日記⑥

再開

 

8/9

引っ越しをするにあたり意識を高めるためNetflixで『KONMARI~人生がときめく片づけの魔法』を見始めたんだけど、思いのほか発見がある。

まず、Twitterなどで揶揄されているようなこんまり像がほとんどでたらめというか、”断捨離”や”夫のプラモデル(あるいはその他オタク趣味)を勝手に捨てる妻”みたいなざっくりしたネガティブなお片付けする/させてくる人イメージを勝手に当てはめて、なんだか気に食わない人=叩いていいものとしているだけなのが分かった。

こんまりの言っていることは基本的に「ときめくものを取っておきましょう」─ときめかないものは捨てましょう、ではない点は重要─だけであって、またメソッドを伝授した依頼人に片づけを全て任せているし、押しつけがましいところはないと言って差し支えないだろう。語り草になっている「ぬいぐるみは目を隠せば心理的な抵抗がなくなり捨てられる」というメソッドだって、どうしても捨てたいけど捨てられない人に紹介している方法に過ぎないし、「情を殺して捨てまくれ」てな話ではない。もちろん、スピリチュアルっぽさとか、あまり入れ込みすぎると厄介だなと思わせる部分もあるのだが。

とはいえ、僕はこんまりについて広く調べたわけでもなく、単に『KONMARI~人生がときめく片づけの魔法』を見て、ある雑感が湧いたというだけの話だ。それが何かというと、なぜこれほどアメリカでこんまり人気があるのかについての納得である。

個人的な感覚に過ぎないかもしれないが、アメリカにおけるこんまり人気は日本のそれを大きく上回っているように見えるし、やっぱりそれは彼女のスピリチュアルっぽさがZEN的な、東洋の神秘的な感じで受容され、ウケているのだと早合点していた。しかし、同ドキュメンタリーを見ていると、いや、これはむしろ、こんまりメソッドがはじめからアメリカ的なエッセンスを備えていたのだと思えてくる。少なくとも、そうしたマーケティングがなされていることは確かだ。そして、そのアメリカ的なエッセンスとは、恐らくプラグマティズムだろう。

実際、こんまりは「いい部屋とはこういう部屋だ」とか「できるだけモノを少なくしよう」とか、そういった観念的なことは言わない。あくまで、ときめく片づけの技法を説くだけである。そして、このドキュメンタリーは、その片づけを通して顕現するものをこそ映しとろうと努めている。それぞれのエピソードに出演する依頼人たちの、部屋が片付いていくことにではなく、部屋を片付けていくことに喜びを感じている様は、それをよく表している。家に溢れ返ったモノを一ヶ所に集め、そのひとつひとつを手に取り、自分にとってときめくか─必要とも大切とも違う、しかし自身への確かな有用さとしてのときめき─どうかを判断する過程。その中で自分の人生や生活、家族との関係を見つめなおすことに、このドキュメンタリーの主題はあるのだ。また、その個人的なストーリーは、社会性を帯びてもいる。具体的には、大量消費社会の問題であり、家庭における性別役割分業の問題であり、子育て・教育の問題であり、等々。

片づけという実践から得られるもの通して自己に対する理解を深めること。その自己を覆い隠していた社会への批評を通してアメリカの生を問い直すこと。事程左様に同ドキュメンタリーは、プラグマティックな営みとしての片づけを視聴者に投げかけるものだ。

もっとも、こんまり受容の日米における差異とか仰々しく言うほどのこともなく、単に日本の家が狭い上にアメリカほど消費主義が猛威を振るっていないから、というだけかもしれない。このドキュメンタリーは恐らく一般的な中流階級の家庭を舞台にしているけれども(まだ全話見ていないので確証はない)、普通の家でもかなりの広さだし、そこにバカみたいな量の服やら靴やらが詰め込まれている様は中々壮観だ。とはいえ、今日日ヘンリー・デイヴィッド・ソローよろしく、「簡素に賢く暮らせ、所有物は重荷だ」といって、最低限の家に最低限の所持品を求めるのは、すこしリアリティに欠ける。すると、持たないことではなく(ときめくものを)持つことを説くこんまりの哲学は、資本主義とうまく折り合いをつけたいアメリカ人にとってぴったりなのかもしれない。

 

8/10

『返校 言葉が消えた日』を見た。事前に予想していたよりも、全体主義の恐怖がホラー的想像力に接続するような演出が少なく、もっと言えば、怪奇映画のテイストを期待して劇場へ向かった自分としては、舌が違ったというか、まあゲームの方をやっていないのでなんとも言えないけど。では、この映画のジャンルが何かと言えば、「心霊映画」というのが相応しいように思う。幽霊はなぜいつも女の姿をしているのか。と、問いを投げかければ、様々な回答が得られるだろう。ともかくも、幽霊は女の姿をしているし、この物語は少女(ファン・レイシン)が幽霊となる過程を克明に描いている。少女の時を止め幽霊に縛り付けたのは全体主義だったわけだが、その恐ろしさをドラマ的にだけでなく、ホラー的に見せてくれたらもっと良かったとは思うが。

 

8/11

発狂。

 

8/12

オルダス・ハクスリー『知覚の扉』は、フェルメールの静謐さの正体を突き止めているという一点だけでも読む意味があった。僕は美術史にそう明るいわけではないが、何故か昔からフェルメールが好きで、確かな実在感とはうらはらの、あの静けさと透き通った空気から郷愁めいたものを覚える筆致に惹かれてやまない。それは、カメラ・オブスキュラを用いた故の写実性とか、技術的な部分によるところもあるのかもしれない。しかし、フェルメールの持つ静謐で透明な実在感は、ハクスリーに言わせれば「<仏法>即ち生垣」であり、彼岸─ありのままの宇宙に遍在するもの自体の美しさへと接近する「非自我」の質感なのだろう。

 

8/13

『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』見た。『GotG』シリーズと同様、やはり疑似家族の話に収斂していくジェームズ・ガン

主要キャラクターが交流を深めるのに比例して各々のキュートさも際立つ(天使の子猫ちゃんみたいな名前のクラブで遊ぶシーンが最高)半面、ただそのバイブスが楽しいだけにとどまらず、しかしこれは”スーサイド・スクワッド”で、つまり最後まで誰が生き残れるのか保証はないんだよな……、というサスペンスがにも活きてくるあたりが周到。つらい。

この映画、登場人物のほとんどがどうしようもない人間─スクワッドの面々は言うに及ばず、アメリカ政府の人間も、舞台となる架空の中南米の島国の人間も─だが、ソイツらが”正義”のために何かを為そうとするとき、決まって口に出すセリフが「子どもを殺すなんて見過ごせない」。何度も何度も繰り返されるセリフの、そのバカバカしいまでのわざとらしさは確かにギャグなんだけど、一方でこの映画を貫く揺るぎないヒューマニズムの象徴でもあって、最後にはちゃんと感動させられる。

『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』はスーサイド・スクワッド映画史上の最高傑作。今すぐ『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』を見ろ。

ただ、ジェームズ・ガン印の疑似家族ムービーであるため、ハーレイ・クインのオブザーバー参加感は否めず、彼女がいなくても成り立つ話にはなっている─実際、劇中のほとんどを通して、本命スクワッド/捨て駒スクワッドの中で生き残ったハーレイの二つのプロットが並行して描かれる─点で、惜しさを感じないかと言えば嘘になる。とはいえ、ハーレイにもビジュアル的に最高な見せ場が容易されているので、バランスはよくできている。

 

8/14

ひっさしぶりに中野ブロードウェイに行って、もっと何かあるだろうと思ってたんだけど、マイ・リトル・ポニーのおもちゃなりぬいぐるみなりを置いている店がほとんどない。数年前に巡った原宿でもそうだったんだけど、あるとしたらレトロでアンティークなデザインのおしゃかわグッズとしてであって、G4(最新シリーズ、少なくともあと1カ月の間は)のそれはほとんどない。

