションに対する感度が高いのかもしれない。他にもタバコとか、岡田将生演じるイマドキのチャラい俳優のキャラクターならアイコス的な電子タバコ吸ってるほうがそれらしいくらいなのに、どの登場人物も紙巻を吸ってる。常に煙が上がり続けるっていうことと、火をつける所作とか、灰を落とす動作とか、色々とアクションが生まれる余地が多いからなんだろうというのは想像に難くない。

タバコというと『モンタナの目撃者』で都会風の男が消防隊員のマッチョたちに「おいおい電子タバコなんか吸ってゲイか?」とちょっかいをかけられるシーンがあって、素直に見れば田舎のホモソーシャル空間に漂う(ホモフォビアと言わないまでも)マチズモを表現してるんだけど、これも案外電子タバコと紙巻の映画的な差異の問題につながってるんじゃないかと思えてくる。実際、『モンタナの目撃者』は常に燃え続け、火の粉を飛ばし、煙を上げる山という、運動を絶やさない舞台になっている。やはりアクションに対する感度。

あとは『モンタナの目撃者』と『エターナルズ』におけるアンジェリーナ・ジョリーの役柄って結構似ている。有能でパワフルだが、記憶が原因で精神的な問題を抱えている女性。ドラマを生みやすいとか、アンジーのパブリックイメージあっての脱構築とか色々言えそうだけど、時代精神やんなという感じもする。

『エターナルズ』は内容的に、前評判が悪すぎたのもあって、いやいつもの最低限のラインは超えてくるMCUのクオリティではあるし、個人的に好きな部分も結構あって普通に面白いじゃんと思ったんだけど、よく考えたらクロエ・ジャオの映画なのに普通に面白いいつものMCUって感想にいたるの全然よくないなと思わないでもない。

 

11/6

発狂。

 

11/7

『シェアハウス・ウィズ・バンパイア』見た。『エターナルズ』もそうなんだけど、「実はコイツら歴史のいたるところに痕跡を残してるんですよ」みたいな演出をされると(実際のフィルムやニュース映像のフッテージが使われてるとなおいい)それだけで満足してしまう性癖なので、満足でした。

日記⑩

10/23

芸カ行った。

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はじめて買ったサークルの。

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いつも買ってるサークルの。有栖川おとめIDステッカーを毎回買ってる。今日も買ったらサークル主さんに「え、大丈夫ですか?」って言われた(頭がってコト?)。↓中身参考までに。正直最悪ここだけ買えたらいいかなという感がある。


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合同イラストブック。

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合同本は単価が高いので、運賃+入場料を払ってる身としては、そのコストに見合った買い物をした気になれるのがありがたい。とはいえ、寄稿者の絵柄・作風がどれほど好みに合っているかという部分ではギャンブル性も高いのが難。


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この本はどれも極好(ジーハオ)。

 

帰りにポケセンで色違いザシアンを受け取ってフードコートで油潑麺食べて駅前で山本太郎見た。

 

10/24

風邪を引いてダウン。

 

10/25

風邪を引いてダウン。

何もする気が起きないのでイカゲーム一気見した。単にエンタメとして見れば普通に面白いってくらい。例えばストレンジャー・シングスとかマインド・ハンターとか、自分の好きなネトフリオリジナルドラマと比べて、並ぶくらいにクオリティが高いかというとそういうことはないんだけど、部分部分でおっと思わせるナニを持ってるのは今の韓国エンタメにしかない見どころかもしれない。

 

10/26

早稲田文学「ホラーのリアリティ」を読み進めてる。感情史の勉強を進めてるせいか素直に面白がれない。

感情の定義どうなってんの?恐怖の本質ってそこ?なんでその感覚を自然化されたものとして扱ってんの?情動と区別できてる?等々。

面白がれないというか、面白いだけ?というか。本質的なところに切り込まず思弁的な連想ゲームでグルグルしてんねというか。

 

10/27

『キャンディマン』見た。前半は本作が”都市伝説”をテーマにしていることとジェントリフィケーションによる都市の変容をうまく織り交ぜてストーリーを展開していくのが上手い。後半は、ことアメリカにおいてジェントリフィケーションが都市問題、つまりセグリゲーションやダウンタウンのプロジェクト(貧困層向け集合住宅)といった人種問題と密接に関わっていることが主題に。BLMもまたそれらの問題と関りの深い現象ではあるし、コンテクストを知っていれば理解はできるんだけど、その前半と後半、特に終盤に至る展開のスイッチが唐突すぎる気もする。

 

