2020年に見た映画とか①~『透明人間』『ミッドサマー』『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』

 

 〇『透明人間』

前回のブログでは、どちらかというとポリティカルな?側面について触れたので、それだけでは、「そういう社会的なメッセージとか嫌いなんだよね~」と言いたがる種の人間に、本作を勘違いされてしまう可能性もある。この映画は、純映画的な仕掛けに富んだ面白さにこそ、見どころがあるからだ。

透明人間という題材はこれまで、透明になる人間の視点から描かれることが主だったと思う。しかし、VFXの発達によって透明描写の技術的制約から解き放たれた今日にあって、本作が選んだのは、透明人間に覗かれる側の視点から描くことだった。そうすることによって、『透明人間』はサスペンスフルなホラー映画足り得ることができている。

見られる側からすれば、透明人間がどこにいるのかなど分からない。常に見られているのではないかという恐怖がつきまとうことになる。そうした時、何もない空間にただカメラを向けるだけで、そこに透明人間が潜んでいるのではないかと、恐怖を煽り、サスペンスを生じさせることができるのだ。

これは、恐らく映画にしか表現のできない演出である。テレビでは”何もない”を映す時間を流す贅沢は許されていない。アニメであれば、根本的に何もない空間というのを、映しようがない。何もない空間というのが、例えばなんてことない普通の部屋だったりするのだが、紙になんてことない普通の部屋を描いてしまえば、そこに映されるのは「何もない空間」ではなく「「何もない空間」として描かれた空間」になってしまう。なんてことない部屋にカメラを向けるだけ、そこから生まれる宙づりの時間に、観客は不安を抱くのであって、アニメにおいて映されるなんてことない部屋は、意図をもって描かれている以上、宙づりではありえないからだ。(もちろん、だからアニメより映画のほうが優れているという話ではない。あくまでメディアとしての、両者の特性の違いの話である。)

透明人間×ホラーというジャンル的面白さに加え、上述のサスペンスフルな映画的演出、そしてポリティカルなテーマを下敷きにすることによって生じるカタルシス、これらが三位一体となることで、この映画のビシッとキマった感じが醸し出されている。

余談ではあるが、この「何もない空間」を映すことによって恐怖を演出するやり方は、ただ部屋にカメラを向ければいいだけなので、とても経済的ですらある。如何にも低予算ホラーをメガヒットさせ続けてきたブラムハウスらしい。また、今日的な、ポリティカルなテーマを恐怖に結び付ける作劇も、やはりあの『ゲット・アウト』を製作したブラムハウスらしさを感じさせる。

さらに余談である。前のブログで『透明人間』の描く恐怖の源を、見る/見られるという関係に潜む権力の不均衡と書いた。この1年就活で四苦八苦していた自分にとって、この映画のそうしたテーマはアクチュアルに刺さった。就活における面接は、まさに、一方的に権力を有する面接官と、その品定めの視線に晒される無力な就活生という構造の上に成り立っている。面接は入室時から、いや、受付時から?誰にどう見られているのか。どういうジャッジが下されるのか。常にそうした恐怖がつきまとう。

 

 

〇『ミッドサマー』

アリ・アスター監督の前作『へレディタリー』が大好きな自分にとって、今年のインターネットを駆け巡った『ミッドサマー』ブーム(過激かつ過剰な煽り文句や、単純なワードを何度も繰り返してヤバいヤバいと喚くバズ狙い丸出しのツイートがどれほどタイムラインに流れて来て、その度に辟易させられたことだろう?『へレディタリー』も見ていないくせに?)には逆張りしたくなってしまうのだが、ひとつ、確実に評価できる点はある。それは、多くの人が言及するように、ドラッグ描写だ。

『ミッドサマー』のドラッグ描写はリアルだという声をよく耳にするし、恐らくその通りなのだと思う。では、そのリアルさの要因はどこにあるだろう。これまで自分が見てきたドラッグムービー(『ラスベガスをやっつけろ』や『トレインスポッティング』や『ブレイキング・バッド』、あるいは『ドクター・ストレンジ』)は、ドラッギーな”イメージ”を描いているものが多かったように感じる。その点で言えば、本作の描いているものはドラッギーな”センス”そのものではないだろうか。

つまり、視覚的な部分にとどまらず、音の聞こえ方だとか、ちょっとした時間感覚のズレとか、そういった状態にある中で感じる不安や焦り、不快感総体みたいなものとしてのセンス(バッドトリップというか、バッドに入っていく前段階の感じ)を、うまく捉えているのだ。そうしたドラッグ描写のメルクマールとして、本作を見ても損はないはず。

 

〇『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』

ウディ・アレンが養女に性的虐待をしていたという告発がMeToo運動の中で再燃し、アメリカでは公開中止になった本作。ただ、劇場で見られなかったことが大きな損失かというと…。

ウディ・アレンの他の作品と同様に、いわば感傷マゾっ気の大量放出。こんな文化系男子の俺がこんな女の子といい感じにアレして~~~という、それ以上のものはない。しかし、この映画を見る価値がないわけではない。それは、ティモシー・シャラメエル・ファニングのキュートな2人が主演を務めているからだ。特にシャラメ。

シャラメ演じる主人公の造形が本当にキモくて、文化系男子の妄想する「俺の考えた最強の文化系男子」像の極北というか、ここまで突き詰めると呆れ果てるほかないのだが、彼が演じていることもあり、一周回ってアニメキャラみたいなポップさが意外と悪くない。というかある程度は意図的なのかも。マンハッタンで裕福な家庭のもとに育ち、文学映画美術音楽に通じる教養モンスターで、しかし家族の束縛を嫌ってドロップアウト街道爆走中。ハーバードを中退するわギャンブルにのめり込むわ、酒を飲んで煙草を吸って無頼ぶることに余念がない。それでもって美少年。

そんな主人公が雨の降るニューヨークを彷徨いながら、キュートな彼女に裏切られたり、セクシーな彼女に慰められたり、クールな彼女と意気投合したりする話。なぜコイツは雨の降る、曇り空のニューヨークが好きなのか。感傷マゾも大概にしろ。

しかし、家族との関係の話では唐突に『エデンの東』のパロディ?オマージュ?が挿入されるので、(『エデンの東』ではないけど、その影響を受けた)とある映画の好きな自分も他人事ではないというか、いたたまれないというか、他山の石だなと思った。

あと、やたらシャラメのiPhoneの着信音が流れまくるので、本当に心臓に悪い。