『竜とそばかすの姫』、好きくないじゃないじゃないじゃないじゃないじゃないじゃない

細田守のアニメに共通している居心地の悪さのひとつの要因は、キャラクターに対するピントの合わせかたにあると思う。居心地が悪いといったって、それはお前の感想だろうと言われたらその通りなのだが、しかし、キャラクターの描き分けにおいて、これほど解像度の差異がハッキリしていると、なんだかわざとらしいし、よそよそしい。

一方で多面性を持ったキャラクターの複雑さを、まさにその複雑なままに描こうと努めているかに思ったら、他方で非主要キャラクターに対する扱いは、割り当てられた役通りのセリフを読み上げる機械かのようなぞんざいさが目に余る。悪い奴は悪い奴なりの雰囲気をたたえてるし、ダサい奴はダサい奴なりのセリフを吐く。

それは監督の作るアニメの寓話的な語り口と無関係ではないだろう。近代小説が自我を抱えた登場人物を描くのに対して、古典の物語(寓話、神話、詩など)で語られるそれは行為の遂行者に過ぎない。細田アニメの主人公たちを見比べてみても、性格の掘り下げの程度はあれ、その精神の内奥の葛藤が描かれるよりも、放り込まれた状況の中で戸惑いながらも一歩を踏み出すという典型的かつシンプルな成長譚(つまりは貴種流離譚のヴァリエーション)の主役として配されているといった色のほうが濃い。そして上述したように、非主要キャラクターにあっても、その描写は類型的というかステレオティピカルだ。例えば今作『竜とそばかすの姫』では、学校のアイドルであるルカを廊下から眺める女子生徒たちに、如何にもモブ然とした口調で「ルカちゃん可愛い~」「本当にスタイルいいよね~」みたいなセリフを言わせてみたり、すずが幼馴染で学校の人気者であるしのぶと付き合っていると思い込んだクラスメイトたちに、如何にも感じの悪いいじめっ子女子然とした口調で「調子乗ってんじゃねーよ」「色気づきやがって」みたいなセリフを言わせてみたり、ここら辺のあまりに学園ドラマのクリシェをなぞった演出には頭がクラクラしてくる。やはり、王は王であって奴隷は奴隷であるという、神話よろしく与えられた役割の遂行者として描かれるにすぎないのだ。

しかし、最初に前置きしたように、一定のキャラクターの掘り下げにはそれなりの筆を割いていることも確かで、それについては具体例を出す必要もないだろう。個人的には、反対に、”モブ”以外の境界線というか、上述したクラスメイトたちに見られる無批判なカリカチュアライズの筆致を弱めるラインがどこにあるのかに注目するほうが意義深いように思う。ではその境界線がどこに引かれるのかというと、やはりこれも雑感になるのだが、監督が「ここに共同体がある」と認識した範疇に入るかどうかで分かれているんだろうなと感じる。「細田守はいつも血縁の話ばかり描いていて保守的で云々」といった類の批判を聞いたことはないだろうか。自分も以前なら全面的でないにしろ、同意する部分のあった主張だ。でも、今回『竜そば』を見て気が付いたのは、この男は血縁の話が描きたいのではなく、実際家族の話は多いので分かりづらいが、本当は、根っこのところでは”共同体”についての話がやりたいのであって、そのありふれたパターンとして血縁関係が出力されているだけなんだと思う。一言で言えば、共同体フェチ。

特にその傾向は『時をかける少女』よりも後の作品に顕著で─『時かけ』以前は既存のIPだからか、主張という主張は目立たない。とはいえ、『デジモン』の2作は子供たちの世界を、『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』ではそれぞれの海賊団のファミリーとしてのあり方にスポット当てている点で、通底している何かはある。『時かけ』では単に主人公を中心とした人間模様のグラデーションでしか読み取ることはできないように思うが─、それぞれの共同体の例としては、『サマーウォーズ』では陣内家、『おおかみこどもの雨と雪』では田舎の人々、『バケモノの子』では渋天街に生きる獣人たち、『未来のミライ』ではくんちゃんの家族といった具合だ。そこでは、主人公とそれを包摂する共同体に対して、カリカチュアでは済ませない意図を持ったまなざしが感じられる。

また、『竜そば』との対比で考えるなら、『デジモン』の2作において子供たちの世界=インターネットとして、『サマーウォーズ』では血縁に基づく共同体としての陣内家と対になる、人間がヴァーチャルに繋がる共同体としてOZが描かれていたことは重要だ。

