日記①

6/25

オッサンになるというと、文字通りだんだんと「成る」ものだと思っていたんだけど、むしろその進歩のなさ故に精神の輪郭がオッサンへと定まっていくんだというのが実感として分かってきた。

つまり、自分が変化してオッサンになっていくのではなく、社会や身の回りが変化していくのに対し自分が変化をしないことで、自然と古臭い趣味(ここでいう趣味というのはハビトゥスであって、価値観から言葉遣いなどを含んだ体系のこと)の人間が浮上してくるというか。それは当たり前といえば当たり前なんだけど。古い頭、守旧的な価値観ってことは変化してないってことだし。

ただ、ユース・カルチャーの普及、定着以降のそれって残酷だなと思うのは、若い趣味のままオッサン化していくところ。もちろん当の”若い趣味”は時代と共に古臭くなっていくんだけど、しかし決定的に若い趣味でしかなくて。一言でいえば、幼稚なオッサンの正体、になる。

ハイカルチャーはクラシックであるから、昔のものであっても古びない価値を持っている(もちろんそれは本質的な価値ではなく、言うまでもなく社会的に構築されたそれであるが)。対してサブカルチャーは(ハイに対する)カウンターであるが故に絶えず更新を強いられ、価値そのものが古びてしまう。いつの時代もクラシック音楽を嗜む趣味人はいるが、今日日テレビの懐メロ番組で歌謡曲に聴き入るのはオッサンオバサンだけである。

まあ音楽の趣味であれば個人の好き好きじゃんでいいと思うんだけど、”趣味(=ハビトゥス)”総体においてそれが顕著だと、すこし痛々しくて見ていられない。自戒を込めて。

 

6/26

無職になってからコンビニに行く回数が増えた気がする。コンビニで何を買うかと言えば、だいたいはお菓子とコーラ(最近ペプシにハマっている。コカ・コーラと違って飲んだ後歯がキシキシしない気がする。)くらい。

「コンビニは都会のオアシスだ」なんて常套句もあるが、なるほど確かにオアシスかもしれない。どういう点でオアシスかといえば、簡単に贈与のシステムに参加することができるところだ。すると、人間関係のほとんど途絶えている無職からすれば、フラっと意味もなくコンビニに寄って、贈与の体系の中に身を置くことで、お手軽に社会的な存在である自分を繋ぎとめることができると無意識的に気が付いているのかもしれない。

 

6/27

漫画も映画も好きだけど、「その作品からどのような影響を受けましたか?」みたいな質問をされると、前者のほうが圧倒的に答えづらい。個人的な感覚なのかなと思ってたら、意外とそう思う人もいるっぽい。「漫画で人生変わったって言われてもなあ」という感覚、別に漫画のほうが低俗だからとか、そういう話ではなく。

雑観としては、漫画はクールなメディアであって、映画はホットなメディアである点が、そうした感覚の原因なのかもしれない。(メディア論の本を読みなおしていて気が付いた)

 

6/28

『ベイブ』は吹替で見た方が面白い。逆に言えば、字幕で見てもあまりメリットらしきものを感じられない。全体的にセリフが少なく(ちゃんと動物の表情で見せる演出が多いからか)、そのセリフも動物に役者が声を当てている分、演技がかっているので、そうなるといっそ吹替のほうが声優の演技の味があっていいという結論。

まじめに不真面目というよりも、不真面目にまじめな『ビーチ・バム』

『ビーチ・バム まじめに不真面目』の悲劇は、あまりにもぴったりな副題を与えられてしまったことだろう。「まじめに不真面目」。本作の日本公開に合わせて著名人から寄せられたコメントたち*1は、それを雄弁に物語っている。

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コメント①

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コメント②

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コメント③


まじめそうな名前の数々が、なるほどまじめで素晴らしいコメントを寄せていて、なんだか頭が痛くなってくる。不真面目で軽薄な、それゆえに深みをたたえた(と言っていいだろう、事実コメントを寄せている彼ら彼女らの見解は、突き詰めればそういうことだ)この映画は、そうして語られれば語られるほど、なんだか深刻さばかりが際立ってくる。


では実際どういったストーリーなのかといえば、マシュー・マコノヒー演じる詩人ムーンドッグが、ひたすらにドラッグをキメて女と遊んで友達とダべってぶらぶらして詩を書いてという、それだけの話だ。もちろん、本作を特別たらしめている部分もあって、物語を駆動させる起点であるムーンドッグの妻の死が、彼が自堕落な人生を振り返り、更生するきっかけに…………はならないところである。彼の妻は、自由人であるムーンドッグを愛してはいるのだが、あまり勝手気ままに生きて詩を書いてくれないのは困るということで、ムーンドッグに対しては「詩集の出版」を遺産分与の条件としていたのだった。そう聞くと、詩集を創る過程での成長を描くというのがいかにもよくある筋立てだが、この映画では、妻の死を経てもムーンドッグは自由人としてふるまい続ける。そして、あくまで自由人で在り続けるが故に詩を紡ぐことのできる彼の姿から、我々はこの物語に、他の映画とは異なる豊かさを感じることになる。のだろう。

 

しかし、この深刻さはなんだろう。不真面目を、それほどまじめに語らなければならないのだろうか。不真面目であるためのまじめか。まじめであるための不真面目か。それは、この映画を取り巻く言説に限ったことではなく、まさにこの映画それ自体に内在する問いでもある。例えば、『ビーチ・バム』で描かれる反規範的生活が、常に規範によって支えられていることからも見て取れるように。また、そこにこそ、この映画の評者たちが、不真面目の意味を(強迫神経症的に)まじめで埋めていくことに取り憑かれている一因があるのだが。

ムーンドッグは自由人として、方々をぶらつきながらマリファナを吸い、そこで出会った女たちと遊び、友人たちと言葉を交わす。そうした生活を可能ならしめていたのは、資産家の妻がいてこそであった。ここに、当たり前の真実が頭をもたげる。金がなければ、遊び暮らすことなどできないという真実だ。