 

8/15

部屋の片づけをしていて発掘した『PSYREN─サイレン─』を読んでたら一日が終わった。みんなもうゼロ年代のジャンプの話だけをして今後の人生を過ごさないか?もうゼロ年代のジャンプの話だけをして今後の人生を過ごしたい人は僕にメールをください。

『竜とそばかすの姫』、好きくないじゃないじゃないじゃないじゃないじゃないじゃない

細田守のアニメに共通している居心地の悪さのひとつの要因は、キャラクターに対するピントの合わせかたにあると思う。居心地が悪いといったって、それはお前の感想だろうと言われたらその通りなのだが、しかし、キャラクターの描き分けにおいて、これほど解像度の差異がハッキリしていると、なんだかわざとらしいし、よそよそしい。

一方で多面性を持ったキャラクターの複雑さを、まさにその複雑なままに描こうと努めているかに思ったら、他方で非主要キャラクターに対する扱いは、割り当てられた役通りのセリフを読み上げる機械かのようなぞんざいさが目に余る。悪い奴は悪い奴なりの雰囲気をたたえてるし、ダサい奴はダサい奴なりのセリフを吐く。

それは監督の作るアニメの寓話的な語り口と無関係ではないだろう。近代小説が自我を抱えた登場人物を描くのに対して、古典の物語(寓話、神話、詩など)で語られるそれは行為の遂行者に過ぎない。細田アニメの主人公たちを見比べてみても、性格の掘り下げの程度はあれ、その精神の内奥の葛藤が描かれるよりも、放り込まれた状況の中で戸惑いながらも一歩を踏み出すという典型的かつシンプルな成長譚(つまりは貴種流離譚のヴァリエーション)の主役として配されているといった色のほうが濃い。そして上述したように、非主要キャラクターにあっても、その描写は類型的というかステレオティピカルだ。例えば今作『竜とそばかすの姫』では、学校のアイドルであるルカを廊下から眺める女子生徒たちに、如何にもモブ然とした口調で「ルカちゃん可愛い~」「本当にスタイルいいよね~」みたいなセリフを言わせてみたり、すずが幼馴染で学校の人気者であるしのぶと付き合っていると思い込んだクラスメイトたちに、如何にも感じの悪いいじめっ子女子然とした口調で「調子乗ってんじゃねーよ」「色気づきやがって」みたいなセリフを言わせてみたり、ここら辺のあまりに学園ドラマのクリシェをなぞった演出には頭がクラクラしてくる。やはり、王は王であって奴隷は奴隷であるという、神話よろしく与えられた役割の遂行者として描かれるにすぎないのだ。

しかし、最初に前置きしたように、一定のキャラクターの掘り下げにはそれなりの筆を割いていることも確かで、それについては具体例を出す必要もないだろう。個人的には、反対に、”モブ”以外の境界線というか、上述したクラスメイトたちに見られる無批判なカリカチュアライズの筆致を弱めるラインがどこにあるのかに注目するほうが意義深いように思う。ではその境界線がどこに引かれるのかというと、やはりこれも雑感になるのだが、監督が「ここに共同体がある」と認識した範疇に入るかどうかで分かれているんだろうなと感じる。「細田守はいつも血縁の話ばかり描いていて保守的で云々」といった類の批判を聞いたことはないだろうか。自分も以前なら全面的でないにしろ、同意する部分のあった主張だ。でも、今回『竜そば』を見て気が付いたのは、この男は血縁の話が描きたいのではなく、実際家族の話は多いので分かりづらいが、本当は、根っこのところでは”共同体”についての話がやりたいのであって、そのありふれたパターンとして血縁関係が出力されているだけなんだと思う。一言で言えば、共同体フェチ。

特にその傾向は『時をかける少女』よりも後の作品に顕著で─『時かけ』以前は既存のIPだからか、主張という主張は目立たない。とはいえ、『デジモン』の2作は子供たちの世界を、『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』ではそれぞれの海賊団のファミリーとしてのあり方にスポット当てている点で、通底している何かはある。『時かけ』では単に主人公を中心とした人間模様のグラデーションでしか読み取ることはできないように思うが─、それぞれの共同体の例としては、『サマーウォーズ』では陣内家、『おおかみこどもの雨と雪』では田舎の人々、『バケモノの子』では渋天街に生きる獣人たち、『未来のミライ』ではくんちゃんの家族といった具合だ。そこでは、主人公とそれを包摂する共同体に対して、カリカチュアでは済ませない意図を持ったまなざしが感じられる。

また、『竜そば』との対比で考えるなら、『デジモン』の2作において子供たちの世界=インターネットとして、『サマーウォーズ』では血縁に基づく共同体としての陣内家と対になる、人間がヴァーチャルに繋がる共同体としてOZが描かれていたことは重要だ。

諸々のインタビューなどを読むと、時代が変わりインターネットで起こる問題も深刻になっているので、楽観主義が反映されていた『デジモン』や『サマーウォーズ』から、その負の性格をも切り取った『竜そば』へと、インターネットの描き方を変えている(しかし、ネット=悪とは描いていないことには注意すべきだ)、といった趣旨のことを細田守監督は言っている。だが、本当にそれだけだろうか。ステレオティピカルなモブ描写の例として今作のいじめっ子たちを挙げたが、そのいじめというのはLINEを模したメッセンジャーアプリで行われていた。他にもすずが仮想世界”U”に住まうユーザーたちから悪意のある言葉を(直接的にであれ、間接的にであれ)をかけられる場面が何度も何度も反復される。いじめっ子たちにしろUのユーザーたちにしろ、その言葉というのが、やはり如何にも悪いネット住民ですといったイメージのそれで、そりゃそういうヤツもいるだろうが、あまりにも平板かつありきたり、それこそ「踊る大捜査線」とかに出てきたような古式ゆかしいネット住民のイメージとダブるくらいで、インターネットの負の部分を描くにしろもっとやりようはあるんじゃないかと言いたくなる。しかし、そのステレオタイプさこそ、ここでは注目に値する。

事程左様に、『デジモン』や『サマーウォーズ』においてはフラットなインターネット描写が見られたわけであるが、その理由は上述のように、インターネットを共同体と見なす細田守のスタンスから生まれたものなのである。それが、『竜そば』にいたって、インターネットは冷淡なステレオタイプの範疇に片足を踏み入れ、共同体の地位を剥奪されたわけだ。とはいえ、それはなにも細田守の感性のみによって導き出されたことではないだろう。むしろ、スマホSNSが普及して以降、もはやインターネットは特別な何か=共同体として弁別可能なそれではなく、現実と地続きな人間の集合としてしか描き得ない時代だということを、するどく嗅ぎ取った監督としてのセンスの賜物である。『竜そば』は、現代にインターネット=共同体が成り立たないことを悲観するが、インターネットの中に個別の共同体の成立の契機があることを希望とする物語なのだ。

こうしてみると、細田守監督作にみられるキャラクター描写の濃淡は、その寓話的な語り口と、共同体に対する愛着の裏返しが要因に思えてくる。

とはいえ、寓話的であるからダメだというのではない。むしろ、子供、具体的にはティーンエイジャーまでに狙いを絞ったような物語を作ろうと意識しているその様は、大変好ましくもある。いつか片渕須直監督が「日本のアニメは後期思春期向けの話ばかりやっていて子供向けの作品をちゃんと作ろうとしない」「ガラパゴス化していて恥ずかしい、実際そんなだから世界の映画賞からも評価されていない」とインタビューで言っていた。この言葉にどこまでの妥当性があるかは判断しかねるが、僕としても共感できる部分はある。そうすると、世界の映画賞で評価されている細田守監督(『未来のミライ』はアカデミー賞長編アニメーション部門ノミネート、『竜とそばかすの姫』はカンヌでワールドプレミア上映)は、逆説的に、やはり子供に向けたアニメをちゃんと作ろうとしているのだと言えよう。個人的には、『バケモノの子』の前半とか、『未来のミライ』の東京駅のシークエンスとかに、子供向けをちゃんと作ってる雰囲気を感じて、とても好きだ。なんとなく懐かしい香りがする。