諸々のインタビューなどを読むと、時代が変わりインターネットで起こる問題も深刻になっているので、楽観主義が反映されていた『デジモン』や『サマーウォーズ』から、その負の性格をも切り取った『竜そば』へと、インターネットの描き方を変えている(しかし、ネット=悪とは描いていないことには注意すべきだ)、といった趣旨のことを細田守監督は言っている。だが、本当にそれだけだろうか。ステレオティピカルなモブ描写の例として今作のいじめっ子たちを挙げたが、そのいじめというのはLINEを模したメッセンジャーアプリで行われていた。他にもすずが仮想世界”U”に住まうユーザーたちから悪意のある言葉を(直接的にであれ、間接的にであれ)をかけられる場面が何度も何度も反復される。いじめっ子たちにしろUのユーザーたちにしろ、その言葉というのが、やはり如何にも悪いネット住民ですといったイメージのそれで、そりゃそういうヤツもいるだろうが、あまりにも平板かつありきたり、それこそ「踊る大捜査線」とかに出てきたような古式ゆかしいネット住民のイメージとダブるくらいで、インターネットの負の部分を描くにしろもっとやりようはあるんじゃないかと言いたくなる。しかし、そのステレオタイプさこそ、ここでは注目に値する。

事程左様に、『デジモン』や『サマーウォーズ』においてはフラットなインターネット描写が見られたわけであるが、その理由は上述のように、インターネットを共同体と見なす細田守のスタンスから生まれたものなのである。それが、『竜そば』にいたって、インターネットは冷淡なステレオタイプの範疇に片足を踏み入れ、共同体の地位を剥奪されたわけだ。とはいえ、それはなにも細田守の感性のみによって導き出されたことではないだろう。むしろ、スマホSNSが普及して以降、もはやインターネットは特別な何か=共同体として弁別可能なそれではなく、現実と地続きな人間の集合としてしか描き得ない時代だということを、するどく嗅ぎ取った監督としてのセンスの賜物である。『竜そば』は、現代にインターネット=共同体が成り立たないことを悲観するが、インターネットの中に個別の共同体の成立の契機があることを希望とする物語なのだ。

こうしてみると、細田守監督作にみられるキャラクター描写の濃淡は、その寓話的な語り口と、共同体に対する愛着の裏返しが要因に思えてくる。

とはいえ、寓話的であるからダメだというのではない。むしろ、子供、具体的にはティーンエイジャーまでに狙いを絞ったような物語を作ろうと意識しているその様は、大変好ましくもある。いつか片渕須直監督が「日本のアニメは後期思春期向けの話ばかりやっていて子供向けの作品をちゃんと作ろうとしない」「ガラパゴス化していて恥ずかしい、実際そんなだから世界の映画賞からも評価されていない」とインタビューで言っていた。この言葉にどこまでの妥当性があるかは判断しかねるが、僕としても共感できる部分はある。そうすると、世界の映画賞で評価されている細田守監督(『未来のミライ』はアカデミー賞長編アニメーション部門ノミネート、『竜とそばかすの姫』はカンヌでワールドプレミア上映)は、逆説的に、やはり子供に向けたアニメをちゃんと作ろうとしているのだと言えよう。個人的には、『バケモノの子』の前半とか、『未来のミライ』の東京駅のシークエンスとかに、子供向けをちゃんと作ってる雰囲気を感じて、とても好きだ。なんとなく懐かしい香りがする。

と言っておいてなんだが、その子供向けのお話を語ろうという意識が空回っていることもままあり、そこが細田守を推しきれない原因のひとつでもある。例えば今作では、世界に立ち向かっていく子供たちというジュブナイル感の演出をしたいがために、児童虐待の現場に女子高生が一人で(夜行バスで四国から東京まで)乗り込む(それも単に暴走してるんじゃなくまわりの大人がそれを後押しして送り出し!)というちょっと倫理的にアウトな展開や、虐待にあっている児童が主人公の行動に影響を受けて前向きにこれからの人生を歩んでいくというこれもやっぱり道徳的にアウトな決着が繰り広げられる。言わずもがな虐待は、虐待にあっている子供の頑張りや心持ちでどうこうするものであっていいはずがないし、そうすることを美談として語ってしまうのは、クリエイターとしてどうかは知らんが、いち大人としてあまりに無責任だろう。

なんだか細田守の評価が二転三転するようなことを延々と書いていても仕方がないのでこのあたりで終わらせようと思うが、結局お前は細田守を好きなのか嫌いなのかと問われれば、どの作品も今回のブログのタイトルみたいな気持ちで見ているというのが僕の答えです。