すると、あなたはツッコミたくなる。「遊び暮らすだなんてとんでもない。ムーンドッグは優れた詩人だ。彼の遊びは詩作の栄養となる精神的活動なのだ。そう言ったのは君じゃないか。」たしかに、その通りだろう。ここで確認ができるのは、彼の遊び─自由で、反規範的な─が、詩作に奉仕するという、生産性の原理において光り輝く事実である。もちろん、彼にとって詩作もまた遊びであり、そうした原理には拘束されない自由人なのであると考えることも依然可能だ。しかし、彼を仰ぎ見る観客(スクリーンの外側の)の、聴衆や読者(スクリーンの内側の)の反応はどうだろうか。その点を端的に示すのは、ついに詩集を完成させたムーンドッグがピューリッツァー賞(!)を受賞するという一幕である。なぜ彼は訪れる先々で優れた詩人として遇されなければならないのか、なぜ彼はピューリッツァー賞を授けられなければならないのか。なぜ自由人は崇高でなければならないのか!
(また、彼の自由でファンキーな放浪を可能ならしめる最も大きな要素に、ホワイトネスを付け加えることも、忘れてはならない。もしムーンドッグが黒人であれば、すぐに逮捕されて、この物語は成立を見ないだろう)

 

これまで見てきたように、この映画で描かれる主人公の反規範的な生活は、むしろ規範─金─生産性─ピューリッツァー賞(─ホワイトネス)の原理によって支えられている。規範的でないということが、規範の内側において実現されている。規範と反規範の共犯関係。それに気が付いたとき、この映画に対して覚えるのは、規範からは逃れ得ない反規範の徒労感である。そして、上述のコメントたちは、その再生産に映る。全く規範から逃れているものではない、規範の存在に依存した反規範と同様に、一切のまじめを振るい落としたそれではない、まじめの上に立脚した不真面目。

その白々しさを象徴するのは、終盤ムーンドッグが妻から相続した数億ドルの遺産を船に積み込み、花火で景気よく燃やしてしまうシーンである。「俺は札束を燃やしちゃうぜ」なんてキャラクターの表現がクリシェであるのは言うまでもないのだが、ここで問いたいのはその無意味さだ。当然、この無意味とは、全く意味を欠いた、ぽっかりと空いた穴のようなそれではない。意味をはねつけ無意味な行動をとること=権威への反抗といったように、意味によって埋められた、カタチだけの無意味だ。実際、札束を燃やすイメージがクリシェと化している事実は、それが資本主義社会になんら影響を与え得ない、ガス抜きのパフォーマンスである─つまり、意味に調教された無意味である。また、ガス抜きの役割を果たしている点で、資本主義社会へ奉仕しているとさえ考えられるだろう─ことを示している。ちょうど、この映画がそうであるように。

であればこそ、本作にまとわりついた深刻なムードの正体が明らかにできる。意味に根を張った無意味の、規範に根を張った反規範の、まじめに根を張った不真面目の、その深々と張り巡らされたシステムの表象に他ならない。ここにひとつの逆転が現れる。「まじめに不真面目」を謳う本作が、実のところ「不真面目にまじめ」であるという倒錯である。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見て、なぜこんなにも動揺させられるのか。感動だとか好きだとか、あるいは庵野に対する関心だとか、そういった感情とは異なる、動揺。

 そもそも、『シンエヴァ』は僕の好きなある種の物語の類型に、とてもよく似ている。その点では、僕がこのエヴァンゲリオンシリーズの完結作を気に入るのも当然なのだが、しかし、そういった種の映画を見てこれほど動揺した経験もなかった。それらの映画というのは、『ソウルフル・ワールド』や『素晴らしき哉、人生!』、『ベルリン・天使の詩』、『魂のゆくえ』、『海獣の子供』、etc(Filmarksの記録から目に付いたものをピックアップしただけで、特に選出の意図はありません)。このどれもに共通するのが、広い意味での「人生賛歌」や「生命賛歌」といったテーマだろう。そうした素朴なテーマは時として嘘くさく、はりぼてのような理想論として目に映りがちではある。一方で、我々が生きていく上で必要な希望であることも確かだ。この辛く厳しい現実の裏側にある、人生の素晴らしさを掴みかける瞬間のかけがえのなさこそ、人間が世界に踏みとどまっていられる理由なのだ。

 では、エヴァシリーズにおいて、そうした人生賛歌が新劇場版の専売特許かというとそんなことはなく、むしろ、旧劇場版から一貫して訴えてきたところでもある。『 Air/まごころを、君に』のシリアスで一見不可解なラストと、『シンエヴァ』の爽やかで解放感のあるラストのコントラスト。しかし、どちらも人類補完計画を否定し、他者の理解不可能性を受け入れながら、ありのままの現実を生きていくことをシンジが選択する点では、同一のエンディングだと言えるだろう。もちろん両者に差異がないわけではないが。というよりも、その微妙な差こそ、ここで語りたい本題になる。

 今年に入って、『シンエヴァ』に備え、TV版と旧劇場版を復習した。中学生のころ以来なので、10年ぶりくらいだ。この間、なんとなくエヴァの話を分かったつもりでいたのだが、『 Air/まごころを、君に』を改めて見て、自分にとってここまでアクチュアル(上述のようなテーマを描いている点で)な内容だったのかと驚いた。そうして無事、僕の頭の中のアニメの殿堂においてエヴァ復権を果たし、揺るぎない地位を手にしたのである。……何が言いたいのかというと、旧シリーズがストレートに今の自分の自意識と繋がるものであったのに対し、新劇にはそうした自意識の真相にある核心を否が応にも意識させられる部分があったのだ。ならば、ほとんど同様の着地を描く両作の、その感触を分ける微妙な差異とはなにか。

 単刀直入に言えば、旧シリーズがシンジが「世界から祝福されて終わる」物語である一方、新劇はシンジが「世界を祝福して終わる」物語なのだ。旧シリーズでは、TV版最終話に表れているように、文字通りに「おめでとう」と言祝がれることで物語は幕を閉じる。対する『シンエヴァ』においては、シンジ自らが他のキャラクターたちに手を差し伸べて救い上げ、「さようなら」と労いの言葉をかけることで、終幕へ向かう。(それを念頭に置くと、『 Air/まごころを、君に』における「だったら僕に優しくしてよ」と『シンエヴァ』における「なんでみんな僕に優しくするんだよ」の対比が、それぞれ世界から祝福されていることに気が付く前振りと世界を祝福し返すことへの伏線であることがよく分かる)