10/28

購入。

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現代思想は今月のルッキズム特集号を買おうかと思ってたんだけど、本屋でぱらぱら立ち読みしたら、やっぱり内容がある容姿や装いを特定のジェンダーセクシャリティ、レイスと結びつけることの問題を論じているものが多数で、ある程度分かっている(つもり)のでそそられない。

感情史は感情研究全般を一応の土台としているので、必然的に脳科学神経科学や、生物学や実験心理学の知見に触れることになる。なので、自分の今の興味関心的にはルッキズムにしても美醜や認知の問題からアプローチするものがもう少し読みたかったなという感じがあり、ルッキズム特集号より進化論特集号を優先。あとはルッキズムってマイノリティとしてのアイデンティティを持つ人にとってだけ切実なものではないんじゃないの、とか。いつかルッキズム特集号も読むだろうけど。

 

10/29

Twitterの映画界隈の人たちを観測していて、この人たちって、映画からいかにポリティカルにコレクトなメッセージを引き出すかしか考えてないんじゃないかと思えてくる。

もちろんポリティカルコレクトネス(PC)的な人種的フェミニズム的多様性というのは、内容にしろ制作面にしろ、現在のハリウッド娯楽映画のメインストリームにあると言っていいし、そうした映画を読み解く上でPC的なメッセージを適切に受け取る必要があるのは確かだろうけど。でも、やっぱりそれって映画そのものしかり、ファンコミュニティしかり、PC的であることが求められるからってだけで、要するにそういうハビトゥスが求められる「場」のルールに乗っかってるだけじゃんと思う。

別に「お前らお利口ぶってるリベラルの欺瞞」みたいなことじゃなくて、むしろ逆というか。映画秘宝のことホモソとかdisってるけど10年、20年前だったらお前ら全員そっち側だったんじゃねーのみたいな。だってファンコミュニティの「場」のルールに合わせてるだけだもん。

まぁ偏見に基づいた放言だと思ってくれて構わないんだけど。そういう映画ファンって本読まないじゃん。アカデミックな議論にも関心ないし。PC的なテーマのある映画見て感動してPC的な価値観を内面化してPC的なファンコミュニティで答え合わせして。でも本(例えばフェミニズムとか人種研究とか)は読まない。本読めば偉いってことではなくて、映画それ自体とファンコミュニティで完結してるよねってこと。じゃあやっぱり業界とファンコミュニティのモードに従ってるだけじゃんねって。まぁ、作り手のメッセージを適切に受け取れるだけかなり上等ではあるかも。

すっごいしょーもないことなので詳細は書かないけど、ある有名映画ライターがやってるYoutubeチャンネルがあって、それがやっぱり『最後の決闘裁判』の話とかもしてるわけ。当然フェミニズム的なテーマを良きものとして語ってるわけだけど、そのチャンネル内で映画の関係ない話ではゴリゴリに女性蔑視的な冗談とか言ってて、ファンコミュニティの人間も特にそれを指摘しないみたいな。

結局お前ら「映画からポリティカルコレクトネスなメッセージを引き出す」ゲームやってるだけかよって思いますね。なんか文化は大切だとか抜かして維新批判したりしてるけどさ、リベラルやるなら本気でやれよな。

 

10/30

『インタビュー・ウィズ・バンパイア』。文庫版の解説に書いてあったことだけど、この映画本当に「ポーの一族」っぽい。トムもブラピもフランス系の設定で、怪異が旧大陸、それもフランスから持ち込まれるものとされているあたりは示唆にとんでいる。幾度か映されるマルディグラの情景とか。個人的にブラピのインタビューのテープを聞いたトムが「こいつまだこんな感傷的なこと言ってんのかよ」とツッコンで雰囲気がガラっと変わってエンディングに入るラストがすごい好き。

 

10/31

『ニューミュータント』見た。非ディズニーのX-Menフランチャイズ最終作。ホラー基調の作風はフレッシュだし、ジュブナイルなカラーも悪くはないけど、概ねぼんやりしていて残念。もっとうまいやりようあっただろ〜と思いつつ、MCUでもDCEUでもないアメコミヒーロー映画ってちょうど良く肩の力を抜いて見れるというか、なんだかたまに見たくなる。『ヴェノム』が妙にウケてるのもそういうことだと思う。

 

そこは中世ではなく、そこに真実は存在しない(『最後の決闘裁判』感想追記)