と言っておいてなんだが、その子供向けのお話を語ろうという意識が空回っていることもままあり、そこが細田守を推しきれない原因のひとつでもある。例えば今作では、世界に立ち向かっていく子供たちというジュブナイル感の演出をしたいがために、児童虐待の現場に女子高生が一人で(夜行バスで四国から東京まで)乗り込む(それも単に暴走してるんじゃなくまわりの大人がそれを後押しして送り出し!)というちょっと倫理的にアウトな展開や、虐待にあっている児童が主人公の行動に影響を受けて前向きにこれからの人生を歩んでいくというこれもやっぱり道徳的にアウトな決着が繰り広げられる。言わずもがな虐待は、虐待にあっている子供の頑張りや心持ちでどうこうするものであっていいはずがないし、そうすることを美談として語ってしまうのは、クリエイターとしてどうかは知らんが、いち大人としてあまりに無責任だろう。

なんだか細田守の評価が二転三転するようなことを延々と書いていても仕方がないのでこのあたりで終わらせようと思うが、結局お前は細田守を好きなのか嫌いなのかと問われれば、どの作品も今回のブログのタイトルみたいな気持ちで見ているというのが僕の答えです。

 

日記⑤

7/19

ルックバックの話がしたいけどルックバックの話はしたくない。

個人的なことを言えば、落書き小僧だった頃の記憶が奔流のように溢れだしてとてもつらくなった。小学生のころは、今からは考えられないほど、漫画を描くことに取り憑かれていた。では、なぜ落書き小僧を卒業したのか。中学生になって、自分よりも絵の上手い人がこんなにいるんだなと思い知ったことが、たぶんその一因かもしれない。

そういう意味で、その作品の内容や出来とは別のところで、読者にそれぞれの過去を振り返らせる(ルックバック!)恐ろしい漫画であることは確か。

 

7/20

『プロミシング・ヤング・ウーマン』の居心地の悪さ。

この映画のエッセンスは、オープニングの場面のあと、路上を歩いて家に帰るカサンドラが作業着を着た男たちにヘラヘラと声を掛けられるシーンにある。声を掛けるというのは性的なからかいでありいやがらせ─Catcallと言われるそれ─なのだが、そのまま立ち尽くしたカサンドラは彼らをにらみつけ微動だにしない。すると男たちは「何見てやがる」「はやく行け」「冗談じゃねえか、本気にしやがって」と狼狽えはじめる。

『透明人間』がそうであったように、この映画でもジェンダーにおける権力勾配を、見る─見られるの関係の中で捉えており、また時にそれを転倒してみせることで、観客にメッセージを伝えようとしている。本作の結末に対してそれぞれ意見はあるだろうが、最後にチャットアプリで送られる「終わりだと思ってない?いえ、今はじまったばかり」というメッセージは、まさしく映画を見ていた観客に向かって宣言することで、上映時間の間ずっと傍観者であった我々に居心地の悪さを感じさせるそれだ。

 

7/21

最近イライラすること。

〇「朝シャンはハゲる」という言説。調べてみると多くの点で「朝にシャンプーをすること」がハゲに繋がるのではなく、「夜にシャンプーをしないこと」がハゲの原因になることが分かる。したら、「朝シャンはハゲる」じゃなくて、「夜シャンしないとハゲる」というのが適切だろうが。僕は朝シャンしないのでどうでもいいっちゃどうでもいいけど。

〇「化調(および化学調味料を使った料理)は不味い」という言説。化学調味料とはすなわちうま味調味料である。つまり、うま味成分をして我々の舌のうま味受容体を刺激してくるのだから、不味いわけがないのだ。化調は不味いは嘘だ。もちろん「化調を使ってない料理のほうが美味しいor好き」という言い方は成り立つ。というか、僕自身がそういう意見だから。例えばラーメンなら、化調を使っていない店であれば、いかに化調を使わず美味さを引き出すか、多様な材料の複雑な味を組み合わせてスープを作っているわけで、そこには重層的な味わいが生まれるはずだ。対して化調は、結局化調の平板な味わいでしかなくて、美味いけど美味いだけなような感じがする。スープを飲んでいても、醤油ダレだったり煮干しだったり鶏や豚だったりの味が引き出されてるから美味いのではなく、化調がうま味成分を持ってるから美味いだけであって、何を食べているのか分からなくなって気さえする。何が言いたいかと、化調の不味さという無理のある言葉で食い物を語るのではなく、それぞれの食材の美味さにおいて化調の限界を見定めることのほうが、筋が通っているのじゃないでしょうか(なによりそうしないと化調は美味いし健康に悪くないという反論を許すことになる)。ちなみに僕が一番好きなラーメンは「地球の中華そば」の塩そばです。(今日久しぶりに食べに行って前々から化調について考えていたことを思い出した)

 

7/22

小林某の”ユダヤ人大量惨殺ごっこ”が軽薄な不謹慎ネタだったことは言うまでもないが、それが即刻の解任によって埋め合わせられるべきものだったのか、あるいはその悪質さとは如何ほどか、僕には言明できないし、多くの人にとってもそうだろう。実際に他人に危害を加えていた小山田のそれと異なることはもちろん、露悪的であるもののホロコーストをよろしくないものと扱ってはいるネタである点が、その判断基準を難しくさせる一因だ。とはいえ、今回フォーカスされたホロコーストギャグには二つのレイヤーでの軽薄さが備わっていると、個人的には思っている。

一つには、日本のドメスティックな軽薄さである。端的に言えば、閣僚が「ナチスの手口を見習え」と言ってもなんらお咎めを受けない社会の、全くの考えなしにアイドルにナチスの軍服風の衣装を着せてしまう大人たちの、軽薄さだ。

今回の件でサウスパークが引き合いに出された言説をいくつか目にしたが、サウスパークラーメンズ当該コントの決定的な違いというのはここにある。良しにつけ悪しにつけ、サウスパークのギャグがレイシズムやアンチセミティズムに対する批評性によって裏打ちされたものであることは、当シリーズの視聴者であれば首肯してくれると思う。対して、”ユダヤ人大量惨殺ごっこ”はどこまでいっても些細な不謹慎ギャグでしかなかった。

その表層だけを上滑りしていく露悪の表象は、ナチスヒトラーに対するあまりに浅薄な取り扱い(ギャグとしてでさえ、である)の許されるこの国特有の現象のように思われる。

次に考えたいレイヤーの軽薄さは、恐らくサウスパークにも関わるものだ。ヒトラーを真正面から扱ったエポックメイキングな映画に『ヒトラー~最期の12日間~』がある。本作自体は硬派な政治劇であるのだが、まさにエポックであったがために、ある種のタガを外すきっかけとなってしまったことに特徴づけられる。というのも、これ以降にヒトラーをカジュアルに扱う映像作品が急激に増えたからである。それというのはもちろん、「総統閣下は〇〇にお怒りのようです」と題した一連の動画群に見られる、この映画のパロディ動画を含むものである。