 なぜその差異が自分の中でここまで大きく感触を分けるのか。いったん話を戻せば、僕が上で挙げたような映画群を好む理由というのが、結局のところ、世界は美しいし、そうした世界に生まれた自分は祝福されているのだと認めたいからなのだ。埋められない喪失感を抱えた現実を前にして、それでも認めたいからこそ、半ば強迫神経症的に、そういった物語を通して確かめることを、繰り返さずにはいられないのだ。他者と溶け合った宇宙の中にあって「おめでとう」の輪唱に囲まれたシンジ、あるいはメタ的に言えば自身の自我を投影したキャラクターにそう声をかける庵野、というのが、そうした自分と寸分違わぬことに気が付かされた恐怖。しかし、そう僕に気が付かせたのは旧劇ではなく、『シンエヴァ』だった。旧劇を見終えた時点では、この物語が自分のフェティッシュにそぐうものであるとしか思わなかった。それが『シンエヴァ』を見たことで、その僅かな差異の対比の中に、ああ、究極的には、僕はそっち側にいきたい、つまり、世界を祝福できるようになりたいのだなと、心に横たわっていたわだかまりの正体が理解できた。世界は自分を祝福しているはずなんだと己に言い聞かし、なんとか前へ進もうとする僕と旧シリーズのオーバーラップ。その祝福を受け止め、逆に、自分から世界へ祝福を返す『シンエヴァ』。

 本作を「大人になる」とか「生活をやる」、「居場所を見つける」といった視点から語る人の多いことは必然であろう。一方で、そうした視点から見れば、粗やツッコミどころ、承服しがたい部分の多い作品であり、評価が分かれるのも頷ける。しかし、最終的に庵野の、エヴァの立った場所が「世界を祝福すること」であり、そうした視点というのがそこへ辿り着くまでの過程であると思えば、意外にも旧シリーズから一直線に筋の通った物語であることが理解できるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

俺も世界を祝福したい。

マリ、俺を助けてくれ。

『花束みたいな恋をした』ことはないけれど。

 『花束みたいな恋をした』ことはないけれど、”クソみたいな労働をした”ことはある存在としての我々。しかし、驚くなかれ。『花束みたいな恋をした』は、予告編やタイトルから(恐らく多くの人が)想像するイメージに反し、そうした我々にとってこそ、目を逸らしがたい確かな引力を感じずにはいられない映画である。

 そもそも、なぜ「我々」なのか。『花束みたいな恋をした』を見て、ある感触を抱かずにはいられない「我々」と、そうではない者達。では、この場合の「我々」ならざる者とは?

 恥ずかしながら、映画の感想を考えるにあたって、多くの場合、自分とは感触を異にする人の感想に対するカウンターから思考を整理していく癖が僕にはあり、あまりよくないよなとは思うのだが、今の自分には、この怒りともつかない燃え上がるような感覚の失われていないことが、まだ俺は大丈夫だという安心材料というか、カナリアのように感じられることがある。ともかくとして、今回におけるそれは、

open.spotify.com

このアトロクのポッドキャストで、それぞれ意見は違えど前提として共有されてはいる、ある認識に対する憤りである。

 

youtu.be

 そもそも、『花束みたいな恋をした』はどういったストーリーか。予告を見れば分かるように、所謂「サブカル」趣味同士の男女がその趣味の一致から距離を詰めていき、ゆくゆくはカップルとして幸福な同棲生活を送るというラブストーリーが主軸となっている。しかし、予告においても示唆されるように、本作の要はむしろ、同棲の開始からしばらくしての転調、破局に至るまでの模様にある。そして、その転調に対する直接的な要因こそ、クソみたいな労働と、それを仕向ける社会(こちらの方は、さほど、突っ込んで描かれないが)に他ならない。

 ここで「いや、違うよ」と暢気に言いやがるのが、上述のアトロククルーの連中である。彼らに言わせれば、労働が重要なのではなく、時の流れがそうさせるのであり、それによる関係性の変化は普遍的なことなのであるそうだ。この一見穏当な正論は、しかし、麦が労働によって調教されていく様をあまりにも軽視した、毒にも薬にもならない一般論に過ぎない。「好きなことを仕事にできなくても趣味を捨てなきゃいけないわけじゃない」「働きながらアーティスト活動をしている人だってたくさんいる」「今なら片手間でYouTuberだってやれる」という驚くべき感想の数々はそれを如実に表している。もちろん、好きなことを仕事にできなかったことが、麦に変化が訪れるトリガーなのではない。趣味を続けられ得ない自己に彼を調教した労働に問題の根幹がある。

 実際、劇中の麦の働き方を見ればそれは明白だ。二言三言の会話を交わすのすら億劫なほど朝早くから家を発ち、遅くに帰ってきて食べるのはカップ麺。寝るまでは持ち帰りの仕事をやり、あるいは泊まり込みで残業をすることもある。クライアントの都合があるからと、自分の好きなタイミングで休みをとれるわけもない。そのような生活の中で本の一冊を読むことが、映画の一本を見ることが、どれほど根気を必要とする作業だろう。単純な時間的余裕の不足、疲労故の精神的余裕の不足。それを象徴するのが、(映画や漫画や小説が好きであったはずの)麦が横になりながら虚無感たっぷりに遊んでみせるパズドラである(インターネットのオミットされた10年代を映す本作では影もなかったが、今どきの多くの若者にとっての「パズドラ」はSNSである場合が多いように思う)。

 具体的にイメージしてもらうために、僕の生活サイクルを例に出そう。朝6時に起床。朝食や身嗜みを整えるなどすれば家を出る時間、7時だ。1時間弱かけ通勤し、8時半に仕事が始まる。12時から1時間の昼食を挟んで、定時が17時半。定時には帰れず、平均して2時間の残業がある。19時半に職場を出ると、また1時間弱かけ帰宅し、家に着くのは21時前だ。帰ってまずは風呂に入り、その後に夕食を食べるのだが、これらが済んだ段階で大体22時15分ほど。就寝時間は24時が目標なので、余暇に充てられる時間は1時間半ほどしかない。単純に考えれば、映画の一本も見られない。そして、6時から起動している故の睡魔と、疲労感。そのような状況では多少漫画を読んだり、Youtubeを見るので精一杯だ。就寝目標は24時だが、元来の寝付きの悪さや、細々としたタスクの積み重なりで予定を外れ、寝入るのはいつも24時半ほど。睡眠時間は5時間半が平均となる。