Ⅰ.そこは中世ではない

  その評(肯定的にしろ否定的にしろ)の中で、この物語が「中世」を舞台にしている点に何らかの意味を見出す意見を目にし、耳にする。要約するならば、「アップデートされた視点から野蛮な旧習を描けている」的なそれや、「いま・ここの問題を中世のロマンの内側に押しやっている」的なそれになるだろう。付言すれば、その前者には(なのでこの映画で描かれているような価値観を今日保持している人間は中世的な野蛮に他ならない)という言外の意味が込められているはずだ。

 悲しいことに僕は中世フランス史に明るくなく、また愚かしいことにこの映画の原作を読んでいないので、史実との整合性に関して見当違いなことをこれから書くことになるかもしれない。しかし、あくまでも劇中で描かれることの整合性についてここでは論じたいのだということを、先に言い訳しておく。

 単刀直入に言えば、『最後の決闘裁判』は必ずしも中世的な世界を舞台としているわけではないと解釈できる。それは史実の出来事が歴史上のいつに起こったとか、広く知られるところの時代区分に当てはまるとかではなく、あくまでも劇中で描かれることの整合性から見れば、中世的なるものとして表象される要素(封建制キリスト教世界のイメージ)からは解放された物語だということだ。

 例えば、カルージュとル・グリはどうして決闘をしたのか。高等法院で司法官たちに判決を下されるより、決闘を通して神の意志のままに決着を任せることを選んだのだろうか。もちろんその答えは否である。彼らは男としての名誉を示すために決闘を選んだのだ。

 また、劇中ではマルグリットの妊娠に関して、何度も男たちから「絶頂をしたのか」と問いかけがなされる。セカンドレイプの表現を意図しただろう反復と解釈できるシーンだ。しかし、ここでもうひとつ注目すべきなのは、彼らにとって妊娠が神から子を授かることではなく、(当時の基準における)生物学的な現象として理解されている点だ。医者がマルグリットに四体液のバランスを問うてさえいることは極めて重要だろう。この映画の登場人物たちにとって、不妊は信仰によってではなく、自然的な人体の機能に対する働きかけによって解決されるべきものなのである。

 そして、それに注目すべき理由とは即ち、ジェンダーもまた身体に自然化された特徴として認識されるからである。解剖学的な意味をひとつの基準とすれば、女性とは子どもを産む存在と見なされる(解剖学的に見た性器の形状を基準にセックス=性が定義されていると説いたジュディス・バトラーの議論にも留意する必要はあるだろう)。それと違わぬ地平において、女性とは肉体的にも精神的にも薄弱な存在であり、理性的というよりも感情的な存在とされるのだ(精神的に薄弱でありながら感情的な存在という矛盾!)。ともかく、その”感情的”の具体例として、女性は共感に優れていると考えられるし、よって男性を支えるべきなのだと言いつけられる。反対に、肉体的にも精神的にも強固な男性は、それ故に自身の力を適切に制御することが求められるし、あるいは時に力を適切に振るうことを通して、己の名誉を示すことが必要とされる。儀礼化された暴力の行使、つまり決闘である。

 こうしてジェンダー規範は近代の中で合理的な自然科学としての装いを獲得することとなる。自然化されたジェンダージェンダー化された感情。そして、名誉という感情を演じる場としての決闘。そこに"暗黒"の中世は存在せず、近代理性の光が性のありかを照らし出す。

 ”最後の”という形容に惑わされてはいないだろうか。たしかに、この映画に描かれる出来事は最後の決闘裁判だったのかもしれない。しかし、決闘という行為そのものは近代まで広く行われてきたものであることを、いま一度思い出してほしい。帝政ロシアの詩人プーシキンアメリカ合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、近代において決闘を行った著名な人物である。すると、”最後の決闘裁判”とはやはり、中世騎士道物語の最後の輝きではなく、近代へと連なるマイルストーンのひとつと見るべきではないかと思えてくる。少なくとも、この映画で描かれる決闘は、近代におけるそれとの感情的類似が強く見られる。であるからこそ、後期近代を生きる我々にとってもアクチュアルな物語として解釈する余地が生じる。

 

Ⅱ.そこに真実は存在しない

  この映画はあくまで決闘についての映画である。タイトルが指し示す通りに、と言うとナイーブすぎるだろうか。しかし、決闘シーンから始まり時系列を遡る本作は、やはりそれぞれの登場人物がどのような路を経て決闘の場に臨んだかに注意することで見えてくるものが多い。

  また、決闘の行われることが決まっている以上、「真実」を追求することに意味はない。確かなことは、真実の追求を望んだ女が一人、真実を追求することよりも闘うことを選んだ男が二人いて、結果的に真実は明かされなかった─カルージュの勝利によってマルグリットの望む真実が証明されたと考える観客はよもやいないだろう─ということだけだからだ。

