日記⑥

再開

 

8/9

引っ越しをするにあたり意識を高めるためNetflixで『KONMARI~人生がときめく片づけの魔法』を見始めたんだけど、思いのほか発見がある。

まず、Twitterなどで揶揄されているようなこんまり像がほとんどでたらめというか、”断捨離”や”夫のプラモデル(あるいはその他オタク趣味)を勝手に捨てる妻”みたいなざっくりしたネガティブなお片付けする/させてくる人イメージを勝手に当てはめて、なんだか気に食わない人=叩いていいものとしているだけなのが分かった。

こんまりの言っていることは基本的に「ときめくものを取っておきましょう」─ときめかないものは捨てましょう、ではない点は重要─だけであって、またメソッドを伝授した依頼人に片づけを全て任せているし、押しつけがましいところはないと言って差し支えないだろう。語り草になっている「ぬいぐるみは目を隠せば心理的な抵抗がなくなり捨てられる」というメソッドだって、どうしても捨てたいけど捨てられない人に紹介している方法に過ぎないし、「情を殺して捨てまくれ」てな話ではない。もちろん、スピリチュアルっぽさとか、あまり入れ込みすぎると厄介だなと思わせる部分もあるのだが。

とはいえ、僕はこんまりについて広く調べたわけでもなく、単に『KONMARI~人生がときめく片づけの魔法』を見て、ある雑感が湧いたというだけの話だ。それが何かというと、なぜこれほどアメリカでこんまり人気があるのかについての納得である。

個人的な感覚に過ぎないかもしれないが、アメリカにおけるこんまり人気は日本のそれを大きく上回っているように見えるし、やっぱりそれは彼女のスピリチュアルっぽさがZEN的な、東洋の神秘的な感じで受容され、ウケているのだと早合点していた。しかし、同ドキュメンタリーを見ていると、いや、これはむしろ、こんまりメソッドがはじめからアメリカ的なエッセンスを備えていたのだと思えてくる。少なくとも、そうしたマーケティングがなされていることは確かだ。そして、そのアメリカ的なエッセンスとは、恐らくプラグマティズムだろう。

実際、こんまりは「いい部屋とはこういう部屋だ」とか「できるだけモノを少なくしよう」とか、そういった観念的なことは言わない。あくまで、ときめく片づけの技法を説くだけである。そして、このドキュメンタリーは、その片づけを通して顕現するものをこそ映しとろうと努めている。それぞれのエピソードに出演する依頼人たちの、部屋が片付いていくことにではなく、部屋を片付けていくことに喜びを感じている様は、それをよく表している。家に溢れ返ったモノを一ヶ所に集め、そのひとつひとつを手に取り、自分にとってときめくか─必要とも大切とも違う、しかし自身への確かな有用さとしてのときめき─どうかを判断する過程。その中で自分の人生や生活、家族との関係を見つめなおすことに、このドキュメンタリーの主題はあるのだ。また、その個人的なストーリーは、社会性を帯びてもいる。具体的には、大量消費社会の問題であり、家庭における性別役割分業の問題であり、子育て・教育の問題であり、等々。

片づけという実践から得られるもの通して自己に対する理解を深めること。その自己を覆い隠していた社会への批評を通してアメリカの生を問い直すこと。事程左様に同ドキュメンタリーは、プラグマティックな営みとしての片づけを視聴者に投げかけるものだ。

もっとも、こんまり受容の日米における差異とか仰々しく言うほどのこともなく、単に日本の家が狭い上にアメリカほど消費主義が猛威を振るっていないから、というだけかもしれない。このドキュメンタリーは恐らく一般的な中流階級の家庭を舞台にしているけれども(まだ全話見ていないので確証はない)、普通の家でもかなりの広さだし、そこにバカみたいな量の服やら靴やらが詰め込まれている様は中々壮観だ。とはいえ、今日日ヘンリー・デイヴィッド・ソローよろしく、「簡素に賢く暮らせ、所有物は重荷だ」といって、最低限の家に最低限の所持品を求めるのは、すこしリアリティに欠ける。すると、持たないことではなく(ときめくものを)持つことを説くこんまりの哲学は、資本主義とうまく折り合いをつけたいアメリカ人にとってぴったりなのかもしれない。