 こういった生活を続けていれば自ずと精神は摩耗していき、(時間的余裕のなさは大前提としても)、趣味にさえ手をつけるのが億劫となっていく。ここにおいて、「働きながら〇〇をすれば」だの「好きなことを仕事にできないからって」だのいった月並みな感想がどれほど無意味なものか、理解できるだろう。しかし、(「残業がなければいいのか」や「通勤時間を短くすれば」、「休日に〇〇すればいい」、あるいは「それでも頑張って好きなことをしている人はいる」といった、ありふれた反論を予想するなら)、ここで重要なのは何よりも、精神が摩耗していくことの意味、加えてそれが労働に本質的な特徴であることを、指摘しなければならない。

 自らの身体を唯一の資本として、我々は労働に駆り立てられる。この、高度に発達した資本主義社会における、資本の円滑な増殖に奉仕させられる歯車として。歯車というのは、しかし陳腐な例えであるが、我々は単に歯車であるだけではない。自分自身をメンテナンスするとても特別な歯車だ。思い返してみれば、我々に許された自由な時間──出勤前・昼休み・退勤後とは、本当に「自由な時間」だろうか。そこにあるのは、単なるセルフメンテナンスの営みに過ぎないのではないか。食事は体力を蓄えるための、睡眠は体力を回復するための、また趣味は憂さ晴らしをするための───。ここでふと思い出すのは、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の序盤、主人公(レオナルド・ディカプリオ)の運命を変えることになるエキセントリックな上司(マシュー・マコノヒー)のとあるセリフだ。彼は新米の主人公に、株屋として長続きする秘訣を説く。曰く、「1日に2回はマスをかけ。そうしたいからではない、膨大な数字に囲まれておかしくなってしまわないよう、リラックスして、バランスを保つために」。至極プライベートな領域である性にまつわることが、労働のための贄として差し出される瞬間。しかし、我々を取り囲む広告をひとたび見てみれば、リラックスやリフレッシュといった枕詞とともにいかに多くの趣味が手招きしていることだろうか。彼は冗談を言っているのではないのだ。好きでやっているはずの趣味でさえ、労働の供物として取り込まれていく、その再帰的無能感。精神の摩耗、諦念の正体。ここにマルクスのテクストを引用しよう。

賃金労働の平均価格は、労働賃金の最低限度のものである、すなわち、労働者が労働者として生命を維持していくのに欠くことのできない生活手段の総計だけである。

マルクス・エンゲルス(1951)『共産党宣言岩波文庫、大内・向坂訳、65頁)

 ここで問題とされている「賃金」は「時間」と読み替え可能だろう。事程左様に、我々に与えられる時間は、生命を維持していくのに欠くことのできない生活上の営み─食事、睡眠、せいぜい発狂を避け得る程度の余暇、に割くそれだけである。

申し訳程度に『花束みたいな恋をした』の話をすれば、劇中における食事のシーンからも同様の読み解きができることを指摘しておこう。麦と絹がまだ同棲を始める前、麦のアパートで二人で食べる素麺(それも夜食にも関わらず律義に氷を添えた)の温かさと、残業帰りの麦が絹とは離れたテーブルで一人啜るカップ麺の味気無さの対比。その味気無さの正体とは、言わずもがな、次なる労働に備えてカロリーを摂取するための食事の味気無さである。

 では、こうした労働に身を置きながら日々変貌を遂げていく麦を目にして、アトロククルーたちが上述のような感想を抱いたのはどうしてだろう。それを考える上で、もう一度確認したいのは、ここまで僕が問題にしているのが単に労働作業の辛さだとか、単に労働時間の長さだとかではなく、労働時間外の自由な営みさえも労働に奉仕するためのセルフメンテナンスへと意味を書き換えられていくことの再帰的無能感である、ということだ。そして、なぜ彼らは、そうした発想と無縁でいられるのか。

 昨年に公開・配信されたピクサーの最新作『ソウルフル・ワールド』は、「生まれる(生きる)意味」をテーマにした壮大な作品ながら、実験的なアニメーションとニューヨークの片隅に生きる主人公のミクロな人生にフォーカスした内容故に、ごく私的な味わいのある映画だ。この作品において繰り返されるキーワードが”スパーク”。なぜ我々は生まれ、そして生きているのか。日々の生活の中の些細な一瞬──ピアノの弦の弾ける音を聴いた、風に吹かれた落ち葉が舞うのを目にした、その一瞬に心に生ずる”スパーク”(ときめき、きらめき)が私たちを生かしているのだ。それが本作の訴えるところである。

 翻って我々の生活を見てみると、まずは円滑に機能する歯車として存在することを求められる労働と、そうした労働へ備えたメンテナンスを求められる余暇がある。その円環の中で絶えず刷り込まれる再帰的無能感。それらがもたらすメランコリー。このような日々の中で、僕らは”スパーク”を失っていくわけだ。

 逆に言えば、平然と「空いた時間で〇〇でもすればいいじゃないか」と言ってのける人たちというのは、”スパーク”を失っていないことが分かる。労働によって、またその労働に飼い慣らされた余暇によって”スパーク”が失われていくのなら、話は早い。”スパーク”の失われないような、むしろ”スパーク”の拾い上げやすい仕事へと就くべきなのだ。実際のところ、彼らの職業を見てみればいい。ミュージシャン、ライター、ラジオ番組のディレクター、映画会社勤務、編集者、etc…。これまた「好きなことを仕事にして辛いことだってある」と、月並みなセリフが上記のポッドキャストで飛び出していたが、 やはり的を外した意見だ。ここにおいて重要なのは、”スパーク”を身近に感じられる仕事とそうでない仕事というのが、明らかに存在している点である。