 よって三章立ての構成をとる本作で提示される三者三様のナラティブは、それぞれが等しい審級において、つまり「平等にみんなの意見を聞いてみよう」と並置されたものではあってはならない。ナラティブである以上つきまとう物語性の問題や、被害者の声に耳を傾けるべきという倫理的な問題は、ここではいったん置かせてもらおう。とりもなおさず重要なのは、真実を望まなかった二人のナラティブと真実を望んだ一人のナラティブの対比である。

 カルージュとル・グリの視点から描かれた一章と二章では、相反するナラティブが並べられる。お互いが如何なる認識で決闘を選ぶに至ったのか。なぜ法廷のもとの真実ではなく、決闘のもとの名誉を選んだのか。ここで示されるのは、彼らが決闘という場にそれぞれの名誉を持ち込む過程だ。対してマルグリットの視点から描かれる三章で示されるのは、彼女が名誉も尊厳も奪われて決闘の場に巻き込まれていく過程である。決闘において男らしく戦うことは、カルージュ/ル・グリの名誉を回復させるだろう。そして決闘に勝利することは、自身のナラティブを押し通し、その正統性を周囲に示すことでもある。だが、マルグリットは夫カルージュに「勝って私の名誉を守って!」などと言いはしない。女の名誉とは、ジェンダー規範に沿って女らしく、貞淑な妻であることで保たれるものであり、故に、レイプされ声を上げた時点でマルグリット自身の名誉は失われているからだ。このようにジェンダー化された名誉という感情の在り様を中心に考えれば、三人のナラティブ、というよりも二人と一人のナラティブが、根本的な性質を異にしていることが理解できる。

 この二人の男と一人の女のナラティブの対比という構図を描く上で、三章立ての『羅生門』的な構成は有用なものになるはずだ。僕自身の意見を言えば、本作はそのように読み解く余地を、一定の程度ではあるが、創出できていると考えている。しかしこの映画は、そうした解釈を妨げる重大な過ちもまた犯している。それは、ル・グリ視点の二章とマルグリット視点の三章で繰り返される、前者が後者をレイプするシーンの存在だ。

 これまで述べてきたように、ナラティブの対立はカルージュとル・グリの間で生起するはずのものである。マルグリットが語るのは、そこで覆い隠され、こぼれ落ちたピースを拾い上げるナラティブだ。であれば、ル・グリとマルグリットの視点を対立させ、性行為に関してその合意の有無を問うことは、端的に構造にそぐわない。それだけではない。そもそも、決闘がそうであるように、男は女を対等な相手として認めていないのだから、認識の食い違いを描くべきではないのだ。男たちは最初から女と認識が食い違うことに関心を払ってなどいないだろう。「平等にみんなの意見を聞いてみよう」的にル・グリとマルグリットのナラティブを並置することは、実際にはそのような姿勢はありえなかったという意味でも欺瞞であり、避けるべき方法だった。

 性暴力をスペクタクルとして興行に利用することの倫理的な問題など、様々な観点から本作が直接的にレイプシーンを映したことに対する批判が上がっている。そうした意見の妥当性は自分も認めるところだ。一方で、決闘を中心としてストーリーおよび三章立ての構造を解釈する上でも、同シーンは決定的に不要だったと思う。

 繰り返しになるが、性行為に合意があったのかどうか、その真実など─マルグリット以外の人間の─誰も明らかにすることを望んでいないし、決闘によってそれは明らかになどならない。この映画は真実をめぐる物語ではなく、真実を求めた/なかった者たちをめぐる物語である─もしくは、そうあることを徹底すべきだった。

感情のアリーナにて──決闘をする/しないということ(『最後の決闘裁判』感想)

 決闘裁判は、紛れもない感情のアリーナである。それぞれの人間が、それぞれの感情を演じる場である。

 決闘裁判というアリーナへ、ある3人の人物がどのような感情を携えてきたのかを語ることにこの映画の主題はある。登場するキャラクターの感情を物語らない劇映画など(ほとんど)存在しないじゃないかと思われるかもしれない。しかし、これほど名誉という感情の実態、とくにそれがジェンダー的に構造化されている様を鮮烈に描いた映画はそう多く存在しないだろう。

 

youtu.be

 

 『最後の決闘裁判』の線的なストーリーはいたってシンプルだ。勇猛果敢な騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)と知略に長けた従騎士ジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)はかつて親友であったが、細かなすれ違いやカルージュとマルグリット(ジョディ・カマ―)との結婚から生じる領地相続の問題を経て、その仲は険悪になる。途中和解の場が設けられるが、ここではじめてマルグリットを目にしたル・グリは彼女に恋をしてしまう。マルグリットとの関係を夢想するル・グリは己の欲望を抑えきれず、カルージュの留守の間に彼女をレイプする。戦場から帰還し、妻からその事実を知らされたカルージュは、憎きル・グリとの因縁に決着をつけるため、ここに決闘裁判を開くこととなる。