ここでその是非を問おうというのではない。そうした動画にしても、見方を変えればヒトラーを笑いものにしているわけであるから、なにもナチスを賛美しているわけではないだろう。しかし、からかいという行為は親密性を前提としたものでもある。その点から言えば、『ヒトラー~最期の12日間~』以降の文化状況は、ヒトラーナチスに対する心理的ハードルを著しく下げたものに変容してしまった。そうした社会において、ポップカルチャー的カジュアルさが政治的カジュアルさにいともたやすく接続し得ることを示したのが、映画版『帰ってきたヒトラー』に映しとられた街頭インタビューの数々ではなかったか。仮に批評的な意図があったとしても、ある事象をカジュアルに表象する営みが、我々の認識枠組みを変容させる可能性。くしくも『帰ってきたヒトラー』が日本で上映されたのは、相模原市津久井やまゆり園で植松聖があの大量殺戮を繰り広げるおよそ一ヵ月前であった。

ユダヤ人大量惨殺ごっこ”は戦争犯罪や差別の問題に誠実に向き合ってこなかった日本社会の軽薄さの反映といって差し支えないだろう。しかし、政治や歴史に一家言ある人間の、多分に批評的な意味付けのなされた不謹慎ネタであろうと、そのスタイルが、軽薄が軽薄である故にもたらされる不幸の可能性が存在する。そこに考えが至るとき、やはり小林某に対する、こうした不謹慎な笑いに対する、自らの過去のふるまいに対する批判的目線の必要を感じざるを得ない。

 

7/23

オタクだからどうしてもサブカルチャーの視点で考えてしまうんだけど。今回のオリンピックの開会式では、普段クールジャパンだなんだと言いつつも、精々ゲーム音楽を選手団入場のBGMにしてやろうくらいにしか、自国のポピュラーカルチャーを信用していないのだろうなということが分かった。

しかし、恐らくそこに何かの意図が働いていたわけではないだろうと思いつつも、あの”安倍マリオ”との比較はやはり印象的だ。良かれ悪しかれ、というか主に悪しだと思うが、ともかく新しい政治状況を演出してみせた前首相と、ことコロナ禍において旧態依然のそれを思わせる現首相との対比。もちろんクールジャパンだなんだと言いつつクソみたいなハリボテ政策をやっていたのは安倍その人であるのだが。批判的な人間すら揃って「チンポを見せろ安倍晋三」だのとじゃれて見せるほどに大衆的人気を集めていることが個人的には全く理解できなかったのだが、なるほどである。欺瞞であれポップカルチャーをまとってみせる人間。かたや、形だけ取り繕ったまじめ風な開会式の開催される時代を象徴する人間。

とはいえ、いわゆる「MIKIKO案がよかった」的な議論をしたいわけではない。むしろ、その形だけのイベントに諸々のカルチャーが取り込まれなくてよかったとすら思う。同性婚は絶対に合法化しないけれどレインボーのドレスで着飾ったMISIAに国歌を歌わせ、おぞましい人種差別(入管など国家ぐるみで)がまかり通っているのにも関わらず大坂なおみ聖火ランナーのトリをまかせるような、形だけ取り繕ってイマドキぶってみせる最悪のイベントに。

 

7/24

ファイト・クラブ』で”宿題”を出されたメンバーの一人が道行く人にホースで水を掛けるシーン、リュミエール兄弟の『水をかけられた散水夫』じゃん

 

7/25

細田守の映画全部見た。

通しで見ると作家性がダイレクトに伝わってきて、この監督本当にホンモノなんだなと感慨を新たにした。あるインタビューによれば、宮崎駿はレイアウト至上主義であり、押井守もそのイズムを受け継いでいるという。その意味で言えば、細田守もまた、レイアウトに忠実な作家の一人であろうし、現在最も正統なアニメーション監督と言えるかもしれない。

細田守のアニメに特徴的なのは、正面、もしくは真横からキャラクターを映す引きのショットを多用するところである。そうした抑制的なカメラは、淡々とキャラクターのアクションを観察することに終始する。すると必然的に、鑑賞に耐えうる秀逸なレイアウトが求められることになる。また、この監督は同じショットの反復─ときにそこに描写される背景やアクションの微妙な差異─によってストーリーやキャラクターを物語るのを好む。その積み重ねから生み出されるのは、バシッとキマったショットの中でバシっとキマったアクションをさせる(=そこにおいて物語る)という、アニメーションの快楽原則をこれでもかというほどまっとうに果たしてみせる映画だ。

実は20日に諸事情で4度目の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見たのだが、4度目ともなるとかなり冷静にスクリーンを眺めることができ、また細田守集中週間との対比の中で、この映画が(個人的には色々あって好きだけど)傑作の風格を欠いた作品である理由というのも見えてくる。その一因は、やはりレイアウトに対する執着の欠如にあると思う。落ち着いて見られるようになると際立って感じられはじめたのは、『シンエヴァ』があまりにもシャカシャカとカットを割ることだった。異常なテンポで不必要なほどカットを割る。その度にどうでもいい角度で、どうでもいいクローズアップで、どうでもいいものを映す。ハッキリ言ってうっとうしい。それで何がしたいのかも分からない。異常にカットを増やした結果目立つのは、女の尻が大写しになるその異常な回数だけである。いや、いいショットだってあるのだ。でも、「このショットいいな」と思った瞬間、すぐにカットが切られてしまう。いいだけに、そのもったいなさが悲しい。

なぜ、そうした事態が起こるのか。プリヴィズによって自由度が格段に上がったことの弊害かもしれない。もしくは、モーションキャプチャーによって実写に近い映像表現を取り入れたことの副作用かもしれない。つまり、『シンエヴァ』の新しい挑戦の数々はアニメーションの表現の可能性を広げたのかもしれないが、アニメーションの快楽の原形を損なわせてしまったのかもしれない。

実際、どれほど『シンエヴァ』に印象的なショットがあっただろう。なぜ、この映画からは旧劇に満ち満ちていたフォトジェニーを感じ取ることができないのだろう。あれだけたくさんカットを切れば、一見したときの、劇場用アニメとしてのゴージャスな雰囲気や、完結作に見合った景気の良さは演出できるかもしれない。しかし、どうしても気持ち良くはない。

逆に言えば、である。細田守の作品の内容に対する好悪や評価はそれぞれあれど、この監督の作るアニメーションの気持ちよさだけは常に確かである。この1週間細田守の監督作を見返したことで、『竜とそばかすの姫』を見るのが楽しみになったのはささやかな幸運だった。

 

 

日記④

7/12

BLM運動における銅像に対する異議申し立てへの考察。の追記。

ある種の人間は、リー将軍だったり並み居る大統領だったりの銅像が攻撃されることに怒り、そして攻撃するものを嘲笑する。しかし、異議申し立てのあることそれ自体が、特定の人物の銅像が必ずしもナショナルな記念碑たり得ない事実を示している。また、そうたり得ないことは、特定の人物を象った銅像が無謬の記念碑としての不可侵性を欠いていることの証左である。

言い換えるならば、異議申し立てを受けている時点でその銅像は、少なくともナショナルな記憶・感情の共有・継承といった意味で、役目を果たすことのできない無用の長物に過ぎないのだ。

なぜそうした事態が起こるのか。「無名戦士の墓」との対比で考えてみればいい。「無名戦士の墓」に入るのは、奴隷制を擁護する人格者の将軍でもなければ、奴隷農園を営む偉大な建国の父でもない。存在しないが故に完全である、我らが”アメリカ人”の偶像に他ならない。

 

7/13

 ハリウッド映画が所謂ポリティカル・コレクトネスに気を使っていて、とくに人種マイノリティ描写なんかでは、それをごくごく自然かつ上手にストーリーの内側に着地させている作品も増えていることに異論はないだろう。しかし、それでも変わらないな~という部分はあって、たとえば『ブラック・ウィドウ』におけるロシア人描写のテンプレ加減なんかがそれだ。最近ではほかにも『Mr.ノーバディ』のロシアンマフィアがコテコテのロシアンマフィアでちょっと食傷気味に感じた。