 これまで書き連ねてきたことを換言しよう。下部構造が上部構造を規定するように、労働の様式が思考の様式を規定する。”スパーク”の取り上げられた仕事に身を委ねるうち、そうした仕事へと従属させられる余暇もまた色褪せて感じられるように。仕事の中で生まれた”スパーク”を活力に、余暇を充実させていくように。生活の在り様が精神の枷となる。「〇〇をすればいい」のではなく「〇〇と考える」ことが(少なくともリアリティの次元において)不可能となっていく。

 しかし、労働のもたらす再帰的無能感は、そうして規定された上部構造そのものというよりむしろ、言わば「学生」の思考の様式と「社会人」の労働の様式との矛盾の中で生ずる闘争といったほうが相応しいだろう。この闘争を経ることにより、人生に折り合いをつけ、「大人」になっていく。大人になっていくこととはつまり、「社会人」の思考様式を手に入れることであり、こうして革命の火は静まり、お前らは言う。「だって仕事だから仕方がないよ」。それがことの次第というわけだ。

 最後に再び『花束みたいな恋をした』劇中の話に戻ろう。「学生」の麦を象徴する食べ物が素麺だとするなら、闘争の段階を象徴する食べ物はカップ麺であった。では当然、「社会人」の麦を象徴する食べ物も登場するはずだ。麦が絹と別れた後、一人暮らしをしているマンションの部屋で食べていたパスタがそれに当たる。ちゃんとした社会人はカップ麺を啜って夕食とすることを良しとしない。仕事と折り合いをつけ、家に帰ってきてから少し手の込んだパスタを自炊するくらいの、大人の余裕。

 果たしてそれが成長なのだろうか。誰しもがいずれそうなる時の必然なのだろうか。あるいは、身体の(やがては精神の)規律化からは逃れられないのだろうか。今の僕にはまだ分かりません。

 

 

 

Fuck Swag-i ___寸借詐欺には気を付けよう。

タイトルの通り。それ以上でも以下でもない話。

 

よく、「自分は詐欺に引っかからないと高を括っている人ほど詐欺に引っかかりやすい」という話を聞く。その意味で言えば、僕は特段「自分は絶対に引っかからないね」と自信を持っていたわけではないように思う。と言っても、心の底では、多少そう思っていたのかもしれない。まあ、もう既に起こってしまったことだし、今となっては引っかかる以前の自分はこの世に存在しない。この世に存在しないもののことなど、思い出せない。ひとつ言えるのは、自分がそれほど詐欺に対して無知だったわけではなく、しかし、それほどに平常から疑り深さを発揮できる鋭さを備えていたわけでもないということ。

そうすると、なぜ今日の僕は寸借詐欺に引っかかってしまったのか、曖昧で混乱した思考の線を辿り、事件に至るまでを俯瞰して思い起こすことは、なにか推理ゲームをしているようで面白くもある。また、僕の自分の頭の中を整理することは、ナラティブセラピー的な意味で精神衛生にもいいことだし、なにより警察に駆け込んだ時、(といっても寸借詐欺では警察は取り合ってくれないようだけど、)当日に記した日記としてこのブログが何かの意味を成すこともあるかもしれない。あるいは、何かのきっかけでこれを読んだ人が詐欺に気を付けてくれたり、もしくは、同様の手口の詐欺に遭った人に対する何かの慰めになるかもしれない。そういった目的で、今日1日と、これまでの人生の中でリンクする出来事をまとめていきたい。

 

まず、そもそもであるが、精神状態が不安定な時ほど、冷静な思考ができないということを改めて痛感させられた。「詐欺に引っかかりやすいか否か」の話とも関係するエピソードだけど、自分は3、4年ほど前に一度、詐欺に「引っかかりかけた」ことがある。その当時は再々々履修がかかった語学の授業や演習系の授業をいくつも取っていた上に、ゼミで進級のための論文を書いていたこともあり、非常に忙しく、他のことを考える余裕がこれっぽっちもなかった。そんな時、スマホAmazonから「支払いが滞っている」旨を伝えるショートメッセージが届いた。なぜメールアドレスを登録しているAmazonからショートメッセージが?今考えれば、一目瞭然である。しかし、恥ずかしながら学生ローンを借りたり、リボの返済額をアレコレいじっては時々クレカの支払いを滞らせていた当時の、それも上述のように課題に追われていた自分にとって、判断を鈍らせるには充分だったようだ。

「とりあえず電話をかけてみよう」僕の下した選択は、思考の放棄だった。呼び出し音が鳴る。電話に出たアンちゃんは、こう言った。「お客様、カリビアンコムというサイトを閲覧されていますよね?その料金が…」もちろん、全て聞くまでもなく、カリビ…と聞こえた時点で察した。あとはもう、如何に適当なかたちで電話を切るかということしか考えていなかった。「払う」と言えば、嘘でも言質というか、法的な何かが発生するかもと思い、「払わない」と言えば、面倒な反応が予想される。「あ~、ちょっと考えときます」と返して、会話を終わらせた。

すごい下らないことだけど、やっぱり参っていると思考は狂わされるのだ。しかし、そのまま「カリビアンコム」にノセられるほど、愚かなわけでもない。といったくらいの、僕の”詐欺感度”を示すエピソードである。

 

そこで、今日の話に戻る。僕は2週間ほど前から片方の耳が聞こえづらく、病院に通っている。その病院は先週はじめて伺った場所で、申し訳ないけど、診断が少しどうなのかなという部分がある。前回診断された病気と若干症状が違うように感じるところがあり、今回はそこら辺を聞いてみたかった。のだけど、流れ作業的に診察を済まされたり、なんの説明もされずに急に鼻に鉄の棒を突っ込まれたり、あまりに雑に扱われていることに面食らってしまった。挙句の果てには、僕の質問しようとしていたことを遮り、「はいはい、もういいですから、じゃあお大事に」といった具合で追い出されるようなかたちになってしまった。

自分でも不思議なんだけど、これが殊の外こたえた。言ってしまえば、正直そんなに大したことでもないのに、なぜか心がひどくどんよりとして、歩くのも億劫になってしまった。何か溜まっていたストレスとも関係しているのかもしれない。ともかく、そうして近場のマックに駆け込み、コーヒーを飲みながら本を読んで、気を紛らわしながら1時間半ほどを過ごした。

そうすると少し落ち着いてきたのか、わざわざ外出したんだし、マックからすぐ近くのところにある映画館にでも行こうかと思い立った。とはいえ気分は優れないまま。とりあえず、一服して考え直そうと映画館の手前にある喫煙所に足を運ぶ。前置きが長くなってしまったけれど、この喫煙所で寸借詐欺に見舞われることとなった。

 

煙草を吸い終わったあたりで、その人に話しかけられた。身長は小柄で160cmほど。少し太めの黒縁メガネに、銀髪のポニーテール。グレーのジャージのようなラフな格好で、バックパックを背負っていた。曰く、フリーランスの(たしか)建築設計士で、コロナ禍で仕事が減っているのもあり、この機会にと広島から東日本各所を転々と旅行しているのだという。それが、急いでいるときにバックパックの横ポケットにスマホと財布を入れたのを忘れていたら、いつの間にかスられてしまい、仕方がないのでとりあえず新宿まで歩いて向かいたいらしい。再び煙草に火をつけるうちに、「新宿まで歩いて行きたいからスマホで道を見せてくれ」→「…よかったら広島まで帰る深夜バスの料金を貸してほしい」と話は発展していく。もちろん、僕だってはじめは怪しいと思った。しかし、物腰の柔らかさや、彼の仕事や最近の時事の話をするに及び、「それなりに知的な職業に就いているが、フリーランスの制約の少なさを活かして旅行を趣味とするポニーテールのオジサン」というのが、とても板について見えるようになってしまった。

それに、僕がこれまで見てきて寸借詐欺というのが、如何にも悲愴な、同情を誘う表情をして、申し訳なさそうに交通費をねだる人たちばかりだったのも災いした。対して、このオジサンは話のディテールが細かく、「警察に行ったけど1000円までしか貸せないと言われた」との泣き言や、「明日絶対に連絡する」といった約束、地元広島の財政やごみの分別の話、自分からマイナンバーカードのコピーを見せて「写真を撮ってもらってもかまいません」とも言ってきた。今思えば、それも色々とおかしいところがあるのかもしれないが、この時の僕は(仮に寸借詐欺だとして、ここまで具体的な話を毎度繰り返して自分の痕跡を残していたら、流石に足がついて捕まってしまうのではないか?=つまり、寸借詐欺ではない?)と、暢気に考えていた。例えば、なぜ財布はスられたのに、マイナンバーカードのコピーだけ都合よく持っているのか。ただの紙切れだ。映画『パラサイト』よろしく、何通りのそれを作ることだって造作もないだろうに。先日の金曜ロードショーでやっていた『パラサイト』を、吹替だからいいやと言わずに再見していたら、シナプスが繋がり、そこで気がつけたかもしれない。

また、決め手となったのはガンダムの話だ。山下公園ガンダムファクトリーに行きたかったというので、「ガンダムが好きなんですか」と返したら、それ以上聞いてもいないのに、いついつまでのガンダムはよかった、最近のナントカってシリーズはダメで、といったことを早口で語り出したのだ。「最初のシリーズは放送当時人気がなくて」という話は自分がなんとなく知っているガンダム知識と一致するし、「あの時自分は小学校の高学年だったからドンピシャだった」という思い出話もマイナンバーカードの年齢と一致するので、迫真性があった。

ところで、僕は顕〇会の勧誘を受けたことがある。高校2年生のとき、塾帰りに本屋で漫画を眺めていたら、「漫画好きなんですか?」と話しかけられた。「大学の漫画友達がみんな最近は漫画読まなくなっちゃって、新しく趣味の友達がほしい」なる話はあまり要領を得ないし、探りを入れてやろうと好きな漫画を聞いても「え~…」だの「ジャンプとか…」だの「最近の漫画は読んでないから、ちょっと趣味が合わないのかも」だのはぐらかしてばかり。明らかにおかしいなと思い、嘘の電話番号を教え、その場は逃れた。顕〇会がアニメイトメロンブックスで、この手のオタクをターゲットにした勧誘をしていると知ったのは、大学生になってからだ。

閑話休題。顕〇会の話は、一応の僕の、最低限の冷静な思考を示すエピソードでもあると同時に、どうして寸借詐欺には騙されたかという一因に繋がる部分だ。つまり、胡散臭い人間の話は総じて胡散臭い、といったイメージが、僕の中に形成されてしまっていた。その点で、あのオジサンがペラペラと一人でガンダムの話に熱を上げる姿は、「本当」のように見えた。「本当」を持っている人間なら、「本当」なんだと思った。というより、信じたかった。これから、いや、今まさに詐欺を働いている人間が、これほど平然と、楽しそうに、自分の好きなアニメの話をすることなんてできようか?、と。まあ、僕はガンダムのオタクではないから、彼のガンダムトークが表面的だと気が付けなかっただけかもしれないが。

 

また、僕が単に、彼の印象に引きずられただけが原因ではないとも、付け加えておきたい。先に書いたように、今日は病院に行ってからめちゃくちゃダウナーな気分になっており、なんというか、心の鎧みたいなものが、きれいに剥がれ落ちていた。件の喫煙所でTwitterのタイムラインを遡っていたら、「コロナ禍で生活に困窮する若者が駅で物乞いをするも誰も目をかけてくれず…」といったタイトルのYahooニュースが目に入った。オジサンに声を掛けられたのは、その直後だった。自分の弱さと他人の弱さが、不思議とシンクロする感覚があった。自分の思考と目の前の情報をリンクさせてそこに何かの意味を見出すのは、陰謀論にも通ずるパラノイアの兆候だ。しかし、その時は、巡りあわせなんていうほどのことでもないけど、こういうことってあるな、と思ってしまった。普段、金欠の僕の財布には2000円も入っていればいいほうだけど、今日はたまたま病院帰りで、6000円が入っていた。横浜から新宿まで電車で安い路線を乗り継げば500円もしないし、新宿から広島までの深夜バスは今の時期なら安いので5500円くらいだろう。オジサンが「6000円貸してくれないか」と言ったのは、もっともだった。なにより、僕の財布には、ぴったし6000円が入っていたのだから。

 

 

〇グーグルで検索したところ、このオジサンは2016年ごろから、ほとんど同様の手口で、都内や横浜近辺を中心に寸借詐欺を繰り返しているようです。警察、何やってんの??????????????

おかしなガムボール~ママさん回まとめ_シーズン1~

「おかしなガムボール」のニコル・ワタソンこと、ママさんのキャラクターが多少なりとも掘り下げられる、ママさん好き的に見どころのある回を備忘録としてまとめておきます。

 

#2「家族改造プログラム」

序盤はあまりママさんに焦点があたる話はない。この回はママさんのワーカホリックっぽいところが少しだけ取り上げられる。

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落ち着かないママさん

ソファに座ってゆっくりしようとするも、落ち着かずに指をぴろぴろ。

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ワーカホリック

家じゅうを3回も掃除したり、わざと花瓶を割って仕事を増やすなど、若干の異常性が垣間見える。

 

#6「空手マスタードの夢」

空手マスターになりたい息子を過剰に心配する回。

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進研ゼミの漫画みたいなセリフ

「あんた他の習い事も続かなかったじゃないの」と進研ゼミの漫画みたいなセリフを言うママさん。ガムボールのハチマキが『ベスト・キッド』仕様。

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妄想癖

まだ常識人キャラっぽいけど、自分の世界に入り込んでしまうあたりのちょっとした「この人大丈夫か?」感が漂う

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幼少期(初出)

幼少期のママさん。かつてタオルをマントに見立てて騎士ごっこをしていたリチャード(夫、パパさん)がクラスメイトたちにバカにされていた経験から、息子の空手マスターごっこを心配していたことが判明。



#10「ダーウィンは天才?」

ちょっとしたきっかけで天才児と間違われたダーウィン(元ペットだけど一応ガムボールの兄弟?)が政府機関に連れ去られてしまった回。

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サイコ顔

ダーウィンに体の色が似ている学校の用務員ロッキーを攫ってきて息子替わりに。

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続く顔芸

ここら辺からママさんの子供たちへの愛情が狂気との間で反復横跳びし出す。


#12「のけものクラブの復讐」

休日に学校で開講されている趣味クラブに参加するワタソン一家。

ガムボールだけ、どこのクラブにも入れず。さらにのけものクラブからは入会を断られた上に、ガムボールに恥をかかすイタズラを画策される。家族をバカにした人は絶対に許せないママさん主導で、ワタソン家vsのけものクラブの戦いがはじまる。

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暴力衝動(初出)

アンガーマネジメントのクラブに通っているのに怒りの暴力衝動が抑えきれないママさん。多分この回からママさんが壊れ始める。

 

#13「ミス・シーミアンのトモダチ作戦

子供たちの通うエルモア小学校の副校長のミス・シーミアンは、生徒からの推薦が必要な「人気賞」のトロフィー欲しさにガムボールたちにすり寄るが…。

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険しい顔

孤独なヒロインを演じて同情を誘うミス・シーミアン。しかしママさんだけ厳しい視線を向ける。

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ツラい過去①

ママさん、実は幼少時からミス・シーミアンにいじめられていた悲しい過去。

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ツラい過去②

いきなり出てきては笑われる。

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ツラい過去③

プロムでも。

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ツラい過去④

結婚式にもヤジを飛ばされる。

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カーチェイス

そんな経験から「ルーザー」と嗤われるのに我慢ならないママさん。ついにミス・シーミアンの企みが露見し、推薦状を巡ってカーチェイスに。

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一件落着

一件落着。笑顔のママさん。




#14「ママの誕生日とスプーン強盗」

ママの誕生日。プレゼントを買い忘れたリチャードは、息子たちに代わりに買いに行かせることにするが…。

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常識人

(こんなに可愛いママさんの誕生日プレゼントを買い忘れるのもどうかしてるんだけど、)夜遅い時間に子供たちだけでプレゼントを買いに行かせる(それも自分ではなくガムボールたちが買い忘れたんだと嘘をついて)リチャードに激怒するママさん。

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スイッチが入ると止められない

スーパーでスプーン強盗と鉢合わせてしまったガムボールたち。追いついたワタソン家全員も参加して強盗と対決。善戦するも追い詰められた息子たちを嘲笑うスプーン強盗を背後からの一突きで倒すママさん。やっぱり「ルーザー」と言われると怒りが爆発してしまう模様。ところで、このスーパーマーケットで色んな商品を利用しながら戦うシーンってアメリカ映画によくあるけど(最近見た映画だと『グレムリン』『ジングル・オール・ザ・ウェイ』『ホット・ファズ』(はイギリス映画だけど)にあった)、日本のフィクション作品では全然見ないよね。

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逮捕

状況的にアウト。

 

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留置場で誕生日

誤ってぶち込まれてしまった留置場で誕生日パーティ。

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最後は拳で

スプーン強盗が捕まりママさんの疑いが晴れる。最後は暴力でけじめをつけさせるあたり、キャラクターが定着してしまった感じがある。


#15「ミスター・ロビンソンの車のナゾ」

ガムボールが洗おうとスポンジで触れただけで大破してしまったロビンソンさんの車。その原因とは…。

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寝不足

毎日遅くまで仕事の上、おそらく家事も担っているママさん。リチャードは規格外のバカということで、ここまではなあなあで済まされているんだけど、流石にニコルが可哀そう。ということで寝不足の中、アナイスに連れられてお出かけすることに。

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ドジっ子

ロビンソンさんの車が大破した原因の一端はママさんがバックするときにぶつけてしまったことだった。一応おバカな夫や息子と比べて常識人的な立ち位置ではあるんだけど、ガムボールのドジっ子・不運あたりの要素はママさん譲りでもある。


#16「余計なことしないで、ママ」

「誰もかまってくれない!」というガムボールの不満を受け、学校に着いてきちゃったママさん。ほとんど狂気。

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おててを繋いで

ここまでコテコテの”ママ”感を出してきたのは初かも。新鮮な回。

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背中を流すママさん

ちょっと、いいの?

これ?

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完全に赤ちゃん扱い

「あ~んして?」とママさん。

 

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結局甘えるガムボール

最初は反発するも後半は甘えっぱなしのガムボール。




#17「ヘルメット争奪戦!」「ティナVSガムボール」

幸運をもたらす銀紙の兜を巡って家族がいがみ合う話。

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抑えきれない暴力衝動

リチャードに騙されていたことに気が付き、会社の面接で大暴れ。『ファイトクラブ』か?

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我を失うママさん

常識人キャラではあるものの、ママさんも”こっち側”であることが示されるシーン。

 

Bパート。恐竜の同級生ティナにガムボールがいじめられているということで、乗り込むシーン。

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この構図何回目?

何かあるとすぐに車を走らせて敵のもとに駆け付けるママさん。

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暴力で解決しようとするな

そして暴力に頼るな。




#18「覚悟を決めて!?」

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暴力を使いこなすママさん

ダラダラする息子を暴力で脅すママさん。

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鼻が利くママさん

息子がレンタルDVDの延滞をしていることに気が付く。

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運動神経抜群

ママにバレてビビる息子との追いかけっこ。

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ハグ🤗

仲直り。

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蛙の子は蛙

破壊したDVDの弁償代25ドルに加え、延滞料金700ドルも請求されて逃走するママさん。やっぱり蛙の子は蛙。

 

以上シーズン1。

2020年に見た映画とか②~『ナイブズ・アウト』『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

〇『ナイブズ・アウト』

 去年に『トイ・ストーリー4』の感想で書いたことと大体おなじ。まあ『グラン・トリノ』ってことなんだけど、アメリカの魂がWASP的なアメリカの手を離れて新しいアメリカ人に受け継がれていく話が好き。それは必ずしも新しい移民がアメリカナイズ(=WASPの作り上げたアメリカ社会の既存の規範に同化していくこと)されることと同義でなく、人種や性別、文化の壁を越えてふたりの魂の通じ合う世界が立ち上がる瞬間の感動であって、その世界を埋めるものが各自の思い描くアメリカ的理想なんだと思う。

本作の中でも、個人的に好きなシーンは、マルタと囲碁をしていたハーランが、負けそうになって碁盤をひっくり返すところ。素直に見ればヤケを起こすヤンチャな老人なのかというシーン。なんだけど、ハーランが”ちゃぶ台をひっくり返す”人間であると示しているのは意外と重要かもしれない。それは彼が看護師のマルタに遺産を相続させたこととも地続きだから。では、それとは何かというと、フロンティアスピリットや猟官制のメタファーではないだろうか。自らの故郷を捨て、まっさらな荒野の大地に踏み出した先人たちへの賛歌であり、大統領の入れ替わりに伴って多くの公職者がごっそりと入れ替わる社会システムのラディカルさであり、要するに、全く新しい状況に飛び込んでいけるアメリカの”自由”さそのものである。

Twitterで政治ウォッチャーみたいなオタクが本作を「最近の(なんかマイノリティがいい思いして白人が悪し様に描かれる)ポリコレ映画」とクサし、当然映画館に映画なんて見に行かないオタクたちがそれをリツイートしているのを見てひどく気分を害されたことがあったが、そんな感想は表面も表面しか見えていない人間の戯言だ。むしろ『ナイブズ・アウト』は、今日的な政治的?状況にあってこそ、アメリカの揺るがないオリジンに立ち返り、それを継承することで、統合していく過程なのだ。

 

〇『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語

若草物語』の何度目かの映画化。監督グレタ・ガーウィグで主演シアーシャ・ローナンの『レディ・バード』座組。

この映画を見て分かるのは、とにかくグレタ・ガーウィグが信用できる人間だということ。自分が原作を読んでモヤっとしたところをちゃんと解消してくれるので、「解釈、一致!」と叫びたくなる。言わずもがな、その頂点はラスト。例えば少年漫画でもそうだけど、とりあえず出てきた主要な男女のキャラクターを、まるでパズルゲームでもしているかのように、なんとなく適当な組み合わせで結婚させていく最終回というのは萎えるものである(シャーマンキング、ナルト、ブリーチ、最近だと鬼滅の刃とか)。本作は、ジョーの結婚という結末の虚と実を曖昧なものにして幕を閉じることで、その種の結婚規範、と強い言葉を使うまでもなく、じゃじゃ馬で自由に振る舞うジョーが社会に取り込まれていくことの納得できなさをひっくり返してくれる。

しかも、それを一切乱暴に感じさせることなく、上手に着地させる点に、グレタ・ガーウィグの手腕が光る。原題は『Little Women』(つまり「若草物語」)であり、邦題の『ストーリー・オブ・マイライフ』というのが、やや冗長で説明的に感じるのだが、しかし、本作の性質をそれなりに表していることも事実である。時間軸をシャッフルして、ジョーが家族やローリーたちと過ごした半生を振り返りながら「若草物語」を書くに至るまでを描くこの映画は、まさしくナラティブに依って立つ物語だからだ。そして、ナラティブであればこそ、「ジョーは結婚したのか否か」をジョーの語りの中において曖昧に濁すことが自然な作劇足り得ている。こうしてみると、去年のアカデミー賞で(本作は日本で公開前だったからなんとも言えなかったけど)これが脚色賞も脚本賞も逃したのが不思議でならない。

また、シアーシャ・ローナンはじめ、キャスティングが善いのも本作の魅力のひとつ。ボブ・オデンカークが出てくると嬉しいとか、ティモシー・シャラメがニクいとか色々あるんだけど、個人的に注目すべきはフローレンス・ピューの妹力(いもうとぢから)。フローレンス・ピュー演じるマーチ姉妹の四女エイミーは、一応小学生くらいの年齢設定。のはずなのだが、1996年生まれのフローレンス・ピューは、どうみても小学生に(中学生にも)見えない。学校の教室のシーンでは、周りは相応の小学生くらいの子役が座らされている中で、一緒になって座っているけれども明らかに浮いているフローレンス・ピューの可笑しさは、正直今年見た映画で一番面白かったかもしれない。しかし、姉妹の間でじゃれ合っているときの、小生意気で子憎たらしい、けど天真爛漫で可愛げのある末っ子ぶりは、中々目を見張るものがあって、普段は姉派で鳴らしている自分としても認めざるを得ない妹力(いもうとぢから)だった。昨年のアカデミー賞において、『ストーリー・オブ・マイライフ』から演技の賞でノミネートしたのがフローレンス・ピューだったというのも納得である。