 

 この映画が特徴的なのは、そうしたストーリーが三章立てで、三者三様の視点から構成されていることだ。そして、それは単に、黒澤明の名作『羅生門』に対するオマージュにとどまらない。

 カルージュの視点から語られる一章目と、ル・グリの視点から語られる二章目は、両者がプライドと名誉をかけて互いの主張を戦わせているように演出されている。

「あの時命を助けてやったのに」「その前に俺がお前を救ってやったんだ」。「ピエール伯におもねって俺から領地を奪ったくせに」「むしろ俺はお前をかばってやってたんだ」。「お前は俺の妻を犯した」「いやお互いに合意の上だった」。

 このように相反する両者の物語を、三章目にいたりマルグリットの視点から俯瞰することが、戦う男たちとそれを眺めるしかない女という決闘シークエンスそのままの構図の再現になっている点は注目に値する。マルグリットは事件の中心にいながら徹底的に疎外されているが故に、メタな視点を備えた語り手としての地位を持つことが可能になっており、また本作が『羅生門』のエピゴーネンではない理由の一端である。

 例えばこの章では、彼女が女らしさの規範から徹底的に抑圧されてきたことが語られる。複数の言語を操り算術に長けていながら、才能を封印して夫を立てることが求められる。子どもを産まないことで責め立てられる。レイプされようとも、女のくせに一々声を上げるなと睨まれる。こうして、男たちの猛々しい物語の狭間で語られなかった事実が明かされる。

 であるから、カルージュもル・グリも、真実や正義のために法廷で争うのではなく、己の名誉のために決闘することを選んだ経緯というのは、理解に容易い。実際、彼らは劇中で「名」や「名誉」といった言葉を繰り返し口にする。事程左様に、決闘とは名誉の感情が演じられるアリーナなのだ。

 一方、事件の当事者でありながら、自らの運命を男たちの決闘に委ねなければならないマルグリットの名誉とは如何なるものなのだろうか。

 それがよく分かるのは、マルグリットがカルージュに、ル・グリからレイプされたことを打ち明けるシーンだ。その事実を知ったカルージュは「あいつはいつも俺に対して邪悪なことをする!」と叫び、あろうことかマルグリットの首を締めあげる。ここで重要とされるのは、仇敵に所有物としての妻を汚されたことで損なわれる夫の名誉であり、被害者として妻をいたわる姿勢は皆無である。

 その後、公正な裁判を求め声を上げたマルグリットが周囲から心無い言葉を投げかけられることが示しているとおり、この時代の女性にとっての名誉とは貞淑であることの一点でのみ認められるものに過ぎない。つまり、マルグリットの名誉とはレイプされ、あるいはそれを明かして声を上げた時点で、もはや永久に失われてしまったのだ。

 しかし、より深刻なのは、マルグリットが社会から押し付けられた「貞淑な妻たれ」という“女の名誉”を自ら手放した事実である。彼女はジェンダー化された社会規範としての名誉よりも、“自己の尊厳”を保つために声を上げ、法廷での裁判による公正な判決を求めた。しかし、決闘を要請する男たちの名誉の前に、その道さえ閉ざされてしまうこととなる。

 カルージュは妻の意見などお構いなしに、損なわれてしまった名誉を取り戻すため決闘へと突き進む。命をかえりみずに闘うことで男らしさを示せば、彼の名誉は無事に回復されるからである─逆に決闘をしなければ、妻に手を出されても大人しくしていた男として名誉を失っていただろう。

 決闘のシークエンスでは、滑稽なまでに猛々しいカルージュとル・グリ、ことの行方をやるせなく見つめるマルグリットとの対比─繰り返しになるが、この構図は三章立ての物語構造と韻を踏んだそれである─の中に、名誉をめぐるそうした状況が視覚的に描かれている。つまり、決闘裁判という感情のアリーナにおいて、名誉を演ずる男たちと、名誉を失い尊厳すら取り上げられ、自らの行く末を彼らに任せるしかない絶望のみを携えた女の対比である。

 

日記⑨

9/20

中華街で飯食って喫茶店で本読んだ。

 