もちろん、同じMCUにしても『エンドゲーム』の日本描写が『ブレードランナー』から変わらないイメージで流石にどうなのとか、『ブラックパンサー』もアフロ・フューチャリズムといえば聞こえはいいけどエキゾチシズムの枠を出ないんじゃないかとか、前から目に付く部分はあって、そこには地続きの何かが存在しているように思う。

それが何かというと、アメリカニズムの問題だ。アメリカニズムとは、アメリカにおけるナショナリズムの在り様というか、植民地国家であり多民族国家であり、伝統的な文化(もちろん言語も含む)や境界を持たない国家としてのアメリカにあってナショナルネス─国民であること、そのあり方─を規定する価値観である(古矢旬の研究を確認されたし)。究極的なアメリカニズムのイメージはWASPと呼ばれる、白人でアングロサクソン系でプロテスタントの宗派を信奉する者こそアメリカ人であるというそれだろう。しかし、今日では、人種や宗教に基づいてある集団を排除しようとすることが(少なくとも表立って(とトランプ時代以降を生きる我々が言っていいのか分からないが))受け入れられないように、そうした凝り固まったアメリカニズムは解体されていると言ってようだろう。

一方で、Qアノンに見られるユダヤ陰謀論のたぐいは、現在でも驚くほどの影響力を持っている。その理由の一端は、直接的な人種や宗教に対する憎悪というよりも、ユダヤ人がアメリカ国家ではなく、ユダヤ教ユダヤのネットワークに準じているというイメージに由来する。 たとえば、かの黒人に対するリンチで有名な秘密結社KKKは、1920年代、特に東部や中西部の活動において反カトリシズムを明確にしていた。それはカトリック教徒が、アメリカ国家ではなくローマ教会に準ずる、アメリカ的価値観への同化を拒む存在と捉えられたからだった。

つまり、シチリアマフィアや上記のロシアンマフィアに顕著なステレオティピカルな描写は、単に視点が「アップデート」されてないのではなく、根本的に、アメリカ国家ではなく組織に準じているために、ある種のイタリア人やロシア人をアメリカニズムの範疇と見なしていないことから生じている。であれば、日本やアフリカの国を描く上で、そこに誠実な想像力を働かせる動機が消えうせるのも当然だ。ハリウッド映画におけるポリティカル・コレクトネスとは、アメリカ人をアメリカ人と認める限りにおいて発揮される包摂の一形態なのだから。

 

7/14

フルット読み返してるけど、この漫画の無職描写のソリッドさを無職になったことで改めて感じた。石黒正数、初期も結構な高頻度で短編描いてるからあまりそんな感じを受けなかったけど、大学卒業してから連載持つまでの5年くらいはだいぶ鬱屈としてたのかな。

 

7/15

ライトハウス』よかった。『ウィッチ』のほうが好きだけど。どっちにも共通するけど、動物の禍々しさを扱うのが非常に上手い。

 

7/16

吉田大八の映画が面白い。まだ『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』だけは見てないけど、それ以外はどれも自分の好みにあったストーリーを描いている。そのエッセンスを端的にまとめるなら、日常と非日常の綱引きとでも言えるだろうか。たとえば、恐らく一番有名な彼の監督作『桐島、部活やめるってよ』と『騙し絵の牙』は、とある出来事をきっかけに平穏な日常が音を立てて崩れていく話だ。また『クヒオ大佐』と『紙の月』では、その裏返しとしての非日常への憧憬が強く表出している。『パーマネント野ばら』と『羊の木』、『美しい星』の三作は、日常に対する倦怠感と同時に生活者への温かい目線が感じられる点に、綱引き度合いの高さが窺える。

唐突だけど僕は「フリクリ」と「だがしかし」が好きだ。それは日常と非日常の綱引きを描いているからだ。毎日毎日代わり映えのしない景色にがっかりしているので、当然のごとく非日常に連れ出してくれるヒーローを求めているんだけど、最後はニナモやサヤ師のほうを向かなきゃ、ちゃんとしなきゃと思い出させてくれる。

とはいえ、吉田大八の映画は自分の趣味にあっているから面白いのではない。日常と非日常の綱引きというのが、本質的にサスペンスであり、スリリングであるからだ。退屈な日常を飛び出して非日常に足を踏み入れることは、ワクワクする冒険であるだけでなく、未知の世界に身を投げ出す恐怖でもある。じわじわと生活が変容していくドラマといえば静的な印象を与えるが、慣れ親しんだ日常で何が起こるか分からないということほど恐ろしいものはない。そして、吉田大八監督の、その慣れ親しんだ日常を描くことに長けている手腕(『桐島、部活やめるってよ』の自然主義的な演出はその白眉だろう)は、(もちろんそれ単体でも味わいがあるが)そうした物語構造を扱うにあたってこの上なく効果的だ。

 

7/17

平山夢明の短編集『独白するユニバーサル横メルカトル』を読んだ。

僕とこの本の因縁は7年前、高校3年生のころまで遡ることができる。その日が雨だったのか晴れだったのか、暑かったのか寒かったのかも思い出せないけど、予備校をサボって学校帰りにマックでダべっていたくらいだから、まだ受験の緊迫感もさほど高まってない春先の出来事だったと思う。なんということはなく、友達とポテトをつまみながら雑談をしていて、どういう流れだったのかは忘れたけど、その時すすめられた本が『独白するユニバーサル横メルカトル』だった。その異様な響きを持つタイトルに引っかかりを覚えたものの、「受験が終わったら読むよ」と生返事をしてまたポテトをひとつ口に運んだのが最後、悲しいかなそれは記憶の引き出しの奥にしまい込まれてしまった。

次にこの本と出会ったのは2016年。大学の先輩から映画に誘われた。場所は渋谷アップリンク、映画のタイトルは『無垢の祈り』。「無垢の祈り」は『独白するユニバーサル横メルカトル』に収録された一編で、これはその実写映画である。この段になると流石に平山夢明の名前と彼がホラー小説家であることくらいは知っていた。しかし、ホラーものがすこぶる苦手だった僕が手を伸ばすわけもなく、映画を見に行くにあたってググった情報から、『独白するユニバーサル横メルカトル』が彼の作品であると認知し、やっぱり読んでおくべきだったかなと思ったことは覚えている。映画の内容については触れないが、川崎の、灰色の工場地帯と、そこから排出される煙によって染め上げられた灰色の空で、スクリーンいっぱいに広がる息苦しさが印象的だった。ちなみに、映画館を出てすぐに、先輩がお腹が空いたと言ってケバブを買って食べはじめたのを見て、すごいなと思ったこともまた、未だに忘れられない。(なぜすごいのか、映画のあらすじを読めばだいたい察しがつくと思う)

して、なぜ今日まで読まなかったのかと問われても明確な理由はこれっぽちも存在せず、故に、なぜ今日になってようやく読んだのかを語るほうがよほど生産的だろう。といっても、そこにだってまともな理由なんてものはなく、単なる偶然にすぎない。何を隠そう、フォロワーのツイートしていた本棚の写真の中に、『独白するユニバーサル横メルカトル』の背表紙を認めたからである。またか、と頭を抱えた。もちろん、2007年に「このミス」1位を獲得している本作だから、それはいたるところで目にしたって不思議はないんだけど、こう度々偶然が飛び込んでくると、三度目の正直というか、仏の顔も三度までというか、なんとなくこれを逃したら穏やかじゃないような気がしてくる。その運命的な不吉さに恐れをなした僕は一路紀伊國屋書店へと急ぎ、とうとう本書を手に取ることと相成ったのだった。(しかし、買ってから実際に読み始めるまで2カ月を要した)

 

