まじめに不真面目というよりも、不真面目にまじめな『ビーチ・バム』

『ビーチ・バム まじめに不真面目』の悲劇は、あまりにもぴったりな副題を与えられてしまったことだろう。「まじめに不真面目」。本作の日本公開に合わせて著名人から寄せられたコメントたち*1は、それを雄弁に物語っている。

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コメント①

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コメント②

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コメント③


まじめそうな名前の数々が、なるほどまじめで素晴らしいコメントを寄せていて、なんだか頭が痛くなってくる。不真面目で軽薄な、それゆえに深みをたたえた(と言っていいだろう、事実コメントを寄せている彼ら彼女らの見解は、突き詰めればそういうことだ)この映画は、そうして語られれば語られるほど、なんだか深刻さばかりが際立ってくる。


では実際どういったストーリーなのかといえば、マシュー・マコノヒー演じる詩人ムーンドッグが、ひたすらにドラッグをキメて女と遊んで友達とダべってぶらぶらして詩を書いてという、それだけの話だ。もちろん、本作を特別たらしめている部分もあって、物語を駆動させる起点であるムーンドッグの妻の死が、彼が自堕落な人生を振り返り、更生するきっかけに…………はならないところである。彼の妻は、自由人であるムーンドッグを愛してはいるのだが、あまり勝手気ままに生きて詩を書いてくれないのは困るということで、ムーンドッグに対しては「詩集の出版」を遺産分与の条件としていたのだった。そう聞くと、詩集を創る過程での成長を描くというのがいかにもよくある筋立てだが、この映画では、妻の死を経てもムーンドッグは自由人としてふるまい続ける。そして、あくまで自由人で在り続けるが故に詩を紡ぐことのできる彼の姿から、我々はこの物語に、他の映画とは異なる豊かさを感じることになる。のだろう。

 

しかし、この深刻さはなんだろう。不真面目を、それほどまじめに語らなければならないのだろうか。不真面目であるためのまじめか。まじめであるための不真面目か。それは、この映画を取り巻く言説に限ったことではなく、まさにこの映画それ自体に内在する問いでもある。例えば、『ビーチ・バム』で描かれる反規範的生活が、常に規範によって支えられていることからも見て取れるように。また、そこにこそ、この映画の評者たちが、不真面目の意味を(強迫神経症的に)まじめで埋めていくことに取り憑かれている一因があるのだが。

ムーンドッグは自由人として、方々をぶらつきながらマリファナを吸い、そこで出会った女たちと遊び、友人たちと言葉を交わす。そうした生活を可能ならしめていたのは、資産家の妻がいてこそであった。ここに、当たり前の真実が頭をもたげる。金がなければ、遊び暮らすことなどできないという真実だ。

すると、あなたはツッコミたくなる。「遊び暮らすだなんてとんでもない。ムーンドッグは優れた詩人だ。彼の遊びは詩作の栄養となる精神的活動なのだ。そう言ったのは君じゃないか。」たしかに、その通りだろう。ここで確認ができるのは、彼の遊び─自由で、反規範的な─が、詩作に奉仕するという、生産性の原理において光り輝く事実である。もちろん、彼にとって詩作もまた遊びであり、そうした原理には拘束されない自由人なのであると考えることも依然可能だ。しかし、彼を仰ぎ見る観客(スクリーンの外側の)の、聴衆や読者(スクリーンの内側の)の反応はどうだろうか。その点を端的に示すのは、ついに詩集を完成させたムーンドッグがピューリッツァー賞(!)を受賞するという一幕である。なぜ彼は訪れる先々で優れた詩人として遇されなければならないのか、なぜ彼はピューリッツァー賞を授けられなければならないのか。なぜ自由人は崇高でなければならないのか!
(また、彼の自由でファンキーな放浪を可能ならしめる最も大きな要素に、ホワイトネスを付け加えることも、忘れてはならない。もしムーンドッグが黒人であれば、すぐに逮捕されて、この物語は成立を見ないだろう)

 

これまで見てきたように、この映画で描かれる主人公の反規範的な生活は、むしろ規範─金─生産性─ピューリッツァー賞(─ホワイトネス)の原理によって支えられている。規範的でないということが、規範の内側において実現されている。規範と反規範の共犯関係。それに気が付いたとき、この映画に対して覚えるのは、規範からは逃れ得ない反規範の徒労感である。そして、上述のコメントたちは、その再生産に映る。全く規範から逃れているものではない、規範の存在に依存した反規範と同様に、一切のまじめを振るい落としたそれではない、まじめの上に立脚した不真面目。

その白々しさを象徴するのは、終盤ムーンドッグが妻から相続した数億ドルの遺産を船に積み込み、花火で景気よく燃やしてしまうシーンである。「俺は札束を燃やしちゃうぜ」なんてキャラクターの表現がクリシェであるのは言うまでもないのだが、ここで問いたいのはその無意味さだ。当然、この無意味とは、全く意味を欠いた、ぽっかりと空いた穴のようなそれではない。意味をはねつけ無意味な行動をとること=権威への反抗といったように、意味によって埋められた、カタチだけの無意味だ。実際、札束を燃やすイメージがクリシェと化している事実は、それが資本主義社会になんら影響を与え得ない、ガス抜きのパフォーマンスである─つまり、意味に調教された無意味である。また、ガス抜きの役割を果たしている点で、資本主義社会へ奉仕しているとさえ考えられるだろう─ことを示している。ちょうど、この映画がそうであるように。

であればこそ、本作にまとわりついた深刻なムードの正体が明らかにできる。意味に根を張った無意味の、規範に根を張った反規範の、まじめに根を張った不真面目の、その深々と張り巡らされたシステムの表象に他ならない。ここにひとつの逆転が現れる。「まじめに不真面目」を謳う本作が、実のところ「不真面目にまじめ」であるという倒錯である。