9/21

親ガチャという単語、中高生が使うならともかく、いい大人まで乗っかって「いや、これは一考に値する…」みたいな神妙な顔し始めたのが正直厳しい。

究極的には親の間の差異を排することは不可能なのに(私有財産の否定どころか、あらゆる身体的文化的差異も否定されることになる。それでいいなら構わないが)、ことさら親について語ろうとすること、及びそれに正面から与することは、問題を不必要に分節化することになる。そこで社会は語られず、問題の所在は個別の家庭のエピソードの内側に閉じ込められてしまう。

どのような社会にあっても人間の差異はなくならないという前提に立つならば、本来論じるべきは、教育や福祉における再分配がうまく機能していないということであり、生育環境の影響をより濃く受ける(新自由主義を背景とした)ハイパーメリトクラシーの弊害じゃないのか。そこまで行かないとあまり意味ないんじゃん。

 

9/22

ワクチン接種2回目。とにかくワクチンを打ったところ(左肩)が痛い。1回目のときは青アザができたような感じで、ぐっと触ると痛いけど、それ以上のことはなかったイメージ。今回は露骨に腫れあがって熱も持っているのが辛く、寝返りも打てない。

 

9/23

1回目のワクチン接種のときにはなかった副反応だが、今回は寒気も止まらない。風邪のひき始めみたいなぞわぞわ。

 

9/24

感情史の方法論が面白い。『感情史とは何か』を読んで、自分が学部生の時に持ってた関心に欠けてたピースのひとつだなと思った。

当然、何が何でも「感情」にフォーカスした議論の展開をする必要はないんだけど、社会的な事象がどう表象されてきたのかというざっくりした自分の関心の在り様に、なんとなく落としどころを見つけられていないようで悶々としたまま卒論を書いた身としては、何かの答えになった気がする。

別に他人の研究を読む分には面白く消化できるんだけど、いざ自分が研究するとなると、どんな切り口にせよ「それが分かったからなに?」という疑問を結局最後までぬぐい切れなかった。まだ言語化できていないけど、個人的に感情史はそこに意義を付加できる方法になり得そう。

 

9/25

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』読んだ。俺はノンフィクションが一番面白く読めるんだなというのを自覚しつつある。

 

9/26

スパイダーマンの映画シリーズを復習し終わった。個人的にはマーク・ウェブ版が一番好きかもしれない。

なんとなくジャンル映画とかアメコミ映画とか好きな人たちの間でサム・ライミ版こそが至高とされ、マーク・ウェブ版は見下されている風潮があると思う。それに対する逆張りが全くないとは言わないけど、自分は一応どっちも見ているはずだけど全然ディティールが記憶に残っていないので、今回フラットに見比べることができた気がする。

それを踏まえて言うと、マーク・ウェブ版のほうがスパイディの陽気さが際立っていて、それがニューヨーク市民に愛されるキャラクターとしての説得力にも繋がり、かつ監督の爽やかな持ち味ともマッチしているところがいい。というか改めて見ると、トビー・マグワイアのピーター・パーカーが挙動不審すぎて、あまりチャーミングじゃないのが見ていてノレない。まあアンドリュー・ガーフィールドのピーターも文系感がかなり強くて、端から別人な感じではあるんだけど。とはいえ、エマ・ストーンとのアンサンブルがズルすぎて、それで全部成り立ってしまう。

ジョン・ワッツ版も好きではあるんだけど、こういうかたちで見比べると、如何せんMCUが枷になっているというか、別物だよなと思う。一番魅力的な役者はトム・ホランドだと思うので、一長一短。

あとは、ウェブを使ったアクションの多彩な見せ方に一番向き合っていたのもマーク・ウェブ版だと感じる。サム・ライミ版はCGの技術的な制約のせいもあると思うし、逆にジョン・ワッツ版は色々やっているんだろうけどアクションの見せ方に力が入っていない。その点、マーク・ウェブ版だと糸のたわみとか伸縮性、粘着性そのものをねっとり描写していて、またそういう素材を使ってどうアクションさせてどう映すかに熱を感じる。

いつ誰がシラフをシラフと決めたのか(『アナザーラウンド』感想)

「人間の血中アルコール濃度は常に0.05%を保つことが理想である」と、ある哲学者は言う。おそらく普通に生きている人間であればこれを真に受けることはないのだろうが、普通に生きることからドロップアウトしてしまった男たちの一人こそ、この物語の主人公である。