 

8/10

『返校 言葉が消えた日』を見た。事前に予想していたよりも、全体主義の恐怖がホラー的想像力に接続するような演出が少なく、もっと言えば、怪奇映画のテイストを期待して劇場へ向かった自分としては、舌が違ったというか、まあゲームの方をやっていないのでなんとも言えないけど。では、この映画のジャンルが何かと言えば、「心霊映画」というのが相応しいように思う。幽霊はなぜいつも女の姿をしているのか。と、問いを投げかければ、様々な回答が得られるだろう。ともかくも、幽霊は女の姿をしているし、この物語は少女(ファン・レイシン)が幽霊となる過程を克明に描いている。少女の時を止め幽霊に縛り付けたのは全体主義だったわけだが、その恐ろしさをドラマ的にだけでなく、ホラー的に見せてくれたらもっと良かったとは思うが。

 

8/11

発狂。

 

8/12

オルダス・ハクスリー『知覚の扉』は、フェルメールの静謐さの正体を突き止めているという一点だけでも読む意味があった。僕は美術史にそう明るいわけではないが、何故か昔からフェルメールが好きで、確かな実在感とはうらはらの、あの静けさと透き通った空気から郷愁めいたものを覚える筆致に惹かれてやまない。それは、カメラ・オブスキュラを用いた故の写実性とか、技術的な部分によるところもあるのかもしれない。しかし、フェルメールの持つ静謐で透明な実在感は、ハクスリーに言わせれば「<仏法>即ち生垣」であり、彼岸─ありのままの宇宙に遍在するもの自体の美しさへと接近する「非自我」の質感なのだろう。

 

8/13

『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』見た。『GotG』シリーズと同様、やはり疑似家族の話に収斂していくジェームズ・ガン

主要キャラクターが交流を深めるのに比例して各々のキュートさも際立つ(天使の子猫ちゃんみたいな名前のクラブで遊ぶシーンが最高)半面、ただそのバイブスが楽しいだけにとどまらず、しかしこれは”スーサイド・スクワッド”で、つまり最後まで誰が生き残れるのか保証はないんだよな……、というサスペンスがにも活きてくるあたりが周到。つらい。

この映画、登場人物のほとんどがどうしようもない人間─スクワッドの面々は言うに及ばず、アメリカ政府の人間も、舞台となる架空の中南米の島国の人間も─だが、ソイツらが”正義”のために何かを為そうとするとき、決まって口に出すセリフが「子どもを殺すなんて見過ごせない」。何度も何度も繰り返されるセリフの、そのバカバカしいまでのわざとらしさは確かにギャグなんだけど、一方でこの映画を貫く揺るぎないヒューマニズムの象徴でもあって、最後にはちゃんと感動させられる。

『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』はスーサイド・スクワッド映画史上の最高傑作。今すぐ『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』を見ろ。

ただ、ジェームズ・ガン印の疑似家族ムービーであるため、ハーレイ・クインのオブザーバー参加感は否めず、彼女がいなくても成り立つ話にはなっている─実際、劇中のほとんどを通して、本命スクワッド/捨て駒スクワッドの中で生き残ったハーレイの二つのプロットが並行して描かれる─点で、惜しさを感じないかと言えば嘘になる。とはいえ、ハーレイにもビジュアル的に最高な見せ場が容易されているので、バランスはよくできている。

 

8/14

ひっさしぶりに中野ブロードウェイに行って、もっと何かあるだろうと思ってたんだけど、マイ・リトル・ポニーのおもちゃなりぬいぐるみなりを置いている店がほとんどない。数年前に巡った原宿でもそうだったんだけど、あるとしたらレトロでアンティークなデザインのおしゃかわグッズとしてであって、G4(最新シリーズ、少なくともあと1カ月の間は)のそれはほとんどない。

 

8/15

部屋の片づけをしていて発掘した『PSYREN─サイレン─』を読んでたら一日が終わった。みんなもうゼロ年代のジャンプの話だけをして今後の人生を過ごさないか?もうゼロ年代のジャンプの話だけをして今後の人生を過ごしたい人は僕にメールをください。