7/18

細田守の映画全部見る。に着手した。

未来のミライ』、横浜が舞台だけど特に横浜っぽさを感じないのが、喉に魚の小骨が引っかかったようなアレさがある。

日記③

7/5

思弁的な人間は構造を置き去りにする一例。

東浩紀が、政治的に正しいリベラルエリートが儲けて権威的な指導者を求める大衆は搾取されてる、という趣旨のネット論客に影響を受けたアニメアイコンの大学2年生みたいなことを言っていた。しかし、例えばアメリカの事例を見ると、トランプ支持者のほうが高所得であることは調査によって明らかになっている点で、独り歩きしたイメージをこねくり回した痴れ言あることは明白だ。

都市部のテック産業の従事者など高所得で「リベラル」な層が存在することや、主流メディアやアカデミアなどの内部にいる社会的地位が高く発言力のある人々が概ねの傾向として「リベラル」であるのは部分的に事実であろう。しかし、事程左様に、歴史的に構築された複雑な構造の上にある社会を論じるにあたって、現実の状況から目を逸らせるような戯画化された二項対立を持ち出す必然性は存在しない。

では、なぜある種の人々はそうした行動に走りたがるのか。身も蓋もないことを言えば、それこそ、彼らのくさす「論壇」が、(とくにアメリカ社会の分析に顕著だが)あっちを向けば「二極化」こっちを向けば「分断」などど盛んに言い立てるからに尽きるように思う。論壇内の、「分断」をテーマに政治を論じるゲームにはしゃいでいると切って捨てることもできるが、文壇に身を置く人種というのが、実際の構造とその複雑性に向き合うのではなく、空想的思弁にふけることが癖になってしまっていることに根本的な問題がある。

もちろん、実際の構造がどうであれ、意識の次元において「分断」がリアルであると感じられていることが問題であり、その認識フレームが再帰的にリアリティとしての分断を生み出す(さながら予言の自己成就のように)ことにこそ注目すべきだという主張はあり得る。とはいえ、それこそ、「分断」と分断を架橋する現象に対して、机上の空論やウケのいいカリカチュアなどではない、抑制的な分析の目線でいることが重要であるのは言うまでもない。

 

ゴジラvsコング』の小栗旬、絶対オイシイ役なんだろうな~と思ったら、扱いの酷さになんともいえない気持ちになった。なんかレジェンダリー?ワーナー?の日本に対するファンサービスでしかないのかな。それか東宝の要望とか。

それを言うと、そもそもゴジラ側のプロットは全体的に薄味。コングが主人公だからとか、ゴジラは意思疎通不可能な存在で人格化しづらいとか、色々理由は考えられるけど。それでも最後はヤンキー漫画みたいに拳を交えて強敵(トモ)になる展開になり、『キングコング対ゴジラ』の煮え切らない感じよりは良かったと思う。

 

7/6

『RUN』かなりタイトで引き締まった映画だった。よくよく思い出すと舞台も限定されていて大小発生するイベントの数も少ないし、かなりあっさりしてるんだけど、それでいてちゃんとしたジャンル映画を見た感触は確かにある。

そのサクサク感の理由のひとつは、娘がちゃんとしていること。母親は娘を自分に縛り付けるため毒を盛って障がい者にしてしまうわけだけど、理想の母娘を演じることが目的なために、理想の母親として振る舞い、理想的な(頭のいい、要はちゃんとした)娘に育ててしまい、結果ちゃんとしているが故に毒を盛っていることがバレてしまうというジレンマ。

一方で、薬局に向かう場面や部屋から屋根伝いに脱出する場面など、ここぞというイベントでしっかりとアクション、サスペンスを仕上げているのが上手く(車椅子で横断歩道を渡るシーンの子気味良さ、地味にずり落ちながら屋根を這うあたりの気の利いた演出)、総じて質の高いジャンル映画としての満足感がある。

父親(この場合は母親の夫のほう)の不在が気になる(明かされてなかった気がする)けど、良しにつけ悪しにつけ、そこは気にせずフェミニスト批評的な文脈で母娘関係を見るのが正解っぽい。

 

7/7

 日本人男性や白人男性が「行き過ぎたアイデンティティ・ポリティクス」や「政治的トライバリズムの到来」とかいった言葉をこれ見よがしに唱えてみせることへの違和感。(これは僕の偏見だろうか?そうしたことを言いたがる人のほとんどは、都市在住で、中産階級のホワイトカラーで、大卒で、日本人男性、もしくは白人男性である。)

 そもそも、ある一群の人々にアイデンティティ・ポリティクスを志向させる根本原因はなんであろうか。なぜ、彼ら彼女らはアイデンティティを自身の政治的テーマの第一義とするのだろうか。人種、宗教、ジェンダー。それらアイデンティティに向き合うことを余儀なくされる構造が存在しているはずだ。逆に言えば、である。それは日本で、あるいはアメリカにおいて、大卒の、中産階級に属する日本人・白人男性が、とりわけアイデンティティの問題で思い悩まずにいられる構造だ、

この問題は有徴/無徴の考え方を用いることで簡単に整理できる。一般的にいって、アイデンティティポリティクスに参与する人とは、日常生活を営む上で、自らのアイデンティティがまさにそれであるが故に不利益を被った経験のある人たちだろう。

たとえば、この国で同性婚が法的に認められていないことは、人間は異性を愛するのが”普通”であり、婚姻関係は異性間で結ばれるのが”普通”であるという価値観にもとづき、婚姻制度を”普通”の異性愛者に限定したことの帰結である。”普通”とはすなわち、無徴であるということだ。特異なアイデンティティ─徴を有していない、無色透明で規格の内に収まった存在。そうした”普通”の人々は、特異なアイデンティティを有している(と見なす)”普通”ではない存在を、自己と切り分ける。そこで構築される”普通”のシステムは、”普通”ではない人々の存在を想定しないものとして出来上がる。特異な存在として、有徴の存在として切り分けられた同性愛者は、そこにおいて自身のアイデンティティを絶えず自覚させられ、そうしたシステムに変更を迫る政治的主体として声を上げるに至るのだ。

それはなにも大げさな政治システムに限られたことでなく、日常の作法においてもそうである。女流作家とか女性監督とか女医とか言っても、男流作家とか男性監督とか男医とはわざわざ言わないことを思い起こせば理解は容易い。男であれば、それは単に作家であって監督であって医者であって、余計な修飾─徴を付け加える必要はない。肌の色を見れば、Whiteが”普通”であるのに対し、Colored はさながら真っ白なキャンバスに余計な色を塗り付けられた有徴の存在である。

事程左様にアイデンティティポリティクスとは、”普通”の範疇から排除され、有徴としてまなざされるマイノリティが、その徴としてのアイデンティティを如何に引き受け、”普通”のシステムに対し如何に変革を求めるかという運動である。であるならば、日本人男性や白人男性が、そうしたマイノリティへの最大限の擁護を伴わずして「行き過ぎたアイデンティティポリティクス」だの「政治的トライバリズムの到来」だのうそぶいてみせることは、畢竟ポジショントークとの誹りを免れ得ないだろう。

(もちろん、ジェンダーや人種の問題が大いに経済的問題でもあること、その相互作用を見定め、文化的論争にとどまらない再分配の在り方についてリベラル勢力がよりはっきりと論じるべきだと主張することの妥当性を否定するものではない)(また、文化的論争ばかりが、少なくともメディアの表層において、中心的議題となることが、白人至上主義に類するマジョリティ側のアイデンティティポリティクスを引き起こしているのではないかと批評することについても同様である)

ちなみに、僕が「異常独身男性」というミームに対して、強烈な拒否反応を覚える一因もこういった文脈の中にある。そう名乗りたがるオタクの多くは、四年制大学を卒業し、まずまずの企業に勤めるホワイトカラーであって、異常というには規範に沿ったライフコースを辿っている人間だ。また、20代男性の未婚率は70%である。くわえて、言うまでもなくこの社会は、特に勤め人であるなら尚更だが、男性であることをデフォルトとして設計されており、そこであえて独身であること・男性であることを強調し自身の有徴性を嘆いて見せるのは全く筋違いだ。

自身の生きづらさを、自身の生きづらさとして、自身の言葉で話せ。そうした上で、その生きづらさが男性性に起因するものであると気づきを得たならば、また別の道が開けるだろう。しかし、もし、単にオタクインターネットに蔓延るホモソーシャル風土の中で、無批判にミームをコピーしているだけならば、その「異常独身男性」とは「キモカネ」や「弱者男性」、その裏返しとしての「そんな私にも理解ある彼くんがいます」といった悪意にまみれた稚拙なミームの自虐的ヴァリエーションに過ぎないことを自覚すべきだ。

 

7/8

バケットハットを買った。無職になってからなんとなく近所の人の目が気になりだし、できるだけ”普通の人”に擬態したほうがいいなと思い始めたので。あと帽子被れば寝ぐせとか直さずにコンビニ行っても大丈夫だし。

 

マックチキンナゲットの焦がしにんにくラー油ソースめちゃくちゃ美味しいです。

ただマジで辛くて夜お尻が崩壊(こわ)れた。

 

7/9

家に帰って袋を開けたら買ったのと違うバケットハットが入ってたから取り替えてもらいに行った。それを選ぶ会話の流れも詳細に記憶しているので間違いないと思うんだけど、いざ店員に「??こちらのLサイズを購入されたんですか?」みたいに聞かれると、(あれ…?鍵閉めたっけな…?)的な心理に陥り、自分が勘違いしてるだけで店員が間違って入れたわけじゃないのではないかと頭がグルグルしだす。まあ取り替えてもらったけど。

 

平日の昼間にブックオフで立ち読みしてる人間、身なりや表情からしてこう、””虚ろ””を醸し出していて、なんだかつらくなった。(それを観測している俺もまた……)(無職である手前、やっぱり出来るだけ醸し出す””虚ろ””を希釈しなきゃいけないなという思いを新たにした)

 

7/10

本当に良い喫茶店、ココアの味で分かる説

 

7/11

失踪日記』のアル中病棟編、病棟を仕切ってる謎のシスター(ヤクザもビビらせるスキンヘッドの巨漢を従わせている。どうやら本当はアル中でもなく、潜入捜査をしているらしい。急に芝生でゴロゴロし出す。)のキャラクターがよすぎる。

 

日記②

6/29

思弁的になりすぎるとよくないという当たり前のこと。だいたいにして、その思弁を突き動かすのは煮詰まった自意識だったりする。それ自体は結構なのだが、自意識から出発した思弁の末に出力されるものは、やっぱり自意識に返ってくるところが難点。

例えば、政治的社会的なマターについて考えるとき、諸個人の理性(あるいは感情。あるいはその弁証法的な構図。)の問題にばかり執着する様を見ることになる。そこでは、構造の問題が置き去りにされる。歴史が忘れ去られる。それぞれのマターによってグラデーションはあれど、歴史的に構築されたシステムの上に成り立つ社会の、それも具体的な問題について論じるときにそうした態度でいることは、はたから見れば空回りだ。

(レヴィ=ストロースサルトルを批判した構図ってそういうこと?)

 

6/30

クワイエット・プレイス』。公開当時から絶賛されているのは知っていたけど、「どうせあれでしょ?静かなところにいきなりバンッ!!!って出てきてギャーーー!!!!!みたいな感じでしょ?」と思い、元々ホラーが苦手なのもあって見送っていた。けど、アマプラに追加されてるのでようやく見た。

いざ見始めると、序盤から避妊問題が立ちふさがるなど、結構リアリティラインが低め。やっぱりそうしたツッコミも多いようで、ググると粗さがしレビューみたいなブログがわんさか出てくる。ただ、絶賛とボロクソで評価が割れるのも分からないでもなく、硬質な演出と演技、ファミリードラマに対し、ジャンル映画的な奔放さ(的というか、モロにホラー映画なので当然なのだが)が併存しており、そのあたりで各人の期待との(良い意味でも悪い意味でも)ミスマッチの余地が生じているんだと思う。

個人的には、ファミリードラマが硬質なだけに、実際粗さが目立ってしまう部分があるのは否めないと感じた。ロケットのオモチャ云々の前にガキを走り回らせるな、こんな状況じゃなくったってそれくらいの歳のガキとは手を繋いで歩くだろ、とか。何か袋に引っかかってるんだから横着せず下に降りて外せ、釘じゃなくても無理に引っ張って袋破けたり反動で転んだりして大変なことになるだろ、とか。歩くとき壁に書けてある写真の額縁に一々触るな、もし外れて落ちたらどうすんだ、とか。一言でいえば、緊張感のピントとでもいうものが時々定まってないというか、徹底されてないのが気にかかる。

ただ、最後のショットガンをリロードしてエンドロールに入るところがよかったので、終わりよければ全てよし的な感じで、まあ悪くなかった。(2を映画館で見るほどじゃないかなあ)

 

7/2

イギリス映画はイギリス英語(と言ったらイギリス人が発狂しそうだけど、実際多くの日本人にとって耳馴染みがあるという意味でスタンダードなのはアメリカ英語だろう)に注目して見ると面白い。

ピーターラビット2/バーナバスの誘惑』を見たのだが、バーナバスはピーターを”ピーッア”というふうに発音していて、恐らくこれは労働者階級に見られる発音だと思うのだけど、イギリス人であればここでバーナバスが湖水地方出身でなく、ピーターたちに嘘をついていることが分かるようになっているのかもしれない。

 

7/3

BLM運動などに見られる銅像に対する攻撃を所謂歴史修正主義と同一視する人間は浅慮がすぎる。前者は表象される歴史に対する異議申し立てであって、事実に反した歴史の読み替えである後者とは決定的に異なる。

公共空間において、我々の歴史を象徴する人物であるとか、我々のコミュニティが語り継ぐべき人物であるとかして顕彰される銅像は、それ自体が権力を生み出す装置であり、暴力性を備えている。それは、そうした銅像の建立された時代である近代を通して、政治的主体として(何を、如何に記念碑として顕彰するのか判断をする)社会に参与する道を断たれ、断たれていたが故に銅像の象徴するナショナルなナラティブに包摂され得ないマイノリティの立場においてである。

つまり、これまでナショナルヒストリーの構築から排除されてきたサバルタンとしてのマイノリティと、公共空間に記念碑を打ち建てて─歴史記憶の場を占有して─きたマジョリティとの分断を直視する過程として、銅像への攻撃は(ラディカルであれ)必然的な帰結にすぎない。とくに多文化共生社会であるアメリカでは尚更だ。

然るに、人々の歴史記憶の象徴たる記念碑に対する暴力的な抗議を攻め立てるならば、人々に象徴すべき歴史記憶を押し付ける記念碑の暴力的な機能にも目を向けなければ、単なる空虚なマジョリティのポジショントークでしか在り得ないだろう。

 

 

 

見たぞ!2021年上半期の動物映画まとめ

①新感染半島 ファイナル・ステージ

KCIA 南山の部長たち

③スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち

 

④花束みたいな恋をした

猫映画。二人が社会人として型にはまった生活をはじめる前に飼うのが猫というのが如何にも。

 

⑤シン・エヴァンゲリオン劇場版

猫映画。これが、猫。これが、可愛い。

なぜ犬でも鳥でもなく、猫である必要があるのか。ストレートに解釈すれば、人間と共同生活を送りながら決して交わることのない存在として、猫とチルドレンを重ねているんだとは思う。(アスカがそういうこと言ってたよね)

しかし、本作が絶えず繰り返し母性について描いていることを考えると、また違った視点も生まれてくる。というのも、猫は昔から女性として表象されてきた動物だからだ。(ワンコくんや子猫ちゃんがあっても、その逆はあまり聞かないだろう。)

f:id:metasiten:20210703192449p:plain

猫の姿をしたエジプトの女神バステト

もちろん、猫撫で声とか猫かぶりとかいった慣用表現が指し示すように、猫は信用できない、男を惑わす妖艶な女性として表象されることも多く、もしかしたら、猫=女性と聞いてそういったイメージを思い浮かべる人のほうが多いかもしれない。一方で、ビクトリア朝時代のイギリスをはじめ、猫を母性の象徴として描く潮流も存在している。

f:id:metasiten:20210703210104j:plain

童謡『三匹の子猫たち』(1843年)のイラスト

例えばエリザ・リー・フォーレンによる童謡『三匹の子猫たち』の中では、ミトンを失くした子猫たちを厳しく躾けつつも優しく育て上げる理想的な母親としての猫が描かれている。それには、飼い主の指示のもと活発に仕事に従事する犬と、飼い主の役に立たず家でだらだらしている猫というイメージが、ヴィクトリア朝的価値観に合わせて「仕事=犬=男/家庭=猫=女」と再解釈された背景がある。

まあ、現代日本においてそうした性規範と結びついた犬/猫描写がどれほど残存しているかというと、そこまで強固なものではない気もする。しかし、本作がくどいほど母性について描いていることと、NERVのワンコくんとの対比を通して考えれば、シンエヴァにおいて子供を産み育てる動物として猫が選ばれている理由に関して、上述の歴史的表象が影響を与えていると見ることは、さほど的外れでもないように思う。

 

⑥あの夜、マイアミで

⑦ミナリ

 

⑧フィールズ・グッド・マン

カエル映画。自分も幼少期からカエルが好きだったので、ペペの作者に感情移入して悲しくなっちゃった。ペペはなんてことないキャラクターだが、なんてことなさ、つまり空っぽの記号であるが故に、悪意のもとに自由に意味付けされてしまう(=オルトライト)。けれども、意味を塗り替えることもできる(=香港)。ポップカルチャーの持つ希望と絶望。

 

⑨パーム・スプリングス

⑩騙し絵の牙

 

⑪隔たる世界の二人

犬映画。主人公が飼っているのが猫であれば、「別に帰らんでもいいだろ」となるよね。家で主人の帰りを待つワンちゃんという磁力。それに、何度も何度もトライ&エラーを繰り返す主人公の必死さは、猫の軽やかさとはミスマッチなので、やっぱり犬である必然性が存在する。

 

ノマドランド

犬映画。序盤、Amazon倉庫の駐車場でフランシス・マクド―マンドが行き場のない犬を撫でるシーンがキュートかつ、彼女の人柄を表してもいる点で秀逸。ここで撫でるのが猫であったなら、また違った意味合いが生じるはずだ。自由奔放な猫と、鎖に繋がれた犬。勝手気ままにネズミを狩る猫と、主人のハンティングのために働く狩猟犬。彼女の旅路が自由奔放なバカンスでも勝手気ままな放浪でもないことの裏返し。

 

アンモナイトの目覚

アンモナイト映画。シアーシャ・ローナン

 

⑭愛してるって言っておくね

サンダーフォース~正義のスーパーヒロインズ~

 

⑯オクトパスの神秘:海の賢者は語る

タコ映画。人生に行き詰まったら動物と触れ合え。

 

⑰ビーチ・バム まじめに不真面目

猫映画。規範に縛られず自由気ままに生活する男が(犬ではなく)猫をお供にするというあたり、分かりやすい猫表象の例。「最初つまんない。イルカウォッチングのところまで退屈」と正直に言うあたり、町山智浩が嫌いになれない理由。

 

⑱ミッチェル家とマシンの反乱

 

⑲ザ・ホワイトタイガー

トラ映画。ではない。

 

⑳ジェントルメン

㉑ファーザー

 

㉒アーミー・オブ・ザ・デッド

トラ映画。実際トラ、というかネコ科であることは意味を持っていて、仮にゾンビ犬が出てくるとすれば、本来人間に従順な動物である犬が理性?を失い牙をむいてくるというギャップに恐怖が喚起されるので、本作のように知能を持ったゾンビを扱うなら、元々人間に制御不可能なネコ科の動物のほうがイメージに合うのかもしれない。

 

㉓映画大好きポンポさん

 

㉔Mr.ノーバディ

猫映画。『ジョン・ウィック』が犬映画だったのに対し、同じ制作陣の集まった『Mr.ノーバディ』は猫映画だというのがミソ。それは、単にそれぞれの殺し屋の携えるペットが犬であり、猫であるというだけでなく、キャラクターやストーリーの方向性にも表れているのが面白かった。

たとえば、両作品ともに所謂「舐めてた相手が実は殺人マシンでした」映画なのだが、この手の映画は主人公が輩に舐められて舐められて舐められて、大事なものを失うなどの一線を越えられてようやく爆発することでカタルシスが生じるストーリーラインが一般的で、実際『ジョン・ウィック』もそうなっている。一方、『Mr.ノーバディ』はというと、大して舐められていないし、大事なものも失ってもいない。ラテン系の強盗カップルへの逆襲にしろ、直接的なきっかけとなるバスでの乱闘にしろ、わざわざ主人公のほうから火の中に飛び込んでいくし、舐められを誘っているのだ。

ここに犬と猫の対比が顕在している。忍耐は犬の美徳だ。その目に哀愁を漂わせるジョン・ウィックは、妻の形見であるペットの犬を失うことで、それまで耐え忍んできた悲しみが閾値に達し、溜めに溜めたフラストレーションを解放させていく。対する『Mr.ノーバディ』のハッチ・マンセルは、実に気まぐれだ。上述したように、ラテン系の強盗カップルもロシアンマフィアも、厳密には向こうから絡んできているとも言うことはできるものの、バイオレンスな事態へ発展させるのは常に主人公の側である。それに、ハッチ・マンセルが闘いに身を投じる主な動機となるのは、日常生活の中で感じている欲求不満なのだ。子どもたちから尊敬されない。妻はバリバリ働いてるのに自分はしがない工場でしがない事務仕事をしている。叔父さんは軍隊上がりのマッチョで、お隣さんは高級車に乗るナイスガイ。繰り返しの毎日にうんざりしている中年男性。”猫を被って”生活しているけど、本当は凄腕の殺し屋なのに……。というわけだ。

大して舐められてもいないし、ツラい思いをさせられているわけでもないのに殺人マシンと化す主人公へ感情移入できるのは、そうしたファミリードラマを下敷きとしているからなのは間違いない。一方で、そうした家庭での鬱憤とその解放を描く本作は、マチズモを無批判にストーリーの軸に据えている点で、かなり居心地の悪い映画でもある。この主人公は、己の男としての強さを誇示するために強盗やマフィアにカチコミをして、その結果家族に危険が及ぶことを省みないからだ。そして、そのような身勝手さ、軽薄さこそ、この映画が猫映画たる所以でもある。

ただ、それでも見る価値があると思えるのは、ボブ・オデンカークが主役をやっている一点に尽きる。とくにブレイキング・バッドとベター・コール・ソウルを見ている人なら、かつてリッチな弁護士だったオデンさんがシナボンの従業員として冴えない生活を送っている姿がフラッシュバックしてやっぱり応援しちゃう。

 

㉕劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

キリン映画。舞台をテーマにしたアニメなのに電車という映画的な装置にフォーカスして利用するセンスがよかった。