マッツ・ミケルセン演じる高校教師マーティンは、ルーティンと化した日々の仕事に飽き飽きし、冷え切った夫婦関係にもうんざりしている。どうせ言うことを聞かない生徒たちに教科書を読み上げる授業。夜勤で働いているためにほとんど顔をあわせることもなくなった妻。そんな繰り返しの日常に突破口を開こうと彼がすがったのが、上述の格言である。かくして、マーティンとその友人であり同僚の三人、合わせて四人の中年たちは、日中に酒を飲むことでQOLの向上を目論む秘密のクラブを結成するが、次第に彼らはコントロールを失っていく……。

youtu.be

 

しかし、いつ誰がシラフをシラフと、つまり、飲酒をしていない状態こそが平常であると、決めたのだろうか。例えば、栄養失調や飢餓状態をして平常と見なすことがないように、血中アルコール濃度もまた0.05%に至るよう補ってこその人間なのではないか。一見すると過激に思えるかもしれないこのテーゼであるが、我々が人生を生き抜くために必要な視点を与えてくれる確かな真理を含んでもいる。

 

おそらく事実とそう違わないだろう個人的な見解であるが、映画において酒がフィーチャーされるときには、だいたいがアルコール依存症の形をとって描かれてきたように思う。

en.wikipedia.org

このWikipediaの記事の一覧を見ても分かるように、映画史の最初期から現代に至るまで、アルコール依存症を描いてきた映画は数多く存在する。一覧には含まれていないものの、その最も古い一例としてフェルディナン・ゼッカによる『アルコール中毒の犠牲者たち』(1902)を参照されたい。

youtu.be

もちろん、その最初期からというのは、映画というメディアが飲酒を否定的に描くことの本質的な必然性を強調するものではなく、例えば映画の都を擁するアメリカにおいて、1920年禁酒法施行にいたる宗教的厳格主義の胎動があったこととの同時代性に注目すべき部分がある。

そして、それはアメリカ的なプロテスタンティズムに固有の精神ではなく(実際、ゼッカはフランス人である)、近代に顕著な、自己の身体を制御すること、その規範の表れでもある。つまり、欲望を断ち切れ、感情に振り回されるな、平常を保ち理性的な主体(subject)たれと我々に迫る規範だ。そうした規範はいつしか我々の身体に浸透しながら、欲望を創造し、感情を構造化する。(まさしく身体化を経て)主体と相成った私たちは、どうすれば欲望を、感情を自らの手の内に取り戻すことができるのだろうか。

『アナザーラウンド』の主人公マーティンもまた、理性的な主体である。理性的なんていうと少し堅苦しいかもしれない。おとなしめな性格、真面目、生徒からすれば堅物、そんなところだろう。歴史の教師である彼だが、その肝心な授業は文字通り教科書を読み上げるだけ。マーティンからしても生徒たちからしても退屈極まりないそれは、しかし、カリキュラム通りに授業をこなすという規則の果てに陥った形式主義なのだ。

家庭におけるマーティンの振舞いにも同種の病理を見て取れる。夜勤で忙しい妻と心を通わせることができなくとも、子供たちと上手くコミュニケーションをとれなくとも、感情を飲み込み、夫として大人としての役割を全うしようと、淡々とした日常を送るマーティン。あるいはそこに男性性の問題を見て取ることもできようが、ともかく、欲望を封じ込め、感情を抑え込む生活はマーティンの人間性を疎外し続けてきた。

この映画は、シラフであることのもっともらしさに揺さぶりをかける。規範によって身体化された平常を突き崩すには、アルコールをその身体に取り込むことによって内側から理性を、平静を、常識を攪乱するほかないのだと謳いあげる。

教えることの喜びを忘れてしまった先生に、緊張によって面接試験で勉強の成果を発揮できない生徒に、ちょっとばかりの─血中アルコール濃度0.05%に相当する─酒を差し出す。これでも飲んで、肩の力を抜いてみればいいじゃないか。そうすると、人生は案外と上手くいくのかもしれない。

とはいえ、この映画は酒を万能薬として称揚するわけではない。マーティンの友人の一人に起こるとある出来事がそれを物語る。事程左様に、肝心なのは規範によって絡めとられた生を解きほぐすことで見えてくる人生の喜びであって、あくまで酒はその手助けに過ぎないわけだ。酒に溺れてしまえば視界はぼやけてしまう。

しかし、本作のラストシーン、マーティンもといマッツ・ミケルセンの美しい身体が踊り、美しい世界に胸が躍る瞬間、シラフでは得ることのできない自由に私たち観客は夢を見る。それは論理の飛躍─最後のショットに目を凝らされたい─だろうか。もちろんそれでかまわない。ときに理性から飛躍することこそ我々の人生に必要なのだから。

翻弄される朝鮮半島のイメージとしての(『白頭山大噴火』感想)

ここ数年のハリウッドで、これといったディザスタームービー(とくに自然災害を取り扱ったそれ)が思いつかない。
僕が子供のころに都市伝説大好きキッズだったからそう見えていたとか、あるいは日本社会がノストラダムスの余韻とマヤのダメ押しの狭間で妙な熱に浮かされていた空気感の反映なんじゃないかとかを抜きにしても、ゼロ年代はディザスタームービーが豊富だったように思う。個人的に印象深いのは『デイ・アフター・トゥモロー』で、単にテレビでよくかかっていたというのが一番の理由だろうし、ここでは置いておこう。
とにかく『白頭山大噴火』は、そうしたディザスタームービーの感触を我々に思い出させるには充分な映画だということである。韓国映画の恐ろしさは、ポン・ジュノがオスカーを席巻したことよりもむしろ、案外とこういった大味の娯楽大作を、まさにハリウッドの大味娯楽大作と遜色のないものとして作れてしまうようになったところにあるのかもしれない。

この映画におけるディザスター(大災害)とはタイトル通り火山の噴火である。しかし、ストーリーの主題は、そのディザスターによって翻弄される朝鮮半島を描くことにある。例えば『シン・ゴジラ』において、日本を襲うゴジラが3.11の惨禍のアナロジーであったように。
ここで重要なのが、ゴジラが襲うのは「人間」や「文明」ではなく紛れもなく「日本」であり、そこに『シン・ゴジラ』がナショナリスティックだと言われる所以がある(同作のキャッチコピーは"ニッポン対ゴジラ。"である)。誤解してほしくないのは、ナショナリスティックというのが─”ナショナリズム”という語が世間一般で安直に用いられているような─”愛国主義”を意味しているのではなく─差し当たり簡潔にまとめるならば─共同体としてのネイションの成員(登場人物にしろ観客にしろ)の精神的紐帯を無謬の前提としており、またそれを喚起する話法が用いられているということである。
話を戻そう。『白頭山大噴火』は、その意味で『シン・ゴジラ』と構造上の類似点を指摘できるし、平たく言えば、やはりナショナリスティックなのである。しかし、この映画におけるネイションとは韓国ではない。未完のプロジェクトとしての、韓民族(朝鮮民族)の手によるネイションである。

清と日本─ロシアと日本─ソ連アメリカ─中国とアメリカといった具合に、朝鮮半島近現代史とは周辺各国の勢力争いによって翻弄されてきた歴史という側面を持つ。もちろん、そうした歴史を生き抜いた主体的なアクターとしての韓民族を無視してはならない。この映画は、まさに近現代史において朝鮮半島を翻弄してきた一連の事象を自然災害へと見立てることによって、韓民族による主体的なネイション建設─今日的な意味で言うならば、半島の統一という悲願─を語りなおすことを可能としたジャンル映画なのだ。

そう。本作はメロドラマの性格を備えたディザスタームービーであるから、直接的に政治的社会的事象を物語ることを避けている。その表れの一端は、ストーリーにおける北朝鮮の不在である。もし劇中に北朝鮮が存在していれば、この映画の性格はポリティカルサスペンスへと装いを大きく変えていただろう。そこで本作は、イ・ビョンホン演じるキャラクターへ北朝鮮性を一手に引き受けさせることにより、その問題を解決している。北朝鮮を体現するイ・ビョンホンと、韓国を体現するハ・ジョンウ。白頭山の噴火から朝鮮半島を救おうと奔走するこの凸凹コンビの交流は、バディムービー的な面白さを盛り立てるだけでなく、本来ネイションを同じくすべきであった同胞の和解を演出することに主眼が置かれている。

一方で本作は同時に、韓国から北朝鮮に対するパターナリスティックなまなざしによって支えられており─北朝鮮核兵器を手放したことで始まる物語において、同国が如何に飼い慣らされた表象と化しているか─、そこにエゴイスティックな自意識を見出すことも可能である。しかし、そうであっても、である。これほど露骨にアメリカを、中国を悪し様に描くことのできる胆力は中々にすごみを感じさせる。白頭山の噴火に端を発する半島の混乱に乗じ、各々の利益を完遂するために暗躍する米中。事程左様に本作は、近現代史において翻弄されてきた朝鮮半島を再演してみせる。アメリカ軍と中国の工作員に挟まれ身動きの取れなくなっているイ・ビョンホン父娘は、その今日的様相の忠実なイメージに他ならない。だが、状況をコントロールするのは今度こそ……。そこに駆け付けたハ・ジョンウのもたらす映画的飛躍は、火山さながらのカタルシスの